人形王子の婚約者
「あら、手が滑ってしまいました」
うっそでしょ。そこまでする?
あまりの事態に呆然とするが、顔には出さない。
というよりも正確に言うならば、出せない。
時が止まったような静けさの中で俺の婚約者、キャロライン=ゴールドバーグ伯爵令嬢はアリシアに微笑んでいる。
たった今、アリシアへ頭から紅茶をかけたばかりとは思えないほどの優雅で穏やかな笑みに、状況がこうでさえなければ顔がいい〜〜!と団扇を振っているところだった。
かけられた紅茶は「まだまだ暑い時期ですので、アイスティーを用意しました!」とアリシアが持ち込んだもので、そうでなければ火傷をしていただろうから、その点だけは幸いである。
俺と同じく呆気にとられていたアリシアは、ようやく我に返ったのかテーブルに手をつき勢いよく立ち上がると、キャロラインへ噛みつくように声を荒げた。
「……あ、あんまりではありませんか!? キャロライン様がツヴァイ様と親しくする私をよく思っていないのだとしても、こんなやり方は酷いです! 卑劣極まりないことです!」
桃色の髪から紅茶を滴らせているアリシアの言うことはもっともであったが、甲高い声で喚くそれは、王族として教育を受けた今の俺では幼子のようで見ていられない。
その上、椅子を引いてもらうこともなく立ち上がったので、貴族学園の誇る庭園の中、大理石の輝くテラスの床が、椅子が引きずられたことで傷ついていないかが心配だった。
俺が床の傷を気にしているのを横に、キャロラインとアリシアの攻防は続いている。
ふふふ、となんの悪びれもせず微笑んだまま、キャロラインは更にアリシアをいたぶるつもりのようだ。
「何ともまあ声を荒らげてみっともないこと。貴族令嬢としての教育が十分ではないようですね、アリシアさん。いえ、アリシアさんは貴族令嬢ではなく平民なので当然でしたか」
「謝ってください! キャロライン様のされていることが、正しいと本気で思っているのですか!?」
「当然です。わたくし、ツヴァイ=グレンヴィル第二王子殿下の婚約者として、恥じるような行いはしたことがございません」
「あなたって人は……!」
「そもそも先程も言った通り、手が滑っただけのことですわ。その先にアリシアさんが偶然居ただけでしょう? わたくしが謝罪する必要は感じられませんわね」
キャロラインはこれ以上アリシアに付き合うつもりはないようで、俺にそっと目配せをする。
ああ、椅子を引けって事ね。了解。
立ち上がった俺とキャロラインに、アリシアは若草色の瞳を潤ませると訴えるターゲットを俺に変える。
俺は一連の流れを眺めていただけで一言も喋ってないのに、何故頼りにしようとしているんだ、アリシアは。
「ツヴァイ様……。ご覧になったでしょう? その女、キャロライン=ゴールドバーグは悪魔のような女です。ツヴァイ様に相応しくありません……、痛っ!」
紅茶を滴らせたまま俺に縋りつこうとするアリシアの手を、懐から取り出した扇でキャロラインは厳しく打ち据える。
そのままアリシアへ扇の先を突き付けるようにして距離を開けつつ、「近づかないでくださいまし、ツヴァイ様が汚れてしまいますから」と嘲笑う。
悪い顔もかわいい〜〜!どこ住み?ラインやってる?としか浮かばない俺の頭は、前世の記憶を思い出したときからポンコツになっていた。
また女同士の戦いの火蓋が切られるかと思ったところで、ゴーン、ゴーン、と時計塔のチャイムが鳴る。
予鈴の知らせだ。午後の授業まであと十分。
アリシアは今すぐ着替えないと間に合わないだろうな。
「……午後の授業が始まってしまいますわね。わたくしたちはこれで失礼します。アリシアさんも早くお着替えにならないと、お風邪を召してしまいますわよ?」
誰のせいだよ、という内容を白々しく話したキャロラインは、扇を畳んで懐に戻し、その手で俺の腕をとった。
