婚約者様、浮気と借金は計画的に〜大商会の娘である私と婚約することを条件に家の借金をチャラにするはずでしたが浮気するのであれば話は別ですよ?〜
──今でも鮮明に覚えています。
それは私が十歳の時、お父様の付き添いで初めて参加したとあるパーティーでのことでした。
むせかえるような甘い香水の匂いは混ざり合って渦を巻き、貼り付けたような笑顔が充満する──怖い、場所でした。
「カミラ、商家の娘なら早いうちからこの雰囲気に慣れておきなさい」
お父様はそう言っていました。
私の実家は大商会であるバートレット商会。
貴族たちとも深い関係にあり、成人すればきっと何度もこのようなパーティーに参加しなければいけなくなるだろうということは子供ながらに分かっていました。
でも、誰とも話せず壁の華になった私は思ったのです。
(こんな雰囲気に慣れるのなんて無理!)
と。
私はズキズキとお腹が痛むのを感じながら、口を忙しなく動かしていました。
無論話すためではありません。飲み食いするために、です。
別にお腹が減っていたわけではありませんでしたが、何もしてないように周囲の人たちから見られるのは嫌でした。
せめてパーティーの参加者として場から浮かない行動を取ろうとした結果、何かを口に運んでいようという結論に達したのです。
私は空になった皿を埋めるべく、再び料理の置かれた机の前に足を運びました。
──そんな時、私は彼に、クライスに出会ったのです。
「なあ、お前」
「私……ですか?」
「そう、お前だよ」
横柄な態度の少年に声をかけられました。
見れば上等な服を着た私と同じくらいの背丈で燃えるような紅い髪が印象的な少年です。
一瞬自分のことだとは気づかず、思考が停止してしまいました。
呆気に取られている私を気にせず彼は続けます。
「見た感じ俺らと同じ年くらいだろ? 向こうで遊ばないか?」
彼が指さした先には同じ年くらいの男女が空いた机を使ってトランプか何かで遊んでいました。
「いいのですか?」
「おう、ちょうど一人足りなかったんだよ」
彼は二ッと悪戯じみた子供らしい笑みを浮かべました。
「お前、名前は?」
「も、申し遅れました。カミラと申します」
「オッケー、カミラね。俺はクライス。ほら、行こうぜ」
そう言って彼は強引に私の手を取って歩き出しました。
彼は私を壁から引き剥がしてくれたのです。
そして私をパーティーの輪の中に引きこんでくれました。
彼がダングレー侯爵家の令息だと知ったのは、この日のパーティーが終わったあとでした。
パーティーが終わるころには私は……クライスのことを好きになってしまっていました。
子犬の恋、と人は言います。
それでも恋には違いありません。
クライスは私の──初恋の人でした。
それからもやけにクライスと同じパーティーで会うようになりました。
その度に私のクライスに対する思いが膨れ上がるのです。
自信家で、ちょっと強引なところはあるけれど誰よりも周りのことを見ている──私がクライスに夢中になるまで時間はかかりませんでした。
そんな時です。
私はお父様に呼び出されました。
そして私にこう問いかけるのです。
「ダングレー侯爵の御令息と仲が良いじゃないか。好いているのか?」
瞬間。
カァっと私の顔は真っ赤に染まります。
言い当てられたことが恥ずかしくて顔から火が出てしまいそうになってしまいました。
「……はい」
私の声は密やかに空気を震わせただけでしたが、肯定の意を示すには充分だったようです。
「なら、任せなさい。侯爵家、それもダングレー家と縁戚関係を結べるのは、商会としても悪い話ではない」
「ほんとですか?」
「ああ、可愛いカミラのためだ。どんな手を使っても婚約まで漕ぎつけて見せよう」
一人娘ということもあってお父様はとても私に甘いのです。
だけど、私は甘く見ていました。
父上がどれだけ私を溺愛していたかを。
そして大商会の長としての父上がどれだけ腹黒いかを。
※※ ※
それから二年ほどが経ったある日のことです。
私は十二歳になっていました。
私を呼びだした父上が開口一番に告げました。
「喜べカミラ! クライスとの婚約が決まったぞ!」
「ほほほ、本当ですか!?」
唐突な言葉に私は瞳をぐるぐるさせて戸惑うばかりでした。
あり得ない……身分だって大商会の娘とはいえ貴族ではありません。
そんな私が侯爵家の令息と結ばれることがあるだなんて……!
