狂おしいほどに、桜
もう、この桜の木の前に立つようになって何年経っただろうか。
いったい何度、この樹が落とす桜の花びらに、身を包まれただろうか。
そっと樹の幹に手を添える。
ごつごつとした樹皮の感触は、僕なんかよりもはるかに長い時間生きてきた、命の重みを感じさせる。
手を滑らせると、そこには生々しい傷跡があった。
深くえぐれて、樹皮の下の組織部分まで見えるその傷跡からは、鋭い刃物で、何度も何度も切り付けられたことが分かる。
僕が、付けた傷だ。
ごめんな、と心の中でつぶやく。
二度、呟く。
一つ目は、これまで沢山傷つけたことに対しての謝罪。
そしてもう一つは、これから傷つけてしまう事への、謝罪。
これで最後だから。
なんの免罪符にもならない呟きは、とっぷり暮れた宵の闇に飲まれて消えた。
手になじんだ鉈を構え、何度も打ち付けた桜の木の樹皮に対峙し、僕は目を瞑る。
鉈を振りかぶる瞬間、生ぬるい風が頬を撫でた。桜色の花吹雪が僕を包む。
瞬間、僕の脳裏を、まるで走馬灯のように今までの記憶が走り抜けた。
僕がこの桜の木に初めて傷をつけた日。
あの日僕は、まだ小学生だった。
✿✿✿
神社の裏手に、少し広い空き地がある。
そこは近くの小学校に通う子供たちの格好の遊び場になっていた。
理由は二つ。
一つは小学校から近く、適度に広いから。
もう一つは、人が滅多に来ないから。
「げ……ぇっ……」
どんな風に呻いていたかは覚えていないけど、とりあえず蹲って嘔吐して、涙を流していたことだけは間違いない。
だってあの頃の僕は、放課後になればいつだってあいつらに殴られていた。
「うわぁ、きったねぇ」
「はー、すっきりした、行こうぜー」
「お腹すいたなー」
何人組だったかな、それすら記憶は曖昧だ。
日によって相手も違ったし、組み合わせも違ったからしょうがない。
とにもかくにも、あの日も僕は同級生やその兄弟にぼこぼこにされて、空き地の片隅で泣いていた。
小学生の頃にいじめられる理由なんて、深い物じゃない。
体が小さいから、よわっちいから、物静かだから、なんか気に食わないから。
まぁ、大方こんなところか。
どれかに、もしくはその全てに該当した僕は、低学年の頃からいじめられていた。
いじめるやつらの中には、僕と同じくらいの身長のやつもいたけれど、最低一人はやたらとがたいのいい奴がいて、よくそいつが筆頭になっていた。
けがをすれば当然両親は心配したけれど、共働きで疲れて帰ってきている事を知っていた僕は、ちょっと転んだだけ、と笑顔で取り繕っていた。
親を心配させたくなかったのも勿論だけど、それ以上にいじめられているという事実を知られたくなかったんだと思う。
そんなこんなで、両親にばれることはなく、学校側に露呈することもなく、いじめは続いていた。
まぁ、教師の何人かは気付いていてもおかしくなかったと、今から考えれば思うのだけれど。
いつかは終わるだろう。
年が変われば終わるだろう。
クラスが変われば終わるだろう。
学年が変われば終わるだろう。
その全てに裏切られ、それでも何も言わず、誰にも言わず、耐えて、耐えて、耐えていた僕は。
けれど、その日決壊した。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!」
泣いた。
みんなが居なくなった空き地の隅で、真っ暗な暗闇の中で、声を上げて泣いた。
どうして僕ばっかり。
なんで僕が。
僕はなんでこんなにも弱いんだろう。
こんなにもどんくさいんだろう。
何をやってもうまくいかないんだろう。
やるせなくて、やりきれなくて。考えれば考えるほど、やっぱり苦しくて。
心にあまりにも大きなモヤモヤが溜まっていて、僕はむせび泣いた。
その時、月明かりを浴びて静かに鈍く光る物が視界に入った。
鉈だった。
その日だったか、もっと前だったか。
天国について先生が話してくれたのを思い出した。
曰く、天国はとても綺麗で美しくて、そして苦痛がない。楽園の様なところだと。
死んだ後に、今まで苦労した人が心を休める場所なのだと。
僕は天国に行きたいと思った。
こんなにつらい思いをしているんだ。
天国にだってきっと行ける。
この鉈で手首を切れば、きっと一瞬で死ぬことができる。そう思った。
今から考えれば、あまりにも猟奇的な思考回路なのだけど、あの時の僕はそれくらい追いつめられていた。小学生の思考は短絡的で、偏狭で、そして突飛だ。
痛む体を引きづって、僕は鉈に近づいた。
そして、柄に手をかけ、持ち上げた。
持ち上げようとした。
「え」
後から分かったことだけど、大きな刃物というのはそれだけで結構な重量で、僕の貧相な、傷ついた体では、持ち上げるのにかなりの力が必要だった。
