言った方がいい?
開いたドアから入ってきたのは勇夫。
仕事に行く予定だった勇夫だが、朝から香織に別れを告げるという予定外の事態になってしまった為、その事を綾音に話そうと早めに家を出てジムに寄った。
綾音と燐々《りんりん》は、ドアが開く音にも閉まる音にも気が付かずに言い争っている。
ジムに入って来た勇夫はその喧騒に耳を奪われ、女性二人が言い争う様子を離れた所から眺めていた。
「ん? 何か揉めてるのか……。あの腰付きは……燐々《りんりん》? 受付は綾音だな……。何を話してるんだ?」
ジムに居るはずのない燐々《りんりん》と、カウンター越しに物を言う綾音に近づく勇夫。
「何を騒いでるんだ!」
燐々《りんりん》の後から聞こえてきたその声に、二人が目をやった。
「勇夫!」
「し、社長!」
突然の勇夫の登場に驚く二人。
勇夫が受付のカウンターに右手を置き、燐々《りんりん》の肩に左手を置いて口を開く。
「二人で何か言い争っているようだが、何故燐々《りんりん》がここにいるんだ?」
勇夫の問に言葉が詰まる燐々《りんりん》。
「そ、それは……」
返答に困った燐々《りんりん》が、頭をフル回転させている。
──何で社長が今ここにいるの……。今日は仕事が入っていたから、ここには100%来ない筈なのに……。私としたことが、気持ちがせいて来る時間を誤ったわね。それより、どうしようかしら? 嘘を言ってもしょうがない状況、よね……。
そう思った燐々《りんりん》が、自分の気持ちを訴えた。
「社長! こんな女と遊ぶのはお止め下さい!」
勇夫は顔色一つ変えずに言う。
「遊びじゃない! 本気だ!」
これには綾音も驚いてる。
「綾音! 俺は香織と別れる! 明日、荷物を取りに行ったら、もうあの家には帰らないぞ! だから、綾音も俺と新しい家に来い!」
綾音が手を組んで飛び跳ねた。
「本当に!? 超嬉しい〜! じゃあ、私も引っ越し屋さんに電話して、荷物を運び出すわ! ──でも、新しい家って?」
「ホテルは何かと不便だからな、新しい家を探してたんだ! まだ契約をしてないから、お披露目はもう少し先にする筈だったんだが、丁度良かった。契約は離婚が正式に決まってからだ。さっきオーナーに電話をしたら、契約前だが住んでもいいと了承を貰ったんでな、二人でそっちに移ろうか。だから、引っ越しなんて面倒な事はしなくてもいい! 綾音は貴重品だけ持ってくれば、欲しい物は俺が新しく買ってやる! それなら、今日にでも家を出られるだろ!」
それを聞いた綾音が小躍りしている。勇夫の隣に立っている燐々《りんりん》が、勇夫の胸元辺りの服を両手で掴み訴えた。
「し、社長! 私の事を抱いた時、暫くの辛抱だって仰ったじゃないですか! あれは、嘘……だったんですか?」
「嘘じゃない。だが、あの時とは状況が変わた! だが、君のような美人で優秀な人材は手離したくはない。愛がなくてもいいなら、いくらでも可愛がってやる! だから、俺の傍に居てくれ!」
勇夫の言葉に燐々《りんりん》は思った。
──そんな……。次は私だと思っていたのに。こんな小娘なんかに、私は負けたの? 信じられないわ……。でも、社長に直に言われたんじゃ、引くしか無いじゃない……。燐々《りんりん》、ここは耐えるのよ。こんな小娘に社長の相手が長く務まるはずないもの。その次は、絶対に私の番よ。それまで我慢するしか……。
燐々《りんりん》はそう思い、涙を流しながら答えた。
「愛はないんですね……わ、分かり……ました」
燐々《りんりん》が、項垂れながらジムから出て行く。
「燐々《りんりん》も分かってくれてようだな。──綾音、俺はそれを言いに来ただけだ! 今日の仕事が終わったら、家に迎えに行くから用意して待ってろ!」
❑ ❑ ❑
─ 八木家 ──
勇夫が出て行った後に残された香織と真琴。香織は生気のない顔で寝息を立てている真琴に話し掛けた。