私は少し現実を知り始めていました。
私とクライス様が結ばれるには身分の壁が立ちふさがるということも分かっていましたし、クライス様が私を友人としてか見ていないことも分かっていました。
それでも諦めきれないのが、恋、というものなのでしょう。
商会の娘である以上合理的に物事を考えるように、と日々言われていましたが、恋だけは例外です。
理屈も打算も──好きだという気持ちの前では役に立ちません。
「ああ、少し時間はかかってしまったがついに了承してくれた!」
「ありがとうございます、お父様……」
私は破顔してお父様に飛びつきました。
抱きついた私の頭をお父様は大きな手でポンと優しく叩きました。
「ああ、カミラがそれだけ喜んでくれるなら私としても骨を折った甲斐があったよ」
ふと不穏な空気。
抱き着いたお父様の腹の内からどす黒い何かが見えた気がして。
だから私は恐る恐る尋ねてみました。
「あのお父様……一体どうやって婚姻まで漕ぎつけたのですか?」
と。
聞かなければよかったのかもしれません。
それでも私は触れてはいけないと言われた物に触れたくなるお年頃。
ほんの軽い気持ちで尋ねてしまったのです。
お父様は、はっはっはと大きく腹から笑いながら何でもないことのように口を開きました。
「カミラと婚約するならばダングレー家の借金を全部肩代わりすると言ったら目の色を変えて承諾してくれたよ」
「お父様!?」
バッと抱き着いていたお父様から大きく距離を取ります。
一体お父様は何を考えているのでしょう。
いくら娘のためとはいえ、貴族の家の借金を肩代わりするなんてとんでもないことです。
……というかそもそもダングレー家には借金があったのですか?
私の頭の中に浮かんだ様々な考えが渦を巻いてクラクラとしてしまいます。
「これでカミラはクライスと結ばれることができるし、ダングレー家はバートレット商会に頭が上がらなくなる……我ながら完璧な手腕だな」
卑怯だと思いました。
そんな相手の弱みに付け込んで婚姻に結び付けるようなやり方……。
でも……無理だと思っていた初恋の相手と結ばれることになった、その嬉しさがお父様を咎めたい気持ちを上回ってしまいます。
恋は盲目。
ならば私も目を瞑りましょう。
憧れの人と結ばれるのであれば、罪悪感を心の内側に押し込んで、蓋をするのです。
※※ ※
婚約が決まってから私は何度もクライス様とお会いしました。
年を重ねる度に男性らしさが増し、同じくらいだった背丈も今では頭一つ分以上クライス様の方が高くなっていました。
……カッコいい。
会うたびにそう思います。
子犬のような私の初恋は醒めることなく私の心を幸せで満たしていました。
段々と強引な部分が消えて紳士らしく振る舞ってくれる。
私の他愛ない話を静かに微笑みを携えながら聞いてくれる。
私は初恋が叶ったことで舞い上がっていました。
次にクライス様に会えるのはいつか、それだけを考えて日々を送っていました。
そして私は夢見がちな少女のまま、十六歳の成人を迎えようとしていました。
成人を迎えれば正式にクライス様と結ばれることができます。
私はその日を今か今かと待ち構えておりました。
しかし……私が成人を迎える直前に事件は起きたのです。
始まりは一通の手紙でした。
差出人はバートレット商会が懇意にしてる宝石店の店主からです。
当然私も面識があります。
とはいえ、個人的なやり取りをするような方からではありません。
何事かと思い手紙を開けば……
『至急お耳に入れたいことがあり、ご連絡差し上げました。ここ最近カミラ様の婚約者様であるクライス様が見知らぬ亜麻色の髪の女性を連れて当店にやってきたのです。何かの間違いかもしれませんが……最悪の事態を想定してご報告を致します』
スゥっと顔から血の気が引いていくのを感じます。
クライス様が……? 別の女性と……?