それを知らなかった僕は、予想外の鉈の重さによろめき、転び、そして――――鉈は近くの樹の幹に深々と刺さった。
瞬間。
僕は野原の中にいた。
さっきまで夜だったはずなのに、太陽は高く高く昇っていた。
あまりの眩しさに目がくらんだ。
ゆっくりと目を開けて、周囲を見渡すと、どう考えてもそこは神社裏の空き地ではなかった。
限りなく広い野原、緩やかに隆起する丘と、視界の先に広がる大きな村。
その景色に圧倒され後ずさると、こつんと後頭部に何かが当たった。
この異色な光景の中、唯一見覚えのあるもの。
僕が間違って傷つけた、桜の木だった。
あぁ、きっと罰が当たったんだ。
神社に生えている桜の木に傷をつけたから。それで僕は、罰として遠い遠い世界に飛ばされてしまったんだ。
そんな事を考えていた僕は、とん、と肩を叩かれ、飛び上がらんばかりに驚いた。
で、振り向いてさらに驚いた。
「これはまた、珍しいお客さんが来たものだねぇ」
「え、え、あ……」
まず、耳に目がいった。
三角形のかわいらしい耳はぴょこんと顔の上側についていて、ぴこぴこと細かく動いている。
次に顔だ。毛むくじゃら。灰色の毛がふさふさと生えている。顔どころの騒ぎじゃない、腕も足も、何もかも毛むくじゃら。
まぁ、簡単に言えば。
「猫の化け物⁈」
「誰が化け物じゃ無礼者っ!」
「いってぇええ!」
思いっきり杖で叩かれて、僕は叫んだ。
正直何が何だか分かってなかった。
でもこれが間違いなく僕の人生の分岐点。
ババ様との出会いだった。
✿✿✿
「にゃはは、さっきはカッとなって叩いてしまって悪かったのぅ、ほれ、お食べ」
「ど、どうも」
訳も分からぬまま、僕は近くの村に案内されていた。
この猫の化け……おばあさんは、自分の事をババ様、と名乗った。
案内された先は、ババ様の家だった。
見たことのない造りの家だなぁ、なんてあの頃は思っていたけれど、今から思えば、あれは茅葺屋根の家だった。
「さて、カナタ、と言ったかの? お主、別の世界から来たのじゃろう?」
「は、はい! ぼ、僕神社の裏にある空き地にいたんですけど、それで鉈をとろうとして、転んで、それで桜の木を傷つけちゃって――――」
「んー、早口過ぎてなんだかよく分からんが、大体の事は察しが付く。お主のように、『異なる世界』からやってきた人は、他にもおったのでなぁ」
「そ、そうなんですか……?」
「遠い遠い、わしが生まれるよりさらに前の話じゃがの」
ずずっとお茶を一口飲んで、ババ様は続けた。
「あのリムの木には、不思議な力があるらしくてなぁ」
「リムの、木?」
「あー。向こうの世界では『サクラ』と言うんじゃったか?」
なるほど、こちらの世界では桜の木のことをリムの木と呼ぶのか、と僕は頷いた。
この時の僕は知る由もないけれど、この世界には、僕らの世界とは違う呼び名の物がそれこそ山のようにあった。
結局、僕はその全てを覚えることはできなかった。
「あのリム……いや、あの桜の木の幹を傷つけると、異なる世界間を行き来できるのじゃ。お主の世界で傷つければ、こちらに。こちらの世界で傷つければ、あちらに」
「……ということは」
「左様、帰る事は容易い。来ることもな」
「……」
ババ様の話を聞き、僕は複雑な心境になった。
こっちに来てからずっと、両親の顔がちらついていた。帰れなくなったらどうしようと。けれど、よくよく考えてみれば、僕はそれ以前に――――。
もやもやとする思考を断ち切りたくて、僕はババ様に質問した。
「そんなに簡単に行き来できるなら、もっといろんな人が来てそうですけど……」
「ふむ、中々に聡いのう。歳はいくつじゃ?」
「は、八歳です」
「ニチェと一緒か……主が聡いのか、うちのが阿呆なのか……」
「にちぇ?」
また何か知らない単語かと思い、聞き返した僕に、ババ様は首を振って応えた。
「すまぬ、こちらの話じゃ。左様、お主の考える通り、世界間を行き来する条件が、鉈で桜を傷つけるだけであれば……もっと多くの者たちが行き来しているじゃろう」
「じゃぁ……」
「条件はもう一つあるらしいのじゃ……カナタ、お主、『死にたい』と思っておるのか?」
「――――っ」
突然、見透かされたように言い当てられた僕は、嘘を付くこともできず、思わず口ごもった。
無言の肯定、というやつだったのだろう。
ババ様は悲しそうに顔を歪め、それまでで一番優しい声音で言った。
「よければ、話してくれんか?」
自分でもとても現金な奴だ、と思うのだけれど。
数拍の後、僕はぽつりぽつりと身の上話をした。
きっとそれは、相手が身内でも、知り合いでも、ましてや、僕の世界の住人ですらなかったからだと思う。そして、ババ様の声が、表情が、雰囲気が、とても優しかったからだと思う。
