120 アインとパック
おしなべて、人間は危機的状況に陥ると疑い深くなるもので、それは幽霊でも同じと見える。
「それなら、その第一責任者ってのを出してもらおうかなー」
獣医が、頭上から見下ろしてパックに意見する。
「いっやー、そう言われてもなー。知らないし、誰だか。大凡見当はつくけどな」
確かに、千葉県中を騒ぎの渦中に放り込んでも、何事も無かったかのように日常を熟していられる人間が、二人ばかりここには住んでいる。
その一人であるあおい君が、今回の避難指示について怒りの矛先をパックに向けているとなれば、残るのは朱莉ちゃんだけだ。
丁度のタイミングとしていいのだろう、アインがフラッとテラスに現れ、二足歩行長靴を脱ぎ棄て、ゴロゴロやりだした。
知識と言語を自由に操る生物になっても、猫の習性はそのままのようだ。
ただ、五本指手袋は付けたままで、鼻をホジホジしたり耳をカキカキしたり。
使い勝手がいいらしい。
「おい、猫。アイン! しらばっくれてないで、今回の避難指示ってのは、朱莉ちゃんが関わってるのか、何がどうなってるか知ってるだろ」
利口になったとは言え、元をただせば畜生だ、猫だ。
いかに信頼されていても、俺達でさえ知らされない事までの事情通とは思えないが、とりあえず声を掛けてみる。
「おぬしらが騒ぎ立てる気持が、分からんでもない。知っている事なら教えてやる。どうして吾輩がこの計画について知っているかは追々教えてやるとして、アホタレ、御前が余計な事を言うものだから、吾輩を見て山城の爺が泡をふいているぞ、まずはこの事態を何とかしてやれ。吾輩が処置してやってもいいが、気づいた時に閑念して心臓まで止められては困る」
つい今しがたまで、パックや幽霊を見ても平気でいたのに、猫で卒倒するとは親分もヤキが回ったものだ。
あおい君とキリちゃんが慌てて介抱すると、何とか一命は取り留めたが、二足歩行でうろつく五本指の猫が日本語を話すのには、心肺機能が耐えられそうにない。
一段落つくまで病室に寝ていてもらうとした。
「久蔵の店で同じ様な話しがあって、ついさっきまでそこで暇つぶしをしていたのだがの」
こう口上して、店の様子などを話し出す。
「どうやっても民族の大移動である。片付かない所が何か所か出て来るのは仕方ない。それも後々出て行ってもらう方向で計画が進んでおる。結局決行は二ヵ月ばかり先になるであろうな」
俺達が昨日のうちに聞いた避難どうこうについて、長々と語って終える。
「そんな事を聞いてるんじゃねえよ! 朱莉ちゃんが第一責任者なのかどうかって聞いてんだよ」
気の短い獣医が、イラッとしてアインに迫る。
「もっと詳しく知りたいなら、ほれ、そこでボンクラしているパックに聞け。と、久蔵は言っておったぞ。これ以上の事は知らん」
確かに、知っている事は教えるとして始めたのだし、知らない事までは言えない。
「久蔵も最近になって知ったらしいがの、そいつは随分と前から磯家と山武家に憑りついていてな、色々と仕出かしている張本人である。久蔵よりずっと前から生物をやっていての、地球の始まりまで知ってるのだぞ」
「そんな事なら、俺でも知ってるわい。ただな、こいつはどうやったって虚けだぞ。こなんのがこの世をどうこう出来る筈ないだろう」
毎日の様に頭上に現れてはフラフラとだけしている奴の、やる気は俺が一番知っている。
一言、憑りつかれている者としての意見を伝えてやると、生意気にもアインが言い返してくる。
「と思うだろ、吾輩もそう言ってやったわい。そうしたらの『あいつ一匹ならそうだがよ、何だか大勢いるらしいぜ、あんなのが』と言うておった」
「そうだよ。エネさんの一部だよ。自分が何者かもよく分かっていないんだよ」
こんな馬鹿猫に、質問した俺はもっと馬鹿だと気付いた。
ここは直接、朱莉ちゃんに聞いた方が良いだろうと判断して、真ん前の俄作り神社に出向いてみる。
神社では朱莉ちゃんが忙しく面接表を作り、代金として二千円徴収すると「あちらへどうぞ」