「では、ごきげんよう」
憎々しげに睨みつけるアリシアを置き去りにし、本校舎の教室へと向かう。
予鈴が鳴ったものの、俺のペースに合わせてキャロラインはゆっくりと足を進める。
「次の授業は歴史学です。ツヴァイ様の好きな科目でしょう?楽しみですわね」
先程とは打って変わって、俺に向かって静かに微笑む。同じ穏やかな笑みでも、獲物を追い詰めるときの気迫を感じさせない甘やかな笑みだ。
あの場では口を挟まなかったが、先程の一件はいじめと言って間違いないだろう。キャロラインの行動は信頼しているが、一応控えさせたほうがいいだろうか。
「……キャル」
舌が引きつって縺れないようにゆっくりと話す。
最近では舌を噛むこともあまりないが、昔からの習慣として根付いてしまった。
「君のことは、信じている。しかし、先程のことは、本当に必要な、行為だったのか?」
「ツヴァイ様」
キャロラインは俺の名前だけ呼ぶと、こちらを真剣な眼差しで見つめる。
彼女の手入れの行き届いたブロンドの髪はさらさらのストレートだ。腰まで長い髪を微風になびかせる姿は妖精のようで、性懲りもなく見惚れてしまう。かわいい。
上の方だけ繊細に編み込んである髪をとめる紫水晶の装飾がされたバレッタは、入学祝いとして二年前に俺がプレゼントしたものだ。大事に使ってくれている。かわいい。
そして気品の高さを秘めた大きなグレーの瞳は、目尻がほんの少しだけ吊り上がって、猫を連想させる。かわいい。
もう十七歳であるというのに凹凸の少ないスレンダーな体は、普段は完成された貴族令嬢として振る舞う彼女の数少ない少女性が見られるものであり、簡潔に言うとギャップがやばい。かわいい。
結論:俺の婚約者が美少女すぎる。最高。金を払いたい。
そんな思いが頭を過るが、俺は腐っても王族であるため、現在使用できるお金は全て血税だ。
婚約者予算も当然決まっているので、一年の予算はよく考えて使わなければならない。
もうすでに今後一年の配分を組み立てて、夜会用のドレスや誕生日プレゼントなども手配している。正直ほとんど余裕はない。
いや、俺個人のお小遣い(王族費)から賄えばなんとか、まで思考が行ったところでやっと冷静になった。
改めてキャロラインを見れば俺の思考など筒抜けなのか、真剣な眼差しから、ふぅん?とこちらを見上げ目を細めていた。
「そういうところもねこみたいでかわいい」
「ありがとうございます、ツヴァイ様。わたくしもツヴァイ様の、その麗しいプラチナの御髪とアメジストのような深き瞳に見惚れてしまいました」
間違えた。婚約者の顔に弱すぎる。
顔に出さないように気を付けねばとは思うものの、ここまで筒抜けなのはキャロライン一人だけである。
そもそも、俺の表情筋は子供の頃から微動だにせず、ずっと人形のような無表情のままだからだ。
巷での通称はそのまま、人形王子。
幼い頃からの従者でも、ここまで読み通すことは出来ない。
「先程の必要な行為であったかとの問ですが」
俺にだけ優しい婚約者様は、丁寧に教えてくれるつもりのようだ。
予鈴の鳴った校舎の廊下は静かで、周囲に人影はない。
貴族学園の生徒として、皆お行儀よく教室に戻っているのだろう。
「あの紅茶からは微かに、オフィーリアの花の香りがしました」
その言葉を聞いて、息を呑んだ。一瞬で血の気が引く。
何故ならばその花の名は、この十年で一番恐ろしいものとして、記憶に刻まれている。
「ご存知の通り、十年前に殿下が摂取した毒花です」
キャロラインは未だに上手く動かせない俺の身体を支えるために、腕を組んだまま教室へと歩いている。
「一定量以上摂取してしまえば、全身に痺れが残り、やがて心臓の動きも麻痺して死亡する。殿下がこれ以上摂取してしまえば、命の危機は免れないでしょう」