全てを話し終えると、ババ様はゆっくりと立ち上がり、僕の傍に座り、そしてそっと僕を抱きしめた。
もふもふの毛と、温かな太陽の香りが僕を包んだのを、よく覚えてる。
「かわいそうにのう……よく今まで耐えたのぅ……」
「……」
正直、泣きそうだった。
鼻の奥がつんとして、目の奥がかっと熱くなって、ぽろぽろと涙がこぼれるのは時間の問題だったけど、初めてあった人の前で泣くのは恥ずかしい、という我ながら無駄なプライドが、それを押しとどめていた。
「言い伝えでは、あの木は人生に苦悩する者が現れた時に、世界間の架け橋となるそうじゃ。そして、その者の行く末を見守る、と。それがどんな意味を持つのかは分からぬ。けれど、お主がここに来た事、わしに出会ったことは、運命だと思うのじゃ」
ぽふんぽふん、と頭に弾力のある何かが当たった。視線をあげると、ババ様が僕の頭を撫でてくれていた。大きな肉球に撫でられるなんて、中々ない経験だったと思う。
「この世界を、この家を。お主の心の癒しにすればいい。逃げ場所にすればいい。叶うならば、支えになればいいと思う。あしげく通ってくれても良い。なんなら、住んでくれたって構わない。命を投げ出すのではなく、そうして少しずつ、傷ついた心を癒してみては、どうじゃろうか?」
出会ったばかりで。しかも相手は人ですらなくて。
そんな奇異な状況でそっと差し出された提案は、僕の心に驚くほど綺麗に染み渡った。
「はい、お願い……します」
どうせ僕の世界には友達なんていない。学校が終わった後は、いつもいじめられている。
こちらの世界に来れば、あいつらは追ってこれない。解放される。
一度は死を決意した僕だったけれど、ババ様の優しい言葉と提案は、その浅はかな決断を思い留まらせるのに十分な力を持っていた。
本当に、ババ様には頭が上がらない。
僕の返答にほっとしたのか、ババ様はにこりと笑うと、そうじゃ、と呟き、部屋の外に向かった。
「ちょっと待っておってくれ」
「はい……?」
どうしたんだろう、と小首をかしげて待つこと数分、彼女たちは現れた。
とたとたという軽い足音と、楽し気な笑い声が近づいてきて、僕は思わず身を縮こまらせたっけ。
「カナタ、紹介しよう。わしの孫娘、ニチェとアーニャじゃ。ほれ、二人とも挨拶をし」
「アーニャです。カナタ君、初めまして」
「は、はじめまっうわぁあああ!」
「うひゃぁっ! 耳がない! 尻尾もない! お肌ちるちる! きゃははははは!」
気づいた時には、僕は既にやんちゃな女の子に押し倒されていた。
これも後で知ることだけど、この世界の住人「ヌコ族」の皆は子供の頃は毛が薄くて、徐々に毛深くなる。
小さいころの見た目は、耳とか尻尾を除けば、結構人に似ていて。
そんな見た目をしているから、押し倒された僕は彼女の肌のぬくもりとか、息遣いとかにすごく動揺したのを覚えている。
「こりゃニチェっ! あんたは本当に落ち着きがないねぇ……少しは姉のアーニャを見習ったらどうだい?」
「えー、ニチェはニチェ、アーニャちゃんはアーニャちゃん。そうでしょう?」
「いつの間にか口ばっかり達者になって……」
「ねーねーカナタくんカナタくん! 違う世界から来たんでしょう? どんなところなの? 住んでるのは皆カナタくんみたいな見た目なの? どんな食べ物をたべてるのどんなところに住んでるの! おーしーえーてー!」
「え、と。あ、あの……」
あの時の僕は、あー、目はやっぱりネコっぽいなぁとか、結構可愛い顔してるなぁとか、ていうか顔近いなぁ、とか。
そんなどうでもいい思考ばかりが頭をしめていた気がする。きっと、いきなりのことで混乱してたんだろうな、うん。
「にーちぇー?」
「ひゃうっ!」
アーニャにきゅっと首根っこを掴まれて、ニチェはくるんと丸くなった。
ほんと、何から何まで猫みたいだった。
「ごめんねカナタ君。私は姉のアーニャ。この子が妹のニチェ。カナタ君と同い年で、私は二人より五つ年上なの。何か困ったことがあったら、いつでも言ってね?」
アーニャはとてもしっかり者で、やんちゃで元気いっぱいなニチェをどうにかできるのは、彼女だけだった。
こういう表現が適切かは正直分からないんだけど……二人ともとても可愛くて、美人で。僕は内心とってもどきどきしていた。
元気、という文字に、手足と耳と尻尾が生えたみたいなニチェ。
おしとやかさと気高さに、これまた手足と耳と尻尾を添えたみたいなアーニャ。
二人との出会いは、僕の人生にとってかけがえのないものだったと、自信を持っていう事ができるよ。
ありがとう。
✿✿✿
さて、それから僕の生活は変わっていった。
学校が終わればダッシュで神社の裏に行き、よいしょと鉈を振り上げて、桜の幹を傷つける。