宝石店の店主が考えた最悪の可能性、それは……浮気。
考えたくもないことです。
まさかクライス様は私という存在がありながら別の女性と逢瀬をしていたのですか?
いえ、しかし情報は数と質が命だとお父様から散々言われて参りました。
私はこの数年間ただ恋に現を抜かしていたわけではありません。
クライス様に相応しい妻になれるように貴族の妻としての振る舞いはもちろん、領地の運営に関する知識や商売に関する知識を一通り学んであります。
感情と思考を切り離す術を私は既に修得しておりました。
あり得ない……考えたくない。
私はそう思いながらも為すべきことを真っ先に行いました。
つまりは裏付けです。
ただ一度の付き合いであれば、私へのプレゼントを見繕うために同性である女性を連れた、という考え方もできます。
これだけでは浮気の証拠として不十分です。
幸いなことにバートレット商会は国でも有数の大商会。
その情報網の広がりはそこらの貴族の比ではありません。
私はお父様に頼んで赤髪のクライス様と亜麻色の髪の女性に関する情報を集めることにしました。
不幸なことに……私にはその亜麻色の髪の女性に関して心当たりがあったのです。
私がクライス様と話している時にいつも傍に控えている侍女。
クライス様に夢中になってほとんど気にも留めていませんでしたが、彼女の髪は確か綺麗な亜麻色だったはずです。
どうか……何かの間違いであってほしい……。
私は祈りにも似た気持ちを抱えながらそれからの日々を過ごしました。
そして数日が経ったある日、私はお父様に呼び出されました。
私は寝不足のせいで少しおぼつかない足取りでお父様の執務室に向かいます。
「お父様、失礼します」
執務室のドアを叩いて部屋へと入ります。
瞬間、私は全てを察しました。
ドアを開けた先に、まるで悪魔に憑りつかれたように目を鋭く光らせたお父様が立っていたからです。
「カミラ……そのだな」
「分かっています。いえ、もう分かりました」
「そうか……」
お父様はそれ以上何も言いませんでした。
ただ黙って私を力強く抱きしめてくれました。
その温かさに触れた刹那。
私の目から堰を切ったように涙が溢れ出します。
感情を表に出すのは商会の娘として失格です。
いつも冷静に人を食ったような笑みを浮かべて、相手の出方を窺うのが正しい。
そんなのは分かっています。
だけど止まらないのです。
呼吸も上手くできません。
お父様が抱きかかえてくれていなかったら私はきっと膝から崩れ落ちて無様な姿を晒していたことでしょう。
子犬の恋。
私は自分一人で舞い上がって周りのことを見てもいない哀れな子犬だったのです。
クライス様が私に向けてくれていたと思っていたあの笑顔も。
他愛ない話に微笑みを浮かべて優しく聞いてくれたことも。
全てまやかしだったのです。
恋は盲目。
私は見たい物だけを見て、見たくない物から目を逸らしていただけ。
私はクライス様を愛していたけれど、クライス様が本当に私を愛していたかなんて知る由もありません。
だって私はクライス様が私を愛していると信じきっていたのですから。
目の前の相手を一切疑わずにいるなんて……商会の娘失格です……。
よく考えなくても分かることです。
私からしたら望んで止まないこの婚約でしたがクライス様からしたらどうでしょう?
