107 今頃になって責任と言われても
来てもらいたくない者と、来てもらいたい者がセットだから困る。
「あの関わりなら、中に綺麗な御嬢さんが居るんじゃないかな」
「やはりー、そこが気になりますー」
キリちゃんが、厭らしい目をして俺の顔を覗き込む。
「何が?」
「何がって、瞳さんの事でしよう」
何で名前まで知っている。
ここには一度も顔を出していない筈だ。
「そうかい」
とりあえず、しらばっくれてみる。
「そうかいどころの騒ぎじゃねないですわよー。一人なら許してもらえる所を、間欠泉騒ぎのどさくさ紛れに、美絵さんにまで手出し足出ししたんですよ。文恵御婆さんが黙っていないわよー」
あおい君まで、知らなくても良い情報を携えて俺に脅しをかけてくる。
「いや、あれもこれも不可抗力で、俺が望んだからあんな事になったんじゃないんだから……ところで、何でそんなのまで知ってるの」
「知っていて当然です。あの辺りは磯家から分家していった家の子孫ばかりですから」
ふざけた事実をいきなり突き付けて、あおい君の表情が少しばかり強張って見えるのは、気のせいか。
「ひょっとして、君が本家って事になるのかな」
「はい、そうです。治承・寿永の乱で、そのまま落人部落に居付いた人達です」
「落人部落って、磯野家は源氏側じゃなかったのか」
「磯部の分家が平氏側だったの、うちって複雑な家系なの!」
今のあおい君は完全に怒っている。
何か悪い事でも言ってしまったか、聞いてしまったか。
それにしても、今日のあおい君は感情の起伏が激しいな。
キリちゃんと朱莉ちゃんが、引っ越して来た人達に町内会の地図へ名前を記入してもらっている。
空き家だった家に新住民の名前が書き込まれると、空白がすっかり埋まった。
そんな景色を見ていると、この刹那にあって、一番か二番目に思い出したくない声が聞こえてくる。
「いっやー、ひっさしぶりだもんなー。元気してたー」
山の温泉宿で知り合った、溜め込み野郎の霊が、隣にかみさんを従えて目の前に現れた。
こういった場合、一緒にいるのは文恵と見るべきだろうが、出来れば名札をつけていてもらいたい三つ子。
人の勘違いを喜んで受け入れる生活をしているから、間違って瞳だったり美絵だと、後先厄介な話になってくる。
「お前の隣に居るのは、文恵でいいんだろうな」
この言葉が終わるか終わらないかの時、細くて骨ばった指を有した両の手が俺の頭を押さえ、前後左右へ過激に揺すり始めた。
爪が伸びた十本の指は、頭皮に零点弐粍ばかり食い込んでいる様に感じる。
したがって、下手にこの手の動きに逆らえば、髪の毛はもとより、頭皮から頭蓋骨にまで食い込んで、脳に到達したらば、グリグリと脳みそをかき回しかねん勢いだ。
「どうだい、いい心持ちじゃろう。ゴニョ」
二人が表れた時点で、ひょっとしたらと脳裏を過らなかった訳ではないが、おまけにしては妖怪御婆ぁの出現が早過ぎる。
今後の人生に、多大な悪影響を及ぼしてくれるのが確実になってきた。
「非情なほど粗放だ」
正直な感想を言って、さっさとこの場から消してやろうと試みる。
「えー? こうやると誰でもすっきりしたと言うがね。ゴニョ」
聞き分けの無い婆ぁは、俺の発言の意味が理解できていないとみえる。
振り方がハイレベルになって、首が速度に耐えられそうにない。
「首が抜けて脳ミソが零れそうだよ。首が抜けて頭飛んで行きそうになってるんだから、止めろよ婆ぁ」
すると、婆ぁが急に動きを止めて俺の顔をジッと見る。
緊張した俺が、ゴクッと生唾を飲み込む。
「そんな我儘を言うんじゃないよ。全く贅沢な男だねえ。いつでもオツムが春みたいな奴には、これ位の刺激が丁度いいんだよ。一人で孫二人にちょかい出してからに、話しても分からない様だからね。何かい、やっぱりあの御嬢さんが今でも未練なのかい。どうもさっぱり見境のない男だから困るよねえ。ゴニョ」