そうして向こうの世界に行き、アーニャやニチェと一緒に遊ぶ。
向こうで日が傾く前に、僕はこちらに戻ってくる。
そんな毎日を繰り返すと、おのずといくつかのパターンみたいなものが見えてくる。
まず一つ、桜の木の傷つける場所は、どこでもいいってわけじゃないらしい。
僕が最初に傷をつけた、根元から一メートルくらいの場所。
そこを強く、鉈で切る。一切手加減をせずに、全力で。
一度試しに力を抜いて切ってみたけれど、その時は異世界に飛ぶことはできなかった。全く仕組みは分からない。
そして二つ目。
時間の流れ方は向こうとこちらで変わらない。だけど、時差みたいなものがあった。
こちらの時間で丁度12時間ほどの時差。
だから放課後に向こうに行くと、ちょうど朝方で、こちらの世界で夜になる前に、僕は戻って来ていた。
あんまり夜遅くなりすぎると、父さんと母さんが心配するしね。
向こうで何をしていたかというと、とりたてて特に何もしていなかった、というのが正しい。
よくゲームや漫画であるような、勇者みたいに悪の権化と戦う事もなければ、ヒーローみたいに誰かを救う事もなかった。
ただ毎日、ニチェとアーニャと一緒に過ごしていた。ババ様の家事の手伝いをしたこともあったっけ。
あぁ、でもそういえば一度だけ。
一度だけ、魔獣と戦ったことがあった。
あれは確か、異世界とこちらを行き来するようになって、丁度一年くらい経った頃のことだった。
✿✿✿
「あー! まためそめそしてる!」
きっかけはニチェの責めるような言葉だった。
あの日はそう、学校の体育の授業でドッヂボールがあった日だ。
異世界とこちらを行き来するようになって、一年ほどが経っていたけれど、相変わらず僕はいじめられていた。思えばあの時の僕は、異世界に来る事をただ逃げ場にしていたんだと思う。
だから変わる事もなく、成長することもなく、ドッジボールで嫌と言う程ボールを当てられた僕は、放課後になってすぐに桜の木を傷つけて、ニチェとアーニャに会いに来たのだった。
「かわいそうに、体中痣だらけじゃない。……こっちにおいで、傷薬ぬったげるから」
アーニャは優しかった。
僕がいじめられてやってくると、「どうしたの?」と話を聞いてくれて、うんうんと相槌を打ちながら静かに僕の泣き言を受け止めてくれて、そして最後にはそっと僕を抱きしめて、よしよしと頭を撫でてくれた。
僕はそれがたまらなく気持ちよくて、毎日の様にアーニャに甘えていた。
一方、ニチェは厳しかった。
いじめられて泣き寝入りするのはおかしい。耐えるのはおかしい。
そう言ってはいつも泣いてやってくる僕を咎めて、いじめているやつらをやっつけようと、色々策を練ってくれた。
当時の僕には分からなかったけれど、あれも間違いなく僕を気遣ってやってくれていたことで、形は違えど、彼女も僕の事を心配してくれていたのだと思う。
「あー! まためそめそしてる!」
だから、あの言葉もまた、責めるようではあったけれど。彼女なりの優しさが含まれていたのだろう。
「いつも言ってるでしょ、やられたらやり返さなきゃダメだって!」
強い彼女の言葉に怯え、僕は泣きながらアーニャの服の裾を強く握った。
「誰もがそんな風に強く生きられるわけじゃないのよ、ニチェ。カナタは優しいから。このままでいいの」
「優しさとあきらめることは別物でしょう?」
「またどこでそんな屁理屈を覚えてきたの……」
実はニチェはババ様の部屋にこっそり忍び込んで、本を読み、見栄えのいい言葉を見つけては覚えていたのだけれど、それはまた別の話だ。
「とにかく、私は納得いかない! カナタ、いくよ!」
「え、え……?」
「ちょっと、ニチェ?」
ニチェは僕の手を取ると、ずんずんと歩き出した。
この頃は僕よりニチェの方が力は強くて、体も少し大きくて、僕は成す術もなく引っ張られた。
やがてたどり着いたのは修練場と呼ばれる場所だった。
異世界の村の外には魔獣が徘徊していて、村の中に入って来ないよう、門兵たちが見張っていた。
修練場は、そんな門兵たちが腕を磨く場だった。
「よーーーーし、行ってこい、カナターーーー!」
「へ? へ? うわぁああああああああああ!」
修練場の周りには子供が入れないように柵が立っているんだけど、たまにぼろくなって壊れそうになっている部分があった。
ニチェはそこを蹴破るや否や、僕をその中に投げ飛ばした。
「ニチェ! 何やってるのあなた!」
「こうでもしないと、カナタは一生あのままだもん!」
「言ったでしょう、それでいいの! こんなことまでして――――」
柵の外からする二人の話声が、いやに遠く聞こえた。
正確には、その時僕は、そちらに注意力を割くほどの余裕がなかった。
