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「おーうおう、来たか」
朝の校舎裏に低い声が響く。
「さっすがらくじょーくん。勉強も運動もできないけど、約束はしっかり守るんだな」
腕時計を確認してから声の主は顔を上げる。目が合った瞬間、本能的に腰が引けた。うなじあたりの毛が立ち、すぐに目をそらす。
もうすっかり『反射』で出るようになってしまった行動だ。クラスメイトの男子である、戸塚 正を前にすると。
「しかも指定した時間、七時五十分ちょうどだ」
戸塚は薄ら笑いを浮かべながら僕の前へと歩いて来る。そしてその瞬間、後頭部に衝撃が来た。
受け身を取る間もなく倒れる。口の中に砂が入って、ようやく戸塚に殴られたのだということがわかった。
「なに指定した時間の通りに来てんだ?呼ばれたときは十分前に到着しとくのがマナーってもんだろうが。らくじょーくんはそんなことも知らねぇのかぁ?」
砂を吐き出しながら理不尽だ、と心の中でだけ反論する。こないだ十分前に到着したときは『俺は時間を指定しただろうが!ちゃんと話聞いてなかったのか!?』とか言いながら殴ったくせに。
「ほんと、らくじょーは何にも出来ねぇダメ人間だなぁ。生きてる価値あんの?」
制服に包まれた二の腕に足が振り下ろされた。空き缶でも踏みつけるように、容赦なく。
痛みが脳に伝わる。グリグリと腕が地面に擦れた。
「っ!」
骨が軋む音が聞こえた気がして、反射的に彼の足を押し退ける。
予想外の動きだったのか、戸塚は端正な顔立ちと体勢を崩すと、数歩後ろ下がった。
だが、すぐに表情を変えて戻ってくる。
「なに、今の?らくじょーごときが、人間みたいに抵抗すんのか?」
薄ら笑いを浮かべた顔。
怒気と侮蔑を混ぜたようなものだった。
しまったと思う間もなく、脳天に何か鋭い一撃が入った。踵落としだった。
呼吸が止まり、視界が点滅する。気絶しなかったのは奇跡……いや、いっそ気絶した方が良かっただろう。
「早く立て。まだ始まったばっかだぞ」
耳から入る声さえ歪んで聞こえる。
視点が定まらない。体も、急に鉛になったように感じられた。
「チッ。おら、早くしろって、おら」
一瞬でも抵抗されたことがそんなにお気に召さなかったのか、戸塚は脇腹へ蹴りを入れる。これも当然ながら加減はされていない。
痛みに喚きたかったが、そんなことしたら更に攻撃が来る。相変わらず体は重いまま。しかしこのまま寝ていても、暴力の内容が蹴りや踏みつけメインに変わるだけだ。
足に力を入れ、フラつきながらも立ち上がる。
その直後、また後頭部に衝撃が来て、僕は無様に倒れ込んだ。
再び地面と接吻をする僕を見て戸塚はケタケタと嗤う。
「どうしたよ?ほら、早く」
顔に付着した砂を落としながら、なるほど今回はそういう感じね、とある程度覚悟を決める。
言われた通りに立ち上がって、また戸塚に倒れ込まされた。
それが何度も続いた。
地面が遠ざかったり近づいたりで酔いそうになったし、手の平は次第に擦り減ってきていた。それでも戸塚はやめなかった。やめる道理なんてアイツには無かった。
戸塚正とは、小学校からの付き合いだった。
とはいっても、いじめられ始めたのは中学からで、それ以前はロクに付き合いなどなかった。この頃から身長も高くイケメンでアウトドア派な彼と、内気でインドア派な僕との間に関係などできるはずもないだろう。
精々席替えで近くになったことがあるとか、雨の日のトランプゲームにたまたま入れてもらえたことがあるとか、その程度だ。
明確に力の差がついていじめられるようになったのは、さっきも言った通り中学から。
きっかけはもはや覚えていない。ただ、あまり劇的な物ではなかったと記憶している。
