109 二足歩行猫
「やっと来てくれたー。暇なくせして、いつになっても来ないから心配してたんだぞー」
俺の精神に何の断りもなく、突如現れた朱莉ちゃんが、無防備な背後から声をかけてくる。
「べっくらこいたー。いきなりおっきな声を出すなよ。心臓が緊急停止しちゃうだろ」
振り向くと、アインが朱莉ちゃんの隣に二本足で立っている。
こんな場面に遭遇した記憶が、脳裏でチョロチョロしている。
あの時はクロに、地下都市はもっと凄い事になっていると言われている。
しかし、あれしきでは精神と知識の準備をできないのが俺の脳だ。
これらの事実と今の状態を、総合的に観察して診断すると、あまりの驚きに幻覚が見えている。
「ごめんね」
素直に朱莉ちゃんが謝ると、アインも一緒にペコリと御辞儀する。
よくしつけたものだと感心してばかりはいられない。
これが現実か虚像かの確認が最優先事項と悟り、朱莉ちゃんに突飛な質問を浴びせてみる。
「隣にアインが二本足で立ってるかな」
「うん、居るよ」
「猫が二本足で歩くのが、そんなに珍しいか」
アインがぶっきら棒に問い掛けて来る。
同席しているのは、実像としてのアインだとまで確認できたが、ここで新たなる問題が発生している。
現実か幻影か区別のつかない生活が長かったので、一般常識から逸脱した経験は、大脳皮質はもとより海馬にも留めず、すんなり外界に放り出すように心がけて生きてきた。
それでも、ペロン星人や三つ子婆ぁ達との遭遇の様な、強烈な出来事は事実として記憶してしまう。
悪い癖だと分かっていても、どうにもできない記憶中枢の働きは、時として便利であり、時として恐怖である。
そんな事より、アインがしゃべっているのは、この場合は現実として受け止めた発言をしても、拘束される心配はなさそうだ。
「アインて、いつから話せる様になったの」
「最近だけど、翻訳機あげたでしょ。あれでいくらでも会話できるのに、どこかへやっちゃうから世間と意見が合わない人になっちゃうんだよ」
簡単に俺の日常を否定してくれるが、真面な奴なら猫語翻訳機その物を信じない。
それでも、ペロン星人語の翻訳をするくらいだから、猫語の翻訳もできるのか。
一時は本気にして探したが、どこかに埋まったままになっている。
「ちょっと聞きたいんだけど、地下都市の科学って、地上と比べて、どれくらい進んでるの」
きっと誰でも思い浮かべる疑問を、なんとはなしに尋ねながらアインをなでなでして、正しい日本語を話せる理由となるであろう機械を探してみる。
「んー……」
超能力者とも言える頭脳を有した朱莉ちゃんが、こんな簡単な質問で悩んでいる。
この答があやふやのままアインにズボンの裾を引かれ、更に奥の部屋に入る。
さっきまで見ていた部屋が、人類の理解できる部屋で良かったと思える眺めになっている。
機械らしき物はなく、ボヤッとした気体だか液体が部屋の真ん中で、不定形に変化しながら浮かんでいる。
「これが地球の科学と比べられると思うか、愚か者め」
アインは猫ではなかったのか。
ペロン星人より利口に思える言葉を、いとも容易く尚且つ容赦なく俺の脳に突き刺す。
「猫だろ、ネコだろ、ねこだろー」
「猫で悪いか」
確かに、好きで猫に生まれたのではない。
したがって、猫である事を責められる理由はない。
何故か納得できない問答になっている。
こんな時は素直に現実逃避して、忘れて暮らす方が楽に生きていられる。
アインとの会話は途絶え、しばらく中空のフニャラを眺めていると、朱莉ちゃんがその中に、隣の部屋から持ってきたテレビモニターを放り込む。
すると、一瞬でモニターが変形して、もっと大きな画面になって黒猫を映し出す。
「これが、ペロンさんの技術を使った人工知能兼工場ダビョーン」
画面の中では黒猫が手を振っている。
よく見れば、その手はしっかり五本指。
