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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

獣の罪

作者: 宇宙人

 肺に穴が空いたように苦しい。

 まだ足が動くのが奇跡のようだ。

 

 それでも私は走り続けた。

 棘だらけの枝を掻き分け、暗い林の中を進む。

 一秒でも早くこの林を抜けたくて。


 足元がおぼつかない走破の道中でも、すぐ後ろに自分を追ってくる何者かがいるのではないかと、そう思うだけで何度も後ろを振り仰いでしまう。

 

 その動作が方向感覚を壊し、走りの無駄になると分かっていても、止められなかった。


 首も足も振り回し過ぎて、痛みはもうとうに消えていた。

 鉛を押し付けられて鬱血でもしているような、出来の悪い肉風船めいた感触だけが脳にフィードバックされてくる。


 あんな赤い世界はもう嫌だ。

 私は早く帰るのだ。

 その想いだけを燃料に、ただ必死に前に進む。


 あのトンネル、あのトンネル、あのトンネルのところへ!


 辿り着くのだ。

 逃げるのだ。

 なんとしてでも、約束の場所まで。


 林を抜けると、泥でぬかるんだ山道だった。

 目に飛び込んだ雨粒を受けて呻き、ようやく今雨が降っていることに気づく。

 当然これまでの道中でも雨は降っていた。

 肌にぐっしょり張り付いた服と、瞼にかかる、雫滴る前髪の煩わしさを今更ながらに実感して、それでもかまわず先へ進む。


 ひどい泥を跳び越すつもりで力を入れ、足がもつれた。

 全身で汚泥に突っ込み、鼻の奥に土臭さが溢れ、喉が咳で悲鳴をあげる。

 泥まみれの手をズボンの後ろで拭い、顔の泥を取り払って起き上がった。

 涙なのか汗なのか。目の奥がツンとした痛みと暖かさで満たされる。


 「なんで」


 漏れた言葉に答える者などいない。


 「……帰らなければ」


 雨が強くなってきた。

 酸素不足で靄ががかった視界がさらに悪くなる。

 泥に塗れた私という人型を、山道は執拗に拒んでいた。


 「……家に、帰ろう」


 もう走ることはできない。

 ぬかるむ足元に苦戦しながら、二足で、時には四足で道を進む。


 指から滲んだ血は泥と混ざらず私の足跡となった。


 永遠のような道中。

 泥に塗れた獣の道行き。


 私は一つの獣だった。

 帰巣本能だけで動くケダモノのような何かだった。


 人としての尊厳を投げ打ち、ただ浅ましく進むだけのもの。


 今の私を見かけたマタギは、きっと遠慮容赦なく猟銃を打ち込むに違いない。

 

 「ははっ」

 

 獣になればなっただけ気分が晴れた。

 獣は何も考えなくていい。


 痛みだって、苦しみだって獣の世界ではごく当たり前のものなのだ。

 小綺麗な人間社会では人はそれらから遠ざけられる。

 けれど獣にはそれが日常だ。

 痛みを味わい、痛みを与え、それが営みとして続いていく。


 「はははははははははははははははっ」


 そして私はとうとう辿り着いた。

 目的のトンネル。

 獣となった私をひとまず解放してくれる、悪魔のような使徒たちの待つトンネルに。


 「止まれ!」


 突然、天地がひっくり返った。

 何者かに投げ飛ばされ、地面に押し付けられたたのだと気づいた時には、私は自分でも信じられない力で私の上に居る何者かを振り落とした。


 「抵抗するな!」


 私の敵は、今投げ飛ばした一人だけでは無いようだった。

 敵の5人は瞬く間に私の周りを取り囲み、距離を詰めてきた。

 彼等が纏う透明な雨合羽越しに、特徴的な青い服が確認できる。


 「確保! 確保ー!」


 敵達の威嚇の声を受け、私は獣として応戦した。


 私から見て右手、急な下り坂側に立っていた小柄な敵に向け、四足のバネで全力のぶちかましを繰り出した。

 喉の奥から絞り出した叫びが、私に大きな力を与えた。


 「おい! お前の仲間はもう逮捕されているぞ! 無駄な抵抗はよせ!」


 後ろの敵からそんな声が聞こえたが、頓着などない。

 目の前の小柄な敵に当たり勝った。ぐらつく敵の体を抱え、私はその敵の背後、広がる急斜面に向けて飛び込もうとする。


 「それ以上罪を重ねるな!」


 帰るのだ。

 何としてでも帰るのだ。

 そのためだけに人を殺した。

 恨みもなにもないどこかの誰かを、多額の報酬と引き換えに殺したのだ。


 幼い子を含む一家全てを、指示通り、できるだけ派手に、全てを赤に染められるほどに激しいやり方で。


 雨に、泥に。

 それらに染まる前から私は既に赤黒く染まっていた。

 