目が、意識が、感情が、全て目の前の化け物に注がれていたから。
コボルト、という魔獣だった。
親戚のおじさんが飼っているゴールデンレトリバーを三倍くらい大きくして、顔を五十倍ぐらい獰猛にして、毛並みを思いっきり悪くした挙句、二足歩行にしたみたいな化け物が、そこに居た。
門兵の修練用に飼われていたコボルトは、実は口に鉄の枷がついていて、手足は柱につながれていたから、本当は僕に危害が及ぶ可能性は万に一つもなかった。
でも、その時の僕はそんなところまで把握できるほどの余裕はなくて、ただ目の前の得体のしれない化け物が襲い掛かってくるビジョンしか見えなかった。
逃げよう。
叫ぼう。
助けを呼ぼう。
頭の中はそんな逃げ腰な考えでいっぱいだったんだけど、少しだけ冷静な思考が、その時の僕には働いていた。
あぁ、僕の人生みたいだな。って。
そんな事を思った。
目の前の大きな怪物は、さながら僕の人生にいつも立ちはだかる、困難そのものを体現しているみたいに見えた。
それは体の大きないじめっ子かもしれない。
内気な僕を怒る先生かもしれない。
難解な言葉で書かれたテストかもしれない。
いつまでも強くなれない、変わる事の出来ない――――自分の弱さかも、しれない。
これに打ち勝たなければ。
倒さなければ。
自分は一生このままなんだと、言われている気がした。
「いやだ」
そんなのは嫌だ。
「いやだ」
いやだ。
「いやだ!」
いや、なんだ。
いつまでも逃げてばかりなのは。
気づいた時には、僕は近くに落ちていた木の棒で、コボルトの顔を思い切り殴っていた。
「ぎゃうん⁈」
切羽詰まった僕の気持ちとは裏腹に、なんのこっちゃと僕を眺めていただけのコボルトは、不意をつかれてその場に崩れ落ちた。
後から気付いたんだけど、毎日思い鉈をふるっていた僕は、その年にしては人並み以上に筋力がついていたらしい。全然気づかなかったけれど。
その後、ニチェはババ様にこっぴどく、それはもう、不憫になるくらいにこっぴどく怒られて、修練場の柵はばっちり強化された。
あれを最後に、僕は魔獣と戦ったことも、相対したこともない。
異世界は平和で、本で読んだような戦いはなくて、戦争や小競り合いなんかは、ずっとずっと、遠い国同士で行われているようだった。
そこで繰り広げられている戦いとは、似ても似つかない、笑ってしまうくらいにあっけない出来事だったけど、あの日コボルトと遭遇した経験は、僕に大きな変化をもたらした。
具体的には、いじめっ子たちが全く怖くなくなった。
「こんなところで何やってんだよ」
にやにやと、いつもの通りやってきたいじめっ子のAだかBだかCだかは、校舎裏で休み時間を穏やかに過ごそうと思っていた僕に絡んできた。
「別に何も……」
「へぇ、じゃぁ相撲しようぜ、相撲!」
「やらないよ……」
よくあるやり口だった。
相撲を取ろうと言って、あるいはプロレスをやろうと言って。
その実5対1くらいの、スポーツマンシップに毛ほども則らない謎の競技をやらされるのだ。
そして、万が一先生に見つかれば、遊んでいたんです、と言い逃れする。小賢しい手だ。
「あ? やるんだよ」
僕に拒否権はない。
首根っこを掴まれて、無理やりリング上に上がらされて、なんの構えもないままに、戦いのゴングが勝手に鳴る。
いつもの光景だった。
そう、いつもの。
「……やらないって、言ってるだろ」
僕の肩に伸びてきていた手を払いのけて、僕は言った。
内心、すごくドキドキしていて、口から心臓がもんどりうって出てきそうだったのは内緒だ。
それでも僕は、初めてはっきりと拒絶の言葉を口にした。
「……誰に向かってそんな口きいてんだ?」
目の前にいるいじめっ子は、クラスメイトだった。
異世界の化け物じゃない。
手の大きさはよく見れば同じくらいだし、鋭い爪もついていない。
顔はどっちかといえば不細工だし、目は一重で垂れ目だ。
真っ赤に燃える、切れ長の獰猛な目じゃない。
牙もついていない、歯並びは悪いけど。
あぁ、なんだ。全然怖くないじゃないか。
僕は一体何に怖がっていたんだろう、と笑いそうになった。
きっと僕が怖かったのは、いじめっ子たちそのものに対してではなく、僕が勝手に描いていた、彼らに対するイメージに対してだったんだろう。
そのイメージは、殴られるたび、蹴られるたび、どんどん凶悪に、醜悪に肥大化していってやがて絶対勝てない化け物に育ってしまった。
だけど。
「んー……誰だっけ、名前、忘れちゃった」
異世界でコボルトと対峙したことで、そのイメージは粉々に砕かれた。
そんなイメージよりも、遥かに怖い化け物に僕は立ち向かえたんだから。
こんなやつくらいどうってことないだろう?