家の借金の代わりに自分が売られたのだと、そう考えていてもおかしくありません。
「カミラ……この件は私から正式に……」
お父様がかつてない程優しい声で、私を慰めます。
私はただ泣き腫らすことしかできませんでした。
※※ ※
気付けば私は自分の部屋のベッドの上にいました。
泣き疲れて眠っていたようです。
不思議なことに私は……とてもスッキリしていました。
長い夢から醒めたような、そんな気分なのです。
私はクライス様を愛していました。
それは間違いのない事実です。
ですが今はどうでしょう。
もう既に過去形の感情となっていました。
そして今、私の胸の内を占めるのは怒り。
盲目だった私に対して、そして浮気をしたクライスに対して。
──復讐しないと。
そう思いました。
純情だった私の気持ちを弄んだ罪を、報いを受けさせなければいけない。
慕う気持ちの強さは反転して憎しみの強さへと変わっていました。
商売においては信用が何よりも大切です。
その信用を裏切ったクライスにはそれに相応しい報いを受けてもらう必要があります。
そのための材料は揃っていました。
※※ ※
「本当にいいのか?」
「構いません、これは私の問題ですから」
お父様と二人。馬車の中。
今日は正式に婚約を締結するはずの日でした。
私は泣き腫らした目を隠すようにメイクをして、断罪の場へと向かいます。
お父様に任せっぱなしではいけません。
これは私の問題。
私がやらないと意味がありません。
馬車がダングレー侯爵家の前に到着すると、私たちは迎えの執事の制止を振り切って、クライスの待機しているであろう控室へと進みます。
もう何年も通っているのです。
屋敷の内部で迷うことはありません。
そして私はノックもせずに、扉を開け放ちます。
バン、と大きな音が二人を固まらせます。
部屋の中にいる二人を見て、私は思わず苦笑を漏らしました。
本当に救いようのない男です。
婚約締結の儀の直前だと言うのに、浮気相手、亜麻色髪の侍女と抱き合っていたというのですから。
「カミラ……?」
間抜けな声を漏らしたクライスに私は嘲りの笑みを浮かべます。
ああ、私が愛していたはずの男はこんなにもつまらない男だったなんて。
ですが、今は好都合です。
婚約者以外の女性と抱き合う姿を見られたのですから、追及する手間が省けたというものです。
「違うんだカミラ、これは!」
「何が違うのですか?」
私は冷淡な声で言い放ちます。
その普段とは違う冷たさにクライスの顔が引きつるのが見て取れました。
「宝石店でそれはもう仲睦まじく買い物をされていたようですねぇ」
「……」
「それに今仕立て屋に作らせているドレス、私にプレゼントするには少しサイズが小さいと思いますよ。ちょうどその侍女の方にピッタリのサイズですわね」
「……何故、それを」
クライスは声を震わせて怯えています。
商人の情報網を甘く見過ぎです。
「それに最近随分羽振りがよろしいようですね。ダングレー侯爵家は今多額の借金をしているというのに。もしかして結納金をあてにしていたのですか?」
クライスと亜麻色髪の侍女の顔がどんどんと青ざめていきます。
ああ、その顔が見たかったのです。
でも私が味わった絶望は六年分。
その程度では足りません。
地獄に落として差し上げましょう。
「というわけでお父様、この度の婚約は破棄してもよろしいですよね?」
「当たり前だ。こんなやつに大事な娘をやれるか!」
「そんな……じゃあ」
「ああ、借金を肩代わりする、という話ですか? それももちろん無しですよ」
「この悪魔……」
青ざめていたクライスの顔に苦々しい憎しみの炎が灯ります。
だけどそれは吹けば消せるような弱々しいもの。
怖くもなんともありませんでした。
クライスはガックリと膝を落として項垂れます。
ようやく自分のしでかしたことの重大さに気が付いたようです。
その顔が……見たかったのです。
「それではごきげんようクライス様」
用件を伝え終えた私にこれ以上ここにいる理由はありません。
私はお父様と一緒にさっさと立ち去ることにしました。
一刻も早くこんな場所からはおさらばしたかったからです。
私は最後、振り返らずに元婚約者に告げました。
一人の商人として。
──浮気と借金は計画的に。
このあとダングレー侯爵家は没落して、カミラは数年後に商会でも有望な青年と結婚して幸せに暮らしたそうです。
ブラバする前に感想や↓の★★★★★から評価をしてくれると嬉しいです。