卑弥呼が受け付けている祝詞サービスへ案内する。
客には「料金は、お気持ちで」と言っているが、受付表の最上段には【千五百円以上が縁起の良い数字とされています】でかでか書いてある。
役所より乱暴な労働時間厳守は長蛇の列をものともせず、十時の休憩とした札で窓口を閉め「あー、疲れるー」と肩をもみ乍ら、自販機で缶コーヒーを買おうとする二人。
忙しい時に余計な仕事と思える質問攻めをすると、核のスイッチを押すのさえ躊躇しない精神状態に見える。
ここは端的に疑問を吐いて、素早く診療所に帰るべきだ。
「朱莉ちゃん、今回の避難指示って、君が出したのかな?」
缶を銜えたまま振り返る朱莉ちゃんと卑弥呼が、キッとこちらを睨み付ける。
どうやら、すでに限界を超えている様子で、この質問がお気に召さなかったようだ。
「私じゃないもん。パックに聞けばー!」
責任回避の為の虚偽答弁と勘ぐれなくもないが、この期に及んで隠している意味などない筈だ。
責任者問題をうやむやにして、誰が指示したのか聞いたのだが、パックに聞けばとされると、いよいよ頭上のオタンチンが仕出かしていると疑うしかなくない。
「おーい、パック君。御前が主犯みたいになってるんだけど、そこん所はどうなってんだ。適当にはぐらかすんじゃないぞ」
捕って押さえるのが困難だった奴だが、ここの所やけに容易く捕獲できるようになっている。
ひょいと頭を掴んで意見してやると、ミツバチ印の羽をブンブンさせて体を左右に振り、飛んで逃げようとする。
「逃げるんじゃねえー! お前に居なくなられたら、俺の病気が悪化するだろ」
「それが分かっているなら、もっと丁寧に扱え。馬鹿野郎! こう見えても俺は壊れ物だぞ。ガラス細工並みに繊細なんだぞー」
つい感情的になって、自分の寿命を縮める行為に走ってしまった事を反省はしても、こいつの正体が繊細だとは認めたくない。
「お前の状態なんかどうでもいいんだよ。俺が今知りたいのは、避難命令を出したのは誰なのかって事なんだよ」
「知らないでもないけど、今、直接本人に聞いたばかりだぞ。きっぱり否定されているのに、まだ俺に聞くかな。素直に『はい、私が親玉です』なんて答えてくれるとでも思ってるのかよ。トンチキ」
確かに一理あるが、朱莉ちゃんはあんなに上手く嘘がつける人間ではなかった。
それが、ここ数日で性格から行動表現まで、すっかり別人になるなど絶対にあり得ない。
もはや誰を信じていいのか、いつもの混乱が二乗になって頭の中を駆け巡る。
「朱莉ちゃんだけど、朱莉ちゃんじゃないのよーん」
うっかり忘れていた変態お姉さんの一人が、幾分酔った風にねっとりすり寄ると、耳元で大声をもってして教えてくれる。
「なんで、お前らが、ひよっとしたら、極秘中の機密事項みたいのまで知ってんだよ」
「そりゃ知ってるわよー。命がけで宇宙に出て行って、地球の危機を救った功労者よ。英雄なのー、私たちー」「キャ! 良いわねー、英雄って響き」
「す・て・きっー」
すっかり自分に酔っている。
ナルシストも、ここまでくれば表彰ものだが、褒めてやる気にはなれない。
「御前達が宇宙に行ったのは、あの棺桶みたいな機械の中に入って、しっかり性転換したかったからだけだろうが」
いつか言ってやろうと思っていた本音が、ポロッと出てきた。
「あーら、しっつ礼ねー。それは気持ちの八割でー、地球の為にも二割は有ったわよ」
一人が、わざとらしく、ほっぺをプクッっと膨らまして、怒っているぞとポーズする。
「それは言い過ぎですわーん、一割くらいじゃなかったかしら、私達の全部足して割ったら、そんなものよー」
「そうねー、あたしはー、地球がどうなっても良かったものねー」
もとから、見返りがなければ他人の指示に従わないのが決まりの人生に、輪をかけて我儘な性格の者ばかりだから、当然の結果ではある。
しかし、よくもこんな連中と猫に任せっきりで、地球の一大危機を救えたものだ。