そう思えた。
「お前ら、やっちまうぞ」
その日、僕は初めてケンカをした。
まぁ結果から言えば、当然一対多数で勝てるわけがなくて、最終的に僕はいつも以上にぼこぼこにされたわけなんだけど。
それでも僕は泣かなかった。なんなら、清々しい気分だった。
僕は戦える。
僕は立ち向かえる。
その確信が、持てたから。
傷だらけの泥だらけでやってきた僕を見て、アーニャは泣きながら、ニチェは爆笑しながら、僕を迎え入れてくれた。
静謐で嫋やかに揺蕩う、清流の様なアーニャ。
温かくも激しく弾ける、焚火のようなニチェ。
二人の異なる優しさに触れて、僕はこの時からだんだんと大人になっていく。
✿✿✿
中学生になると、僕をいじめるやつが少しずついなくなっていった。
みんなが心的に成長したり、環境が変わったり、理由は色々あったかもしれないけど。あの日僕が反抗したことが、大きな理由一つではあるらしかった。
どうやらあの時僕が歯向かった相手は、自他ともに認める相当の悪ガキだったらしく、そいつらに一矢報いたことが、他のいじめっ子たちの抑止力となったようだ。
そんな事があったからか、僕にも初めて、こちらの世界で何人か友達ができた。
休み時間に一緒にだべったり、帰り道に寄り道したり、お互いの家に遊びに行ったりする経験は、それはそれは新鮮で、刺激的で、楽しくて。
僕が異世界に行く頻度は、小学生の頃よりも減っていた。
それでもやはり、週に数度は行っていた。
楽しい事があった時、悲しい事があった時。
僕は桜を傷つけて、ニチェやアーニャに会いに行った。
彼女たちの事を、僕はすごくすごく大切に思っていたから、大好きだったから。
会いに行きたいと思っていた。
それでもある日、目に見えて来る頻度が下がった僕に。ニチェが怒ったことがあった。中学三年生くらいの時だった。
「そんなに自分の世界が楽しいなら、もう来なかったらいいんじゃない⁈」
友達と休み時間にしでかした、最高に面白い出来事を微に入り細に入り語った僕に、ニチェはそう言い放つと、家からどたどたと出て行った。
「……僕、なんか変なこと言った? 話、面白くなかった?」
あらあら、とニチェを笑って見送ったアーニャに、僕は問いかけた。
「面白かったわよ? でもそうね……あの子は面白くなかったかも」
「どっちなのさ」
「嫉妬してるのよ」
「嫉妬? 誰に?」
「あなたの世界の、お友達全員に。もしかしたら、あなたの世界、そのものに」
「……?」
イマイチ意味が分からない僕に、アーニャは優しく微笑んだ。
僕やニチェよりは少し年上なアーニャは、腕や顔にだんだんと毛が生えてきていた。
ヌコ族の人たちが、大人になり始めた証拠だ。
その美しいシルクの様な毛並みを撫でながら、とつとつとアーニャは話した。
「ニチェは……もちろん私も、ババ様も、あなたのことが大好きだから。つい独り占めしたくなるのよ。かなうなら、ずっとこちらにいて欲しいと、思っているんじゃないかしら」
「……僕だって二人の事は大好きだよ。もちろんババ様も。でも、仕方ないじゃないか。僕には僕の世界があって、君たちには君たちの世界がある。それはどうしようもないことで、だからそれであんなふうに怒られるなんて、僕は……」
「その通りよ。カナタは間違ってないわ。でも、あの子の気持ちが間違っているとも、私は思わない。気持ちと理屈は別物で、気持ちに善悪はないの。ニチェの中に生まれた感情を、私は大事にしてあげたい」
アーニャのいう事も、分からなくはなかったけど、僕はやっぱり釈然としなかった。
「アーニャは大人だね……。ニチェは……子供だよ。そんなだから、全然毛が生えてこないんだ」
自分の口から出た言葉は、思ったよりも拗ねたような声音で、僕はまたもやもやした。
ニチェくらいの歳になれば、もう毛が生えてきていてもおかしくなかった。
けれど、ニチェは未だに毛が薄く、ともすれば見た目は僕ら人間とほとんど変わらなかった。
本人はそれを気にしているようで、少しでも僕がそのことについて触れると烈火のごとく怒った。
ヌコ族の爪はやっぱりネコと同じだと痛感したのもその時だ。