おやっとアンの手を見ると、やはり完璧に五本の指を使い熟し、ルービックキューブを恐ろしい速さで揃えている。
六面揃え終わると、フニャラの中に放り投げる。
すぐに不規則な色具合にされたキューブが返ってくる。
キューブとしていいのか。
六面ではなく、ダイヤモンドの様にチラッと見ただけでは何面体かも分からない多面体。
流石に、こいつにはアインも手こずっている。
「猫って、指、あったか」
ここまできて、いくらか自分が常識としている知識に自信がなくなってきた。
こっそり朱莉ちゃんに聞いてみる。
「五本指手袋だよ」
ここまで来ると、化学力の違いをと聞かれても、正確な答えを出すのに困っていた理由が分かる。
地下都市を見回って感じた超化学は、地上の学生達がペロンのを真似て作った工作。
ここでふんわり浮かんでいる化学の塊は、地球人が常識としている偏見で解釈できるものではなさそうだ。
「あのさ、浮いているのって、生物なの、それとも機械なの、どんな仕組みなの」
「よく分からないのねー」
「そんなんでいいのか」
「コンクリートが固まる理由が分かっていなかった時代も、高いビル建てちゃってたでしょ。あれと同じー」
そんな言い方もあったか、それで良いと言うなら、これ以上は聞くまい。
説明されても、俺には幽霊とか妖怪と同じにしか思えない存在だ。
ちょいとして画面に送くられてきた資料には、以前出会ったアクエネの船は母船でないと書かれてある。
偵察用の船を何基か収納して、宇宙をあちこち探査している小隊だった。
悪霊祭りで対決したのが、一部生き残って逃げていた。
タコを追って撮影した映像には、アクエネの船が数十隻も入れる巨大な探査母船が何隻も映っている。
船団の中心には、直径二十キロ程の球体が、青白くボンヤリ光っている。
そこへ出入する探査母船に、ピタッとへばりついた小型偵察機は、中に幾つもの球体が所狭しと収まっているのを送信していた。
別のモニターで相互通信していたらしく、この画像を見たペロン星人が「あの小さな球体一つに、少なくとも一億以上のエネルギー生命体が入っている」と推測した記録も残っている。
これまで報告されていた内容が、より詳しく表示されていて、頭の中で整理しなくてもいいから理解しやすい。
これが正確な情報だとすれば、地下施設に作られた棺桶の様な装置が、地球の有史で満員になっても、まったくアクエネの数に追いつかない勘定になる。
この事態になっても、朱莉ちゃんはあまり驚かない。
数の不利を「土偶の増幅効果でカバーするから大丈夫何だっビョッ」御気楽している。
先に行く所ができたらしく、アクエネ船団は地球から離れて行ったと報告されたのを受け、一旦地球に帰るように黒猫を呼び戻している。
「もうすぐ帰ってくるよ」朱莉ちゃんが言う。
しかし、画面の中で手を振っている黒猫は何者だ。
「あの黒猫って、ひょっとしたら、シャコタンのところのクロか」
「そう、クロちゃんだよ」
「朱莉ちゃんが飛ばしたの」
「うん、宇宙飛行士の訓練してあげた」
「今日の明日に帰って来られる距離ではないがの、暫くすれば、クロは地球に帰って来るのである」
アインが、自分まで偉そうに自慢する。
もしかしてもしなくても、こいつも宇宙飛行士として訓練されていそうだ。
このまま朱莉ちゃんにこいつを預けていたら、そのうち地球は猫に支配されてしまう。
「猫だけ宇宙に飛ばしたのか」
「違うよ、最下層のレディーも一緒だよ」
最下層に初めて行った時、際どい美形が蝋人形の様になって並んでいた。
あの連中の生体エネルギーだけが乗り込んでいるとなると、帰ってきたらあの人形みたいに整ったのが、ごっそり現実世界に放出される事になる。
あまりにも整っているから、必ずどこかは整形で弄っているのだろうが、それだって人間には違いない。