「御嬢さんが、どうとか、琴音の事かよ。それとこれと何か関係があるのか、それにな、ちょっかい出したって言うけどな、出したのは俺じゃなくて、あいつらだ」
この意見には、露天風呂で共犯になっている霊が証人となって証言する。
「違いねえよ。なんもする気なかったんだから、からっきし、話が合わねえって――あそこで、そのおっさんは、逆迫られってやつで……まあ、その後の事は仕方ねえって事でよ」
「その後の事とは、どの事だい。やる事やっといて今更しらばっくれるとは、いい度胸してるじゃないかよ。ゴニョ」
婆ぁに真面な説明をしても始まらない。
今になって責任をとれと迫られても、この国で法に逆らわず、二人同時に責任をとるのは限りなく不可能に近い。
本人を呼んで事情を説明してもらい、どうにかこうにか場は納めたが、まだ納得していない様子。
この先一生、婆ぁに付きまとわれそうな雰囲気だ。
この一族も、磯からの分家なのかとあおい君に聞くと、落ちて行った先に住んでいた人達の末柄だとかで、恐ろしく昔から親戚同様の付き合いであった。
それにしても、はなはだ恐ろしく毒気のある一族だ。
最近になって思い当たる節があったので、もう一度確認の為に読み直した琴音の手記。
書いてあった事が本当なら、こいつらは久蔵の親戚だか兄弟で、三つ子はひょっとしたら久蔵の妹とか言う辺りに位地している様に思える。
この世に有るとされている変人・奇人・宇宙人には知り合いができたし、ここまでくれば何でもいらっしゃいの世界になっている。
今更何者が現れても驚きはしないが、自分と何だか親密な関係になっているとなると、話しが幾分ややこしくなってきた。
不安な気持ちで散歩をしていると、道すがら眺める景色が以前のそれとは随分違って見える。
身を斜にして物置の縁の下へ潜り込む野良猫、ストーンと穴に落ちて行く。
その向こうでは家人が、小刀をうずくまって研いでいる。
捕まえた猫の皮でも剥ぐ気か、三味線の音がペンペンペン。
早くにアインを港屋に預けて良かったような気になってくる。
ただし、古い田舎の家並みは陽の光に暖かそうで、長閑に見える。
なんとなく、歩くのはゆっくりになっている。
何時ものどぶ川が、心なしか綺麗な小川になっているようだ。
川面に浮かんだ水鳥が、嬉しそうにしている。
かといって、鳥の表情が読めるほど卓越した人間ではない。
多分、嬉しいのだろうと勝手に思い込んでいるだけだ。
この景色と、落とし穴の中でギャービーやっている猫の声は、とうてい調和しないと気にしていたら、いきなり静かになった。
ひょっとして、今まさにあの猫は絶命したか。
ひょいと後ろを振り返ると、さっきの猫が一目散にかけて来る。
誰も追いかけている風ではないので、悪戯猫を懲らしめるのに作った落とし穴だったのだろう。
如何なる所縁もない猫だが、一命かろうじて救われたかと安堵している自分が妙だ。
ところで、さっき小刀を研いでいたのは誰だったんだ。
いかに近所付き合いの少ない者とは言え、十数年住んでいる所の御近所さんが、一度も見掛けていないどころか、出で立ちが蓑傘着物。
江戸時代さながらは、今時有り得ない。
ドラマや映画の撮影にしては、カメラが一台もなかった。
どの道、俺の生活には何ら関りのない事だが、しかし、気になる。
診療所周辺の住民がすっかり入れ替わったのは、間欠泉が噴き出して避難した影響で説明がつく。
ここは海と診療所の中間あたりで、随分と広範囲に新住民が住み付いている。
ここら辺りも色々あって、住民が出たり入ったり忙しかったせいか、見慣れない人達ばかりで落ち着かない様子になっている。
一度は完全に壊されてしまった世界だ。
人が逃げて、次には別の住人が入れ代わり立ち代わり、ここ数年の間に目まぐるしく世の中が移り変わった。
更にびっくり魂消るのは、機械や車がずんと数を減らし、牛や馬をあちこちに見掛ける。
大騒ぎの後から文化圏の地図がすっかり書き変えられて、以前にも増して文明や化学と疎遠な集落になってきた。