十年前、段々と動かなくなる身体が恐ろしかった。
長く厳しいリハビリによって、再び歩けるようになったのも幸運でしかない。
「オフィーリアの花のことを知っているのであれば、頭から被った際にもっと恐ろしく感じるはず」
不審に思いつつも誰もが気付くことの出来なかった毒花に、その類稀なる五感と身体能力によって感づいたのは、両親と共に登城していたキャロラインだった。
「ですが、アリシアは紅茶をかけられたことに対する怒りを見せただけでした」
彼女は当時七歳の少女であったのにもかかわらず、様々な図鑑を読んでは知識を蓄えていた。
そして、オフィーリアの花の毒のことも、その特徴もよく知っていた。
「当人が知っていて盛ったのであれば違う効能の薬だと伝えられているか、知らず盛ったのであれば別の実行犯がいると考えられます」
寝たきりになっている俺にずっと心を砕いてくれた両親と兄は、聡明だと評されるキャロラインへ友人になってくれるように頼んだ。
「あの場で事を顕にしてしまえば、当時と同様に末端を切り捨てられて終わりです」
面会すると早々に違和感に気づいたキャロラインは、私が愛用していた枕を強引に抜き取ると、靴のヒールで穴を開けて無理矢理カバーを引き裂いた。
「まずは、あの紅茶の入手経路とアリシアの人間関係を調べる必要があります」
枕に入っていた羽毛の中から、オフィーリアの花が出てこなければ、不敬罪で処されても可笑しくない行為だった。
「今度こそあの花の出処を見つけ出し、根本から絶やさねばなりません」
俺の命の恩人であるキャロラインは、今もなお不穏な周囲から守るために、婚約者として傍で付き添ってくれている。
他人の用意した飲食物を、本来であれば身分の高い俺から手をつけるものだと言うのにもかかわらず、真っ先に確認して毒見を行うのも、常のことであった。
「ツヴァイ殿下。ご心労をお掛けした事、誠に申し訳なく思っております」
「…………あ、あ、いや、大丈夫だ」
浅くなっていた息を整える。
やはり、いつもそうだった。
一見すると理解出来ない行動だとしても、根本には俺を想う理由がある。
それでも、不安は拭えなかった。
オフィーリアの花のことだけではない。
――俺は彼女にここまで尽くされるだけの人間なのだろうか?
その思いが、時が経つごとに増している。
王子としての立場も、人形王子と呼ばれるようになってからは形だけのようなもので、満足に公務も出来ない。
年の離れた第一王子である兄は、もう何年も前から王太子の活動を精力的に行っている。
今から兄の仕事を代われるはずもない上に、仲の良い家族であり臣下としても慕う俺には、当然下剋上をする気もない。
更には俺が王族であるのは今だけで、将来的にはキャロラインのゴールドバーグ伯爵家へ婿入りすることに決まっている。
そして伯爵家の舵取りも、俺よりも頭の良いキャロラインが行うことになるだろう。その引き継ぎも始めているとの話も聞いたことがある。
俺に出来るのは、精々愛想を尽かされないようにキャロラインへ接することだけであった。
それも、本気で惚れ込んでしまった今となっては、キャロラインには俺よりも良い相手がいるのではないかと気が気でない。
「いつも、ありがとう。キャル。君が居なければ、私はとっくに……」
「そのようなこと、仰らないでください。わたくしは殿下へ仕えることを、これ以上なく光栄に思っております」
最悪の事態を想像して言い淀んだ俺に、キャロラインは立ち止まり顔を覗き込んだ。
人の機微に敏い彼女は、こうして目を合わせることで相手の心情を読み取る。
俺の不安に気付いたのだろう。
キャロラインは安心させるかのように、目を合わせたまま微笑む。
「心配いりません。ツヴァイ殿下はこの私、キャロライン=ゴールドバーグが身命を賭して御守りいたします」
俺を守ってくれなくてもいい、とは言えない。