「ふふ、私はニチェが羨ましいけどね」
「……どうして?」
「どうしてだと、思う?」
その時のアーニャの目は。
いつものように優しくはなかった。
責めるようで、愛でるようで、泣きそうで、でも笑いそうで。
そして何より、艶やかで、色っぽかった。
「それ……は……」
言いよどむ僕に、アーニャがにじりよった。
その様はまさにネコそのもので、音もなく、静かに距離を詰めた彼女は、僕の顔を下から覗き込んだ。
ふわりとお日様の香りがした。
「わからない、よ……」
絞り出すように、僕はそう答えた。
「そっか」
糸の様な声で、彼女も答えた。
「どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーして誰も追っかけてこないのよーーーーーーーーーーーーーー!」
嵐の様なニチェが帰ってきたことで、その話題はおしまいとなった。
それ以来僕も、アーニャも、あの時の事について話したことはない。
なんとなく、理由については思い当たる節もあるのだけれど、それは僕の勘違いかもしれないし、思い過ごしかもしれないし、とんでもない思い上がりなような気もするから。
僕の気持ちも、僕の答えも。
そっと、心の中にしまってある。
✿✿✿
高校生になった。
僕の体はすっかり大きくなっていて、アーニャやニチェよりも力が強くなっていた。
春、僕は学校に行く前に、何となく通いなれた神社の裏手に足を運んだ。
特に理由があったわけじゃない。ただ、春になれば沢山の桜の花を咲かせてくれる、あの木を、一日の初めに見ておきたかったんだと思う。
「あ、れ……?」
異変に気付いたのは、その時だ。
「こんなに……少なかったっけ?」
桜の花が、例年よりも少なかった。
僕が小学生の頃は、むせ返るような桜吹雪をまき散らしていた、あの桜の木は。
今はもう、頼りないくらいに少ない花を咲かせていた。
「どうして……」
そう言いながらも、僕はなんとなく察していた。
僕は異世界に渡る時、桜の木に傷をつける。
還る時も、傷を付ける。
僕は何度も鉈をふるって来た。
辛い時。
泣きたいとき。
苦しい時。
どうしようもなく、逃げ出したいとき。
楽しい事があったときも。
嬉しい事があったときも。
みんなに会いたいときも。
会いたくてしょうがない時も。
鉈をふるって。
ふるってふるって、ふるってふるって。
傷つけて傷つけて切って切って、切り続けてきた。
何度も何度も。
数えきれないくらい。
そうすれば当然、桜の木は弱ってしまう。
こうして、桜の花をつける気力がなくなってしまうくらいに。
「そんな……」
桜の木に近づき、樹皮に触れる。
ごつごつとしていて、どこかあたたかい。
そして、更にとんでもない事に気付く。
「――――っ⁈」
僕がいつも切っている反対側。
つまり、異世界から帰る時に切っている部分。
そこにも、深い切り傷が付いていた。
前と後ろ。
その両方にある生々しい傷跡を見て、僕は察した。
異世界に居る時に切っていた桜の木は、この樹とは別物だと、思っていたけれど。
本当は一緒の、一本の木なのだという事に。
異世界に渡ればわたるほど。異世界から帰ってくれば、帰ってくるほど、桜の木は前後から傷つけられ、弱っていく。
そして最後には、きっと――――
僕は知る。
僕は察する。
この世界と、向こうの世界。
遠くない未来。
僕はいずれ、そのどちらかに行くことができなくなる。
僕は、選ばなくてはならない。
どちらの世界に、身を置くのかを。
✿✿✿
その日から。
僕は考えるようになる。
僕の生まれた世界。
僕を救ってくれた世界。
どちらで生きていくのが、正しいのか。
ババ様、ニチェ、アーニャ。
その他にも、向こうの世界で優しくしてくれた人は沢山いる。
傷ついた心を癒してくれて、僕に生きる道を示してくれた彼女たちと永遠に分かれることになれば、僕の心はぽっかりと空いてしまうだろう。
できることならば、向こうに住みたい。彼女たちと生きていきたい。
ならば、こちらの世界を捨てるのか?
友達も増え、楽しみも増え、なにより、僕を生んでくれた両親がいる、この世界を?