「真琴《ま〜くん》は寝てほしくない時に寝るんだから……。パパ出て行っちゃったよ。ママと真琴《ま〜くん》も、この家から出なくちゃいけないんだって。そんな事を急に言われても……困るよね。これから二人でどうしよっか? ──綾音ちゃんに文句言って、慰謝料払いなさい! ……何て私言えないし……。顔なんか二度と見たくないし……。はぁ〜……」
香織の口からため息が漏れ途方に暮れていたが、大事な事を思い出した。
「あっ、あの写真……私にはもう必要無くなったけど、浩司に見せた方が……。でも、あんなの見たら、浩司悲しむだろうなぁ……」
少しの間悩んでいた香織だが、勇夫と綾音の不倫を自分が知っているのに、浩司に伝えないのは良くないと結論付け、スマホを手に取った。
「電話か、メールか……。どっちで知る方が、浩司に負担にならないかな? どっちにしても、負担よね……」
その時、香織のスマホが震えだす。
「きゃっ! こ、浩司から電話! ど、どうしよう! まだ心の準備が出来てないのに……。と、取り敢えず電話に出なきゃ」
香織が画面に目をやりに、スワイプして応答した。
「は、はい!」
─『香織さん? なんか声が変ですよ』
浩司にそう指摘され慌てる香織。
「そ、そう? わ、私は普通よ。浩司こそどうしたの?」
─『香織さん暇かなっと思って……』
「ひ、暇よ! 暇暇! 真琴《ま〜くん》寝てるから、家に来ない?」
─『ほんとですか? 僕もう暇で暇で。僕達は友達だから会っても問題ないですよね? 直ぐに行くんで待ってて下さい!』
香織は浩司が家に来る嬉しさは勿論あるが、あの写真を見た時の浩司の落ち込むであろう姿を思い浮かべると、また胸が痛くなっていた。
──はぁ〜、見せない方がいいかな? いや……知ってて知らん顔は良くないよね? もし、『香織さん知ってて駄目ってたんですか?』なんて、浩司に言われたらやだもん。言わない優しさは本当の優しさじゃないよね……。あ〜、胸が苦しいなぁ。
浩司に全てを言う覚悟を決めた香織が、玄関の外に出て仁王立ちで浩司を待った。暫くすると、隣の家から浩司が出て来るのが見える。
「あ〜ん、どうしよう。ドキドキしてきちゃった……。私って、さっき別れ話されたところなのに、浩司の心配ばかりしてる……。これからどうするか考えなきゃ駄目なのに……」
浩司が香織に向かって走りながら手を振っている。
「香織さ〜ん!」
「早く早く!」
手を振りながら叫ぶ浩司を、香織が急かした。浩司が自分の前に立つやいなや、浩司の手を握って家の中へと誘う香織。
「早く上がって!」
「わ、わっ! ちょっ、コケますって!」
浩司は手を握られたままリビングに連れて行かれた。
「浩司! そこのソファに座って!」
「は、はい!」
香織の言う通りにソファに座った浩司は、香織の切羽詰ったような態度につられて緊張している。そして、浩司の横に香織が座った。
「ん? 香織さん……何かあったんですか? 泣いてたんじゃ……。何でも言って下さい、僕が力になるんで!」
香織が浩司の優しさに不意をつかれ、また涙が溢れそうになっていたが、必死に堪えた。
「うん、ありがとう。でも今は、私より浩司が先なの。──私ね……すっっごく悩んだんだけど、浩司に言わないといけない事があるの……。浩司じゃなきゃ黙っておくんだけど、浩司だから言わなきゃいけないと思うの……だから、言うね」
香織の真剣な表情に、何かを察した浩司が言葉を返す、
「香織さんが何を言うのかは全く分からないですけど、香織さんの気持ちは伝わってますよ。その言い方だと、たぶん僕にとっては辛い事なんでしょう。それを言う香織さんの方が辛いと思うし、折角僕のことを心配してくれてるんだから遠慮なく言って下さい! それを訊いたからって、僕の香織さんに対する態度は変わらないので」
優しい浩司の言葉に、香織がまた涙を流した。