今だって彼女の支えなしでは、満足に歩けもしないのだ。
あまりに情けなくて涙が出そうだが、俺が弱いのは事実なので呑み込むしかない。
それでも、俺の我儘に過ぎないとしても、キャロラインと共に、これからの人生を歩みたかった。
「キャルも、命は、大事にしてくれ」
結局、言えるのはそれだけだった。
しかしその一言に、キャロラインは貴族令嬢には相応しくない、幼子のような満面の笑みで応えた。
「ええ! ツヴァイ様!」
キャロラインは俺と組んでいた手を今度は俺の背中に回し、抱きしめたまま嬉しそうに続ける。
「ツヴァイ様はわたくしを命の恩人だと言いますが、わたくしにとってもツヴァイ様は命の恩人です!」
「……? キャルを、助けたことが、あったか?」
「ふふ、ツヴァイ様にとっては、取るに足りない出来事だったので覚えていないのでしょうね。しかし、わたくしは確かにツヴァイ様に救われましたわ」
先程までの重たい空気は何だったのか。彼女が嬉しそうにしているだけで俺も嬉しくなってしまい、頭がいつものポンコツに戻ってきた。
何せキャロラインの頭が近い。髪がすっごいいい香りする。
身体は鍛えていることもあって、女の子にしては硬いのだろうけど、俺は全然気にならない。いや、やっぱりこの硬さはさっきの扇か?
毒の影響で不能気味でなければ、こうして抱きつかれるのも危ないところだった。
いや、やっぱり不能気味なのは泣きそうかも。
情緒不安定に考え込んでいると、キャロラインはゆっくりと身体を離して、俺の腕を組み直した。少し寂しい。
「ではツヴァイ様! 教室へ向かうとしましょう。既に授業は始まってしまいましたが、問題ありませんわ。出席さえすれば良いのですよ」
全く以て気が付かなかったが、いつの間にか本鈴は鳴り終わっていたようだった。
ようやく辿り着いた教室では、歴史学の授業はまだ始まっていなかった。
平民の特待生クラスに居るはずのアリシアが、紅茶で濡れたまま着替えもせずに先生や生徒へ訴えていたからである。
「ですから、私とツヴァイ様の仲に嫉妬したキャロライン様に『この卑しい平民め! その薄汚い姿でツヴァイ様に近づくんじゃない!』と怒鳴られ、お茶をかけられたのです! 令嬢として、いえ、そもそも人としてあり得ない行為です! 皆様はそのような人が、この歴史ある貴族学園に相応しくないとは思いませんか!?」
しかも発言と状況を捏造していた。
そのままでも十分酷かったと思うが、己の都合が良いように改変しているので更に酷くなっている。
俺はこれに毒を盛られていたかもしれないのか?と思うと、己の不用心を恥じる他ない。
ちらり、と隣を窺うと、キャロラインが非常に愉快そうにしていた。すばしっこい鼠を見つけた猫のようだった。
いたぶりがいのある獲物に下唇を濡らす様は、妖艶さを感じてドキドキする。
「あら、こんなところまでいらしたのね。アリシアさん。この学園は気品ある生徒が通うものであって、畜生が喚いていい畜舎はないのよ?」
貴族学園に通い出してから、俺を狙っている不届者を釣り上げると言って、周囲の目を引くように悪辣に行動する彼女は立派な悪役令嬢として学園に名を轟かせていた。
アリシアに訴えられていたはずの先生や生徒達は、嵐が過ぎ去るのを待つように俯いている。キャロラインに目をつけられたくないからだ。
第二王子の婚約者に相応しくないとキャロラインを排斥しようとしていた公爵令嬢を、完膚なきまでに返り討ちにした一年前の大事件を知らない者はいない。
であるのに今にもキャロラインへ食い下ろうとするアリシアに、メンタル強すぎだろとちょっと引いた。
オフィーリアの花の前に、どうやら女同士の戦いを終わらせねばならないようで。
更に言えば、俺の楽しみにしていた歴史学はしばらく受けられそうにもなかった。