それも違うだろう。
この世界は確かに、僕に厳しくて、小さい頃は僕の事を嫌いなんじゃないかと思ってはいたけれど。
そんなことは、当然なくて。
ただ僕が、一方的に嫌いだっただけで。
今僕は、これからの人生に悲観してはいない。
ここで生きていきたいと、思っている。
桜の樹皮に、手を這わせる。
まだ答えを出す必要はない。
この樹が倒れるまでは。
この樹が死ぬまでは。
まだ時間がある。
ゆっくりと時間を掛けて、答えを出せばいい。
そんな風には、思えなかった。
僕は、この樹を殺したくはなかった。
あの日、浅ましくも死を選ぼうとしていた僕を救ってくれた桜の木。
その後も、自分の身を削りながら、僕を優しい世界に運んでくれていた、桜の木。
いつだったか、ババ様が言っていた。
「お主の世界と、こちらの世界は、輪の端と端にあるようなものじゃ。相対していて、決して見ることはできないけれど、それでもどこかつながっているのじゃ」
世界が輪でつながっているならば。
僕は桜の木の中にある年輪という輪を傷付けることで、その理を壊して、世界の間を行き来していたのかもしれない。
樹の寿命を、かつん、かつんと削りながら、行き来していたのかもしれない。
だとすれば。
今の僕は、桜の木の命によって成り立っている。
考えた。
考えて、考えて。
何度も泣いて。
何度も苦しんで。
頭を壁に打ち付けて。
叫んで。
喚いて。
どうしようもない気持ちで押しつぶされそうになりながら。
僕は答えを出した。
✿✿✿
もう、この桜の木の前に立つようになって何年経っただろうか。
いったい何度、この樹が落とす桜の花びらに、身を包まれただろうか。
そっと樹の幹に手を添える。
ごつごつとした樹皮の感触は、僕なんかよりもはるかに長い時間生きてきた、命の重みを感じさせる。
手を滑らせると、そこには生々しい傷跡があった。深くえぐれて、樹皮の下の組織部分まで見えるその傷跡からは、鋭い刃物で、何度も何度も切り付けられたことが分かる。
僕が、付けた傷だ。
ごめんな、と心の中でつぶやく。
二度、呟く。
一つ目は、これまで沢山傷つけたことに対しての謝罪。
そしてもう一つは、これから傷つけてしまう事への、謝罪。
これで最後だから。
なんの免罪符にもならない呟きは、とっぷり暮れた宵の闇に飲まれて消えた。
異世界と、こちらの世界。
どちらも僕にとってかけがえのないものになった。
それはとても贅沢なことで、ありがたいことで。
この奇跡に、感謝しなくてはならないと思う。
けれど、奇跡は当然、永遠には続かない。
僕は選ぶ。
僕は選んだ。
僕はずっと、ニチェとアーニャの世界を「異」世界と呼んでいた。
こちらの世界に、「帰って」来る、と言っていた。
向こうの世界に「行く」と言っていた。
それは最初から今までずっと変わらなかったことで。
それはつまり、この世界が僕にとって戻ってくるべき場所であるという事なのだと、思った。
僕は、この世界で生きる。
両親が生んでくれた、ニチェもアーニャもいない世界で生きる。
そう決めた。
あの世界はきっと、僕がこれから生きていくために必要な心構えを。有り様を、強さを、弱さを、人の温かさを。
教えてくれるためにあったんだ。
ふらふらしていた僕を導くための世界だったんだ。
ならば今。
完璧とは程遠いけれど、それでも少しずつ自立している僕には、もう必要がないだろう。
そう思った。
そう思うことにした。
手になじんだ鉈を構え、何度も打ち付けた桜の木の樹皮に対峙し、僕は目を瞑る。
鉈を振りかぶる瞬間、生ぬるい風が、頬を撫でた。桜色の花吹雪が、僕を包む。
瞬間、僕の脳裏を、まるで走馬灯のように、今までの記憶が走り抜けた。
ババ様との出会いを思い出した。
ニチェとアーニャとの出会いを思い出した。
彼女たちとの会話を思い出した。
コボルトとの邂逅を思い出した。
アーニャの静かな優しさを思い出した。
ニチェの激しい優しさを思い出した。
視界が歪む。
嗚咽がこぼれる。
きっとみっともない姿をしている。
ニチェとアーニャは、こんな僕を見て、なんて言うだろうか。
アーニャはどうしたの? と優しく聞いてくれるだろう。
ニチェは、また泣き虫に戻った! と騒ぎ立てるだろう。
どうせ数分後には、自分だってボロボロ涙を流すにきまっているくせに。
泣くかな?
泣いてくれるかな?
泣かしたくないけど、彼女たちの涙を見たくはないけれど。
でも、やっぱり悲しんで欲しいな。
はは、僕って自分勝手な奴だ。
これで、最後にする。
みんなに挨拶をして、そしてこちらに戻ってくる。
その後はもう二度と、僕は向こうの世界に渡らない。
最後にするから。
あぁ、だからどうか。
今狂おしい程に咲き誇っている、桜の木よ。
死期を悟ったかの如く、狂い咲いた桜の木よ。
どうか、後一度、耐えてくれ。
僕が世界を渡ることを許してくれ。
数限りない謝罪を込めて、あふれるくらいの感謝を込めて。
僕は鉈をふるった。
✿✿✿
長い時が過ぎた。
僕は大学生になった。
あれから一度も、異世界にはわたっていない。
最後に交わした、ニチェとアーニャ、そしてババ様との言葉は、僕の胸の中にそっと締まっておこうと思う。
桜の木は、まだ生きている。
もうほとんど花を咲かせることはないけれど、それでもまだ、その根を深々と地に差し込んでいる。
植物医師という職業を知ったのは、進路を決めるときになってのことだった。
異世界に渡らなくなってから、またぼんやりと毎日を過ごしていた僕にとって、それは天啓の様だった。
僕を救ってくれた桜の木に、今度は僕が恩返しをする。
僕が傷つけた桜の木を、僕の手で癒す。
それが、今の僕の夢だ。
もう二度と会う事はないけれど。
それでもやはり、思い出してしまう。
時には涙を流してしまう。
なぁ、ニチェ、アーニャ、ババ様。
みんな元気にやってるか?
応えはない。
それでも僕は前を向く。
この世界で、一つの夢に向かって歩き出していく。
一歩ずつ。
異世界には背中を向けて。