廊下ですれ違う時に肩が当たったとか、戸塚が自撮りした写真の端っこに変な顔で写り混んでしまったとか、そんな些細なことだった。それらをネタに戸塚が突っかかってきても、僕の方は余計なトラブルを起こしたくないからヘラヘラ愛想笑いをし、特に反撃を行わなかった。……行わなかったというか、行う勇気も無かったのが実際のところだが。
ともかくそうした出来事の積み重ねで、僕はだんだんと戸塚の脳内ヒエラルキーでの下層に位置してしまったのだろう。
いつの間にか戸塚は、露骨に僕を見下すようになっていた。廊下でわざとぶつかるようになり、変な顔を狙って撮るようになり、指差して嗤うようになり、暴力を振るうようになっていった。
……今にして思えば、小学生の頃は普通にお利口だった戸塚の性格が変わり出したのはこのあたりからだった。
特に家庭環境や交遊関係、能力にも不備があったようには思えないのだが。むしろ能力がある中で真っ当に育ったからこそ、『他者を見下す』という人間誰しも持ってる感情が育ったのだろうか。
まぁ考えてもわからないし興味はない。どんな人生を送ってようが僕にとっては忌々しいいじめっ子でしかないし。
……話を戻そう。
ともかく、僕をいじめてる時の戸塚は常に取り巻きを二人ほど従えていたからケンカになったら不利だし、この手のイジメはこちらが反応すると奴らの思うツボなので、とにかく僕は頭を下げることにした。感情を殺し、奴らが離れるのをひたすら待つことにしていた。
だがそれは結果として逆効果だったようだ。戸塚は僕のことを『お口の固いサンドバッグ』だと認識し、更にいじめをエスカレートさせた。
そうして三年間、多感な時期の僕の情緒は戸塚にやって破壊され尽くした。
中学三年の受験シーズン、このままの学力では戸塚と同じ高校に行く事になると知ったときは絶望した。依然として戸塚は飽きることもなく僕をオモチャとしている。同じ高校に進んだら地獄が続くのは目に見えていた。
親に頼んで塾を増やしてもらい、僕は文字通り死ぬ気で勉強した。だが最終的に偏差値こそ上がりはしたものの、結局合格できたのは戸塚と同じ高校だけだった。
『よっ、らくじょー!聞いたぜ、お前も暗寧高校に行くんだってなぁ?高校に行ってもよろしくなぁ!』
足を踏みつけながら僕と肩を組んだ時の戸塚の顔は、今でもたまに悪夢に見る。あれは足を粗方もいだ虫が、尚も生きるためにもがいているのを見るときの子供の顔だった。
そうして絶望したまま高校に進み、一年でのあの出来事だ。
階段を落ち、左腕を骨折した事件。
あれで僕は完全に気力を喪失し、事態の改善を諦めた。
そうして、最低でも計六年の長い付き合いとなっている僕と戸塚。
今はその五年目となる。
五年目になっても、戸塚のイジメは特に代わり映えしなかった。いつものように取り巻きを従えて、僕をなじったりいじったり殴ったりする。変わったのは、力の強さと罵倒の語彙力だけだ。
立ち上がっては倒され、立ち上がっては倒されでヨーヨーになった気分のまま数分が過ぎた頃。
戸塚は不意に一連の行為をやめ、制服のポケットに手を突っ込んだ。彼が取り出したのは、紙タバコが入った箱である。12ミリのそこそこ重いヤツで、未成年とか知ったことかと、日常アイテムのような自然さで手に持っていた。
「あー。戸塚くんいけねんだー、まだ未成年なのに」
いつの間にか戸塚の後ろに合流していたらしき二人の取り巻きの一人がわざとらしく声を上げる。
「うっせぇな、一日二本で我慢してんだからいいだろ」
「毎日吸ってんのかよ」
「つかそれどこで買ったん?自販機?」
「いつものコンビニ。俺みたいに背丈がそれなりにありゃ意外と年齢確認されないんだぜ」
話しながら、持参したライターで火をつけてタバコを吹かす。手慣れた動きだった。
「あー……やっぱタバコと言えば紙だよなぁ。この、体に悪いモン取り入れてる感が良いんだよ」
「十七のガキがなに言ってんだか。あ、オレにも一本くれ」
「感っつーか、実際悪いモノ取り入れてんだけどな。あと俺も一本」
