贖罪の拳
強い力が頰を撲つ。私はひゅっと引き攣ったような音を喉の奥から上げながら、ぼんやりとふるわれた拳に目線を向ける。
ひょろりと伸びた、なまっちろい腕の先についた、みっともないほど小さな拳。あの情けない拳の、どこからあれだけの力がふるわれるのだろう。殴られた頬はこんなにもじわじわ痛むというのに、拳のほうは綺麗なもので、すんと澄ましたように白いままだ。
「痛いよぉ」
小さな声でそう呟く。
瞬間、先ほどとは逆の頬に拳が振り下ろされる。
ごりゅんとした感覚が頬を走り、鈍い音が頭の中で響き、目の前では控えめに白い星がスパークした。力に耐えられず、後頭部が枕に沈む。
殴られたからといって痕は残らない。漫画みたいに口元が切れたりもしない。ただただ不快なだけの鈍い衝撃と持続する痛みがあるだけだ。
自分の頬を目掛けて振り下ろされる、自分の拳をじっと見つめる。
私はこの拳に何を期待しているのだろう、と鈍く痛む頬に反対の手を当てながら考える。手の触れた頬は驚くほどに熱い。鏡を見ても何も変化はないのに、内部は傷付いているのだろうか。見えないところでも痛むということは、きちんと傷ついているということなのだろう。
こうなると、私は少し安心する。
だって、見えなくても殴られれば痛いのだ。傷の目視の可否にかかわらず、与えられた痛みは間違いなく存在するし、痛い時は痛いのだ。その痛みに嘘偽りはなく、他人の意図は介在しない。
ーー甘えでしょ。
脳裏に鈍く響いた嘲笑に、笑みが溢れる。持ち上がった頬が痛む。
目視できる傷無くしてずきんずきんと痛む頬が、私の痛みは当然のものだと主張している。
ーー気にしすぎだよ。
心を締め付ける心ない言葉に、また笑みが溢れる。
心のない人間にはこの痛みは分かるまいなあと、傲慢な笑いが込み上げる。
自傷行為なんてくだらないと笑い飛ばしていたいつかの私が、恨めしそうにこちらを見ている。
そんな幻影の後ろから、父と母が。恋人が友人が知人が。同僚が上司が部下が。全く見知らぬ他人が。
我先にと拳を振り下ろしてくる。寸分違わず私の頬を目掛けて振り下ろされるその拳を、しかし私は避けようともしなかった。ごすんごすんと振り下ろされる拳の痛みに呻きながら、それでもその拳を待ち望んで仰向けのまま。
「どいつもこいつも消えてしまえ」
口からうすら暗い言葉を吐く。低い音で呟かれたそれは呪詛のような凄みを持つ。
消えてしまえばいいのだ。
都合のいい時だけ自慢の子だという両親も。
私に隠れて浮気をして、問い詰めた私を口先で言いくるめた気になっている馬鹿な恋人も。
心配したふりだけして陰で悪口を言う友人も、私のことを根掘り葉掘り聞いて情報を売ろうとする知人も。
人の手柄を奪うことだけに長けた同僚も、叱責と八つ当たりを履き違えた上司も、人を馬鹿にするしか脳のない部下も。
私のことをよく知りもしないくせに私を推し測って知ったような口を聞く他人も。
みんなみんな、一切合切、塵一つ残さず消えてしまえばいいのに。
怒りを込めて拳を振り下ろす。
それだけのことを願っても、どうせ世界は変わらないし、人は消えたりしないのだ。
だから、きっと、そんなことを考える私の方が狂っているのだ。
「消えろ、異常者」
「ゴミクズ」
「お前如きが一端の口をきくな」
「身の程を弁えろ」
「しね」
「死ね」
「死ね」
呪詛と共に拳が振り下ろされる。強かに頬を撲つその拳が震えていることなど、きっと常人には分かるまいなあ。
「やめてください、ゆるしてください」
振り下ろされるとわかっている自身の拳に乞う。
自分で力を込めてしまえば簡単に止められてしまうその拳は、しかし止まることなく自身の頬に振り下ろされる。
ごつんと当たるその痛みに、私はまた恐怖し、身を縮める。
消えてしまえと他人の振りをして頬を撲つ己の拳に、赦してくださいと請う。
赦してください。撲っても蹴ってもいいから、わたしが生きていることを赦して。