プロローグ
世界なんて滅べばいい。
俺――黒崎刹那は、毎日そんなことを考えているだけの、ごくごく平凡な高校生だった。
母親は三つの時に愛人を作って蒸発。
家では親父に毎日罵倒され、殴る蹴るは当たり前の生活。
学校に行きゃクラスの連中から陰険な嫌がらせをされ、不良どもからもサンドバッグ扱い。
体中にあざや生傷を作っても、誰からも手を差し伸べられず、ただ苦痛を受け入れるだけ。
教師は俺のことなど存在しないかのようにふるまい、目すら合わせない。
嫌がらせにも暴行にも理由はない。
なぜ俺を殴るのかと聞けば、きっとやつらはこう答えるだろう。
――目の前に無抵抗で殴りやすいやつがいたから、とりあえず殴ってるだけだ、と。
俺はそんなクソみたいな人生を送る、ごくごくありふれた高校生だった。
高校三年になるが、進路のことなどなにも考えていない。考えられるはずがない。
いつかアル中の親父に殴り殺されるか、逆に親父を殺して刑務所に行くか――それ以外の未来など思いもつかないからだ。
バイトして貯めた金で家出を図った時も、善意の通報者が親父に告げ口してくれやがったおかげで、俺は気絶するまで殴られたあげく逃亡資金も根こそぎ奪われた。
こんな生活で、まっとうな未来なんて思い描けるはずもない。
だから――
楽しそうに将来の展望を語っているやつらを見ると、胸が灼けるような嫉妬とともに、思わずにはいられない。
「世界なんて滅べばいいのに」
それが子どもじみたやっかみだということはわかっている。
世の中には『当たり前の幸せ』を当たり前に手にできる人間がいて、俺はそうじゃなかった。
ただそれだけのことだ。
その程度のことでこんなに絶望するなんて、きっと俺は性格が歪んでいるのだろう。
だが――それがどうした。
性格が歪んでいようが知ったことか。
俺は、俺を受け入れなかったすべての人間を呪ってやる。
俺を傷付けたすべての人間を憎んでやる。
そうしなければ、俺は一生やつらの食い物にされるだけだ。
俺を見て嘲笑い、俺を傷つけることを楽しみ、俺からなにもかも奪っていく連中。
やつらの幸せがどういう犠牲の元で成り立っているのか、思い知らせてやらねばならない。
学校からの帰り道――暗い冬の夜道を歩きながら、俺は長年かけて固めた決意をかみしめた。
学ランの上に羽織るコートなどなく、ポケットに手を突っ込み、首をすくめて寒さをしのぐ。
しばらく歩いて街灯の下で立ち止まると、俺は古ぼけたアパートの二階を見上げた。
明かりのついたその一室には、働きもせずに一日中酒をあおっている男の影が映し出されている。
その影をにらみながら、俺は決意を確かめるように、ポケットの中の硬い感触を握りしめた。
不良からくすねて隠していた、折りたたみ式のナイフ。
――今日こそ、決着をつけよう。
俺はもう、誰からも『俺の人生』を奪わせない。
例え、相手が血のつながった父親だったとしても。
覚悟とともに、街灯の下から夜の闇へと足を踏み出し――
「――――っ!」
突然めまいに襲われ、俺は闇の中に落下した。
平衡感覚がなくなり、前後も天地もわからない。
視界全体が真っ暗になり、体の感覚もあやふやになる。
奈落の底へ落下していくような墜落感と、脳みそを直接ゆさぶるような不快感だけが、急速に俺の意識を埋め尽くしていき――
「もう……無理……」
あまりの気持ち悪さに耐えきれず、俺は意識を手放した。
◆
気がつくと、俺は洞窟の中にいた。
魔法陣が描かれた地面の上に、俺は間抜けな格好で尻餅をついていた。発光する魔法陣が洞窟内をほのかに照らし、正面に座るひとりの少女の姿を浮かび上がらせている。
美しい少女だった。
芸術品のように整った白皙の美貌を、背中まで伸びた長い金髪が縁取っている。年は俺と同じくらいだろうか、整った顔立ちにはまだわずかに幼さが残っている。
髪の隙間から伸びた耳は長くとがっていて、なにかで読んだエルフってやつを連想させた。
濡れた碧眼が俺の目をのぞき込み、興奮のためか頬はわずかに上気している。
華奢な体を包むワンピース型の白いドレスも、革製の白いヒールも泥だらけだったが、彼女自身から発せられる高貴さは少しも減衰していなかった。
彼女の桜色の唇が開き、熱い吐息とともに言葉が漏れる。
「あぁ……まさか、本当に成功するなんて……」
感極まったのか、彼女は震える手を差し伸べると、俺の手をやわらかく握る。
殴られる以外で久しぶりに触れた人間の手は、どきりとするほど温かかった。
「勇者様……召喚に応じていただき、心から感謝を申し上げます」
湿った情感をにじませる声音を聞きながら、俺は漠然と理解する。
「お願いです、勇者様。どうかわたしの願いを聞き届けてください。どうか――」
――ああ、これは。
「わたしを、殺してください」
――最高に面倒くさいことになりやがったな、と。