カチ、とライターの着火音が三回響いて、同じようなタイミングで灰色っぽい煙が大気に混ざった。
「…………」
三人はタバコを吸うことにすっかり意識が向いているのか、僕の方を見向きもしない。
……これはもう、帰っていいのだろうか。
吐き気が上ってきていた口許を押さえながら、衣服についた砂を払いう。
そのまま忍び足で、僕は校舎裏を去ろうとした。
「あ、おいらくじょー」
瞬間、戸塚が僕の方を向いた。逃げようとしたことに気づかれたかと肝が冷えたが、どうやら別件のようだった。
「ほら、コレ」
その言葉と共に既に火が灯った紙タバコを向けられる。先端から立ち上る煙が鼻腔に侵入し咳き込みそうになった。
「……これを?」
「お前も吸ってみろよ」
嫌悪が顔に出そうになった。
冗談じゃない。両親がタバコを吸わないのもあって、これらの煙にはほとんど慣れておらず耐性が無いのだ。受動喫煙すらも勘弁してほしいぐらいなのに。
あとは未成年なのにタバコを吸うような真似はしたくないという、人として当然の常識というか倫理観も働いていた。不良の娯楽は不良だけでやってほしい。
そう言えるなら言いたかったのだが、
「ほら、お前も早く」
声を低くしながら催促されては従うしかない。逆らった先に待っているのは確実な暴力である。
渋々ながら僕は差し出されたタバコへと手を伸ばした。
その直後、指先から焼けるような痛みが脳へと伝わった。
というか、文字通り焼けていた。
「あつッ!!」
思考より先に本能が悲鳴を上げた。
慌てて自分の指をおさえる。人差し指の腹に戸塚がタバコを押し付けたのだと理解したのは、間抜けなことにだいぶ後のことだった。
三人を睨むと、奴らはゲラゲラと大笑いしていた。
「おいおい見たかさっきのコイツの顔と悲鳴!ケッサクだなぁおい!」
「あーあー、戸塚クン悪いんだーいけなんだー」
「てか、痕つけて大丈夫なのか?たぶん軽く火傷してるぞ」
「別に指の火傷なんかどうとでも言えるだろ。な、らくじょー?」
『わかってるよな?』と片眼だけを向ける戸塚。
タバコを押しつけられた指は赤くなっており、小さな水ぶくれができているようだった。
「うん……大丈夫だよ」
『大丈夫』と言わなければもっと大丈夫じゃなくなる。
むしろこれぐらいで済んで良かったと僥倖に思わなければならない。全盛期の戸塚ならばあのタバコを躊躇いなく目に押し付けられていた。
歳を重ねるにつれて、必要最低限の遠慮と証拠を残さない狡猾さが成長していったのは、僕としては果たして喜ぶべきか残念がるべきなのか。
……どちらかといえば後者か。戸塚のいじめの確固たる証拠を残せるなら、顔などいくらでも火傷させてやるのに。
「そーだろうな。お前ならそう言ってくれるとわかってたぜ。あ、そうだ」
指に風を送る僕を尻目に、良いサプライズを思い付いたというような顔で戸塚はタバコの箱を再び取り出した。
「これ、お前が持ってろよ」
「え?」
「え、じゃねぇよ。こんなの持ってることがセンコーにバレたら面倒だろ。お前が預かっといてくれや」
「なんで」
「口答えすんな。いいから、ちゃんとズボンの方のポケットに入れとけ。絶対にバレんじゃねぇぞ?」
抵抗する間もなく(元からする気力もないが)ポケットに異物が入ってくる。やった人はわかると思うが、ズボンに物を入れた時の膨らみは中々に目立つ。
誰かに確認でもされたらその時点で一巻の終わりである。
「バレたら殺すからな?」
ヘラヘラ嗤いながら言うと、戸塚は取り出した携帯灰皿に吸殻を詰める(マナーが良いわけではない。証拠を残したくないのだ)。
「そういや今日、持ち物検査があったよなぁ」
目と口が固まった僕をまた一しきり嗤うと、彼らは昨日見たSNSの話題などを出しながらさっさと歩き去ってしまった。
……なんとなく、タバコを吸いたくなる人の気持ちがわかった気がした。
中のタバコを全部吸った上で空箱だけ返してやろうかと一瞬だけ検討して、やめた。