プロローグ
結婚を機に新築一戸建てを購入した滝野浩司と滝野綾音。
浩司が一人暮らしをしていた部屋に、綾音が転がり込むように同居生活が始まり、結婚を経て現在に至っている。
明日に引っ越しを控え、長らく暮らしてきたこの部屋ともお別れとなる最後の夜を迎えていた。
「これって有名な不倫の映画だよな?」
「ふふっ、そうよ。これを観て盛り上がってから引っ越しするのも悪くないでしょ?」
浩司が、DVDのパッケージに目をやり題名を読んだ。
「雨上がりの砂地……。これって、どういう意味?」
「ヒント! 雨が降った後の砂地ってどうなる?」
浩司が考える事もなく答える。
「それは、水と砂が混ざって泥になる……だろ?」
「正解……。泥は泥でも泥々になるでしょ? その砂の泥々と、男と女の泥々を掛けてるのよ。──どう? 興味湧いてきた?」
浩司が薄く笑う。
「ははっ……う〜ん、興味ねぇ〜、微妙かな?」
「も〜。とにかく一緒に見よ」
綾音が浩司からパッケージを取ると、デッキにDVDをセットした。電気を落とした部屋に機械音が響き、テレビに映像が映し出される。
『『 ━━━━━━━━━━━━━━
── 雨上がりの砂地 ────
舞台は団地。
その団地の、向かい合わせに建つ棟に住んでいる、仲良し夫婦四人組の物語。
優と晴美が住む棟の向かいの棟に、智也と佳代が引っ越して来たところから映画が始まった。
四人は自治会の会合で知り合い、偶然にも歳が同じだった事も重なって仲を深めていくのだが……。
「ねぇ、優。向かいの棟の佳代と、最近よく二人で会ってるわよね?」
「んん? 会ってないけど?」
「嘘よ! 私、知ってるのよ。隣の奥さんも見たって言ってるし!」
優は笑いながらとぼける。
「ははっ、世の中には似た人が何人かいるらしいぞ? それは俺じゃないだろ?」
「そんな事ないもん! あれは絶対に優と佳代よ。それに、佳代ったら最近私に冷たくて……」
優が晴美を抱き寄せた。
「勘違いだろ。あまり深く考えない方がいい。今日は疲れたんじゃないか? 後は俺がやっとくから、もう寝ろよ」
「勘違い……そうなのかな? ──勘違いならいいんだけど……」
❑ ❑ ❑
それからも優と佳代の怪しい行動は続いていた。決定的な証拠を掴めず苛々が募る晴美が、郵便受けから手紙を取って帰宅した。
「あら? この手紙、宛名が無いわね?」
晴美はいつもならハサミを使って封を切るのだが、ストレスが溜まっていたので雑に指で破いた。
「痛っ! な、何?」
指から血が大量に流れ出し、慌てて救急箱を取りに行った。大雑把に手当を済ませると、指が切れた封筒を逆さにして振ってみると、カッターナイフの刃がこぼれ落ちた。
「誰の仕業よ……。ん? 何か紙が入ってるわ」
痛い指を庇いながら、カッターナイフの刃と一緒に入っていた小さく折られた紙を広げてみると、『シネ』と切り抜き文字を貼られていた。
「う〜……絶対に佳代だわ! 許せない!」
指の血が止まらないので病院へ行き、その日の晩に優に話をしたが、取り合ってもらえない。
「どうして? ちゃんと話を聞いてよ!」
「聞いてるさ……。確かに物騒だけど、犯人が佳代ちゃんな訳ないだろ。それに、警察に言ったって、ハイハイで終わるさ」
業を煮やした晴美は、佳代の夫の智也に聞いてもらおうと、自宅に電話を入れた。
「智也君、あのね───」
「──晴美ちゃん、何を馬鹿な事言ってるんだよ。佳代は浮気なんかしてないし、ほんな物騒な事もしない! 晴美ちゃん、優と上手くいってなくて、俺達が仲良くしているのが気に入らないんだろ?」
「そ、そんな事……」
「俺、知ってるんだ。優がそう言ってたから。晴美ちゃん何か可怪しいよ。悪い事は言わないから、病院に行った方がいいんじゃないか?」
「び、病院! キーー!!」
晴美は智也に病院に行けと言われて、頭に血がのぼり気絶してしまう。
❑ ❑ ❑
その後、病院に入院させられた晴美が、病室のベッドで横になり窓の外を眺めていると。
「晴美、ちょっといいか?」
優がそう言って晴美が横になっているベッドの側にある椅子に座った。
「御見舞ありがとね」
「いや、違うんだ。コレにサインしてほしい……」
優が鞄から出した紙切れは離婚届だった。
「えっ?」
「俺はもう書いたから、晴美も書いてくれ」
「そんな……嫌よ! なんで私が優と離婚しなくちゃいけないの?」
「──もう疲れたよ。弁護士にも頼んであるから、後はそっちから連絡が入ると思う。じゃあな」
「ま、待って!!」
晴美は体を起こし、必死で手を伸ばして優を引き止めるが、優は振り向きもせずに病室を後にした。
泣き崩れる晴美に、追い打ちを掛けるように現れる佳代。
「ふふっ。晴美……貴方の優さんは今日から私の優さん。せいぜい頑張って生きなさい!」
晴美は佳代の言動に、開いた口が塞がらなかった。
優は晴美にずっと嘘を付いていた。晴美が優に言っていた事は間違いじゃなく、優と佳代は不倫をしていて、智也も佳代に捨てられたんだと、この時に全てを理解した。
優に離婚を突き付けられ、パニックになっていた晴美は、佳代が現れた事で逆に冷静になれた。
あの二人をこのまま幸せにする訳にはいかない……そう心に言い聞かせる晴美であった。
❑ ❑ ❑
病院を退院した晴美は、家には帰らずホームセンターに直行した。そこで包丁と帽子を購入すると、事前に友達を使って調べてもらっていた優と佳代の新居へ足を向けた。
二人の新居の前に着いた晴美が呟く。
「そんなに幸せになりたいなら、私が天国に連れて行ってあげるわ……」
晴美は右手に包丁を握ると後ろ手に隠して帽子を深く被り、左手で液晶画面の無いインターホンを押した。
ピンポーン♪
『は〜い』
「すいませ〜ん、隣の者ですけど〜……」
『あ、はい。今開けますね〜』
インターホンから聞こえる佳代の声に、口角を上げる晴美だった。
━━━━━━━━━━━━━━━ 』』
ここで映画は終了し、字幕スーパーが流れていく。
「どうだった?」
綾音が浩司に感想を訊くと。
「いや、怖いだろ! 泥々すぎるよ……」
浩司の感想を聞いた綾音が、浩司の腕に抱きつき、こう言葉する。
「私達はこうならないようにしましょうね?」
「いやいや、どっちの夫婦にもならないだろ。ああ〜、見るんじゃなかった……」
「女は何でも泥々が好きなのよ!」
「ほんとに? 人によるだろ? ──映画に付きやってやったんだから、今度は僕に付き合ってもらおうかな?」
浩司がそう言って綾音にキスし、胸に手を這わす。
「あん……この部屋で《《する》》のも、今日が最後ね。──んん!」
綾音の妖艶な声が、この部屋での最後の夜を彩っていく。