 私を追い出したあの家を思い出す。

 私の帰りたい、あの家。

 何もなし得ないクズどもは出ていけと、悔しかったら今までのお前達の養育費を払ってみろと宣ったあの男に、血に塗れた現金を叩きつけたい。

 それだけを想ってこれまで駆けてきたのだ。


 斜面に肩から着地し、私はこれから共に奈落の道連れにしようとしていた敵の顔を見る。


 その顔に、恐怖はなかった。

 人間の顔だ。衝動よりも感情に塗れた、人間の顔だ。

 悔しさーー自力で私を抑えられなかったからだろうか。

 怒り ーーことここに至って観念しない私に正義感でも

      燃やしているのだろうか。

 やる気ーー生きようとしているのだ、この敵は。

      抗おうとしているのだ。この先の運命に。

 哀れみーーきっとまだ若いが故なのだろう。

      私のような屑に、そのような感情をむけても

      仕方がないだろうに。

 労り ーー若いにもほどがあるというものだ。

      敵に向ける感情としてはあまりにも馬鹿らしい。

 ーーーーー……。


 気づくと、私はぐしゃりとした決意の顔をしたその敵を掴み、斜面を蹴って全力で投げ上げていた。

 私達を追ってきた他の敵の一人が慌てて投げられた体を抱え、そこで止まる。

 そして私は悠々と背中から斜面に着地し、転げ始めた。

 すぐに敵達の声も聞こえなくなる。


 斜面は下に落ちるにつれて段々と急になっていく。

 転がるのはやめたが、私は奈落への滑り台から逃れる術を失っていた。


 どこかで岩にでも衝突したのか、脚の折れ曲がる音がした。

 木に引っかかったせいだろう、指を持っていかれる感触があった。

 

 これが弱い獣の末路か。

 獣は強くなければ生きていけない。

 裏社会で生きていこうと決めた、何かいっぱしの決意をしたつもりになっていたただの尻の青い私は、ただの弱者だった。


 自分が殺した相手の、哀しみに満ちた眼に耐えきれず、気づいた時には自分で自分を通報していた。

 あの一家を手にかけて、私は私でいられなかった。

 おそらく、あの時から既に。

 私は獣でいなければ耐えられなくなっていた。


 私の視界が暗くなった。

 頭でも打ちつけて神経がいかれたのか、はたまた藪に眼から突っ込んだのか。

 もはやどうでも良いことだった。

 

 「……ぁ」


 なぜか、声だけは出るようだ。

 舌は回らない。

 手足があるのかも、自分が果たして正しく息をしているのかとわからない中で、声だけは出る。

 幼児よりも劣る、意思表現のできないただの呻きが漏れるだけではあるが。

 

 「ぁーーーー。ぁーーーー。ぁーーーー」


 それが私が最期に得られる現世の光景であり、経験のようだった。

 どことも知れない暗闇の中、自分の声、自分の感覚だけを認識する。


 「ぁーーーーーーーーー。ぁーー……ーー。ぁ」


 獣以下の存在にはこのような死に方は相応しいのかもしれない。

 けれど、私は同時に獣として死ぬことを許されていなかったようだった。


 「ぁ……。ぁーー………。あーー」


 何もなし得ない体、けれど意識だけはそこにある。

 意識があれば人は人として考えることができてしまう。


 やるんじゃなかった、という後悔。

 獣にすらなりきれなかった私は、自分の愚かさを悔やむ気持ちを抱え、人としての悲しみに沈む。


 「ぁーー……。ぅ。ぁ……」


 目頭が熱くなり、自分がまだ泣くことができたことを知る。

 愚者の涙。それは、何の価値もない、泥にも劣る塩水。

 惨めさの証そのものだ。

 

 弱い獣という評価すら私には過分だった。

 愚かしい人間。

 それが私を示すに最も相応しい言葉だ。


 「ぁ。……ぁ」


 意識が薄れる。

 無価値な涙の感触も今の私には感じられない。


 「っ。……………」


 

 だから……私は……














ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 20xx年6月×日

○○県××市で、殺人事件が発生。

通報を受け、現場に急行した警官により他殺と断定、すぐに警備網が敷かれ、逃走する容疑者を発見した。

しかし、容疑者を確保することは敵わず、行方は不明となっている。

逃走時の状態から逃走できる状態ではなかったと見られ、増水した川に流されたか、山の獣に食い散らされたのではないかとされている。

また、今回の事件の裏には大規模な闇バイト組織が関わっていたと見られている。

金銭などの報酬を対価に犯罪行為を仕事として斡旋する組織だが、今回の凄惨な殺人事件の発生は世間における闇バイトの恐ろしさへの意識を高めたと言われている。

こういった事件の起きない世の中の到来はいつになることだろう。


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