5 桂と溺れ死んだ神
五、八月一日 午前六時十五分
「美味しい!」
うなぎの蒲焼きを口いっぱいに頬張って、椎奈が歓喜の声を上げた。
夏休み。早朝にもかかわらず七割がた席が埋まった、品川発新大阪行き東海道新幹線のぞみ203号の普通車内でのことである。
「なんか悪いわね。私まで御馳走になっちゃって」
通路を挟んだ隣の席から、柏木が申し訳なさそうに声をかけてくる。
「……いいえ」
三人分の弁当代を拠出したオーナーは、すっかり軽くなった財布を握りしめて力なく会釈を返した。
「いいんです、兄はお金持ちですから」
新幹線の始発駅である品川駅に着くや否や、駅ナカの売店に直行し、なんの躊躇もなく国産うなぎ弁当(特上)を指定した鬼妹は、国産うなぎ弁当(特上)を美味しそうにやっつけると、今度は量り売りのポテトサラダをもさもさ食べ始める。
「なんかあったの? それ」
柏木が桂の頬を指差した。
「……別に何も」
誰が見てもひっかき傷だとわかるみみず腫れを、桂は隠すように頬杖をつく。横から椎奈が口をはさんできた。
「言えないわよねー。妹の」
「椎奈さんお茶飲みますか!」
桂はお茶のペットボトルを恭しく差し出す。
「あらどうも」
じゃあ床に寝ろと言うのかという苦々しげな桂の呟きをスルーして、椎奈はお茶をこくんと飲んだ。
「三重県のなんていう場所に行くんですか?」
桂の鼻の頭越しに訊ねる。
「松阪市。そこにある神社が目的地」
「松阪か。お肉が美味しいところですね?」
そうだっけ? 柏木は首を傾げる。食には興味がないらしい。
「にいさん松阪牛だよ。楽しみだね」
「……食べないぞ。いいか? 食べないからな?」
うなぎだけで十分だ。釘を刺す桂を無視して、椎奈はうきうき顔で柏木に訊ねた。
「松阪のなんていう神社に行くんですか?」
「亜佐加神社。猿田毘古が祀られている神社よ」
柏木は早口で素っ気なく答えた。昨日のようにマニアックな話を熱く語って、堅気の衆に引かれるのは避けようと思ったのだろう。だが。
「猿田毘古? 猿田毘古って聞いたことありますよ。天孫降臨でしたっけ?」
火をつけたのは椎奈の方だった。柏木の目つきがぎょろっと変わる。
「……きみ、日本神話に興味あるの?」
「はい」
椎奈が肯く。
「へえ」
隣で桂が感心した。初耳だ。椎奈の部屋の本棚にはその手の本が並んでいたりするのだろうか。それはともかく。
「そうなんだ。興味あるんだ」
例のスイッチがポチンと入ってしまったらしい、柏木は座席から身を乗り出した。大きなお胸が肘掛けでつぶれて形を変えたが気にしない。頼んでもないのに解説が始まった。
「『天孫降臨』は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命が葦原中国つまり地上を治めるために三種の神器を携え天津神を従えて高天原から降りてきたことを指すのよ邇邇芸が降り立った場所や随伴神については諸説あるけれど共通しているのは地上へと降りるその道中に国津神が顕れるっていうくだりね行く手に立ち塞がった国津神を不審がって先に進めなくなった邇邇芸の使者としてその神に対峙したのが天宇受売命」
ふう、こりゃ長くなりそうだなと、目を閉じて背もたれに寄りかかった桂だったが、聞き覚えのある神さまの登場に、ん? と耳を傾けた。
「宇受売に誰何されたその神は、自らを猿田毘古大神と名乗り、邇邇芸を出迎えに来たのだと告げた。古事記にはそう記されているわ。日本書紀もほとんど同じね」
「じゃあ道案内をするために現れたってことですか?」
椎奈が問う。
「まあそういうことね。話には続きがあって、その後、故郷の伊勢で漁をしていた猿田毘古は、貝に手を挟まれて溺れ死んでしまうのよ」
それは間抜けすぎる死因だった。ひょっこりと道案内をしに現れて用が済んだら死んでしまう。テレビドラマの友情出演的な神さまだった。というか神が死ぬのか。
「奇妙な話だと思わない? 猿田毘古は暗殺されたって私は思っているのよ」
暗殺? 思いもよらない展開に桂はぎょっとする。
「これは私の推測だけど」
そう前置きして、柏木は舌の動きを加速させた。
「邇邇芸と猿田毘古の間に戦があった。猿田毘古は敗けたのね。戦わずに降伏したのかもしれないわ。どちらにしても猿田毘古は領地を安堵されて故国に帰り、ほっとしたところを後ろからグサリ」
生々しい展開だ。現実でもありそうな話だ。
「だけど、古事記には戦があったとか、暗殺されたなんて書かれてはいないんですよね?」
桂が言うと柏木は。
「正史や教科書に書かれていることを無批判に受け入れちゃ駄目よ。自分が正しいって面をしているものをこそ、まず疑ってかかりなさい」
そう言って眉をひそめてみせた。
そりゃ金言だとは思うけど。現役中高生に言うことじゃないだろ。僕や椎奈がひねくれて育ったらどうするんだ。
「溺れ死んだ猿田毘古の体は海底で〈底どく御魂〉に、吐いた泡が〈つぶ立つ御魂〉に、海面で割れた泡が〈沫咲く御魂〉に別れたんだけど。そのうち〈底どく御魂〉が〈底度久神〉っていう名前で、亜佐加神社の一つに祀られているのよ。まずそこに行く予定」
柏木が話を戻す。
「一つ? 亜佐加神社はいくつもあるんですか?」
椎奈が耳聡く指摘した。
「そうよ。大亜佐加神社と小亜佐加神社。二つの神社が直線距離で一キロも離れていない場所に鎮座しているわ。元々は亜佐加神社っていう神社が一社、亜佐加山の頂上にあって、ある理由で別々の場所に遷座したそうだけれど。分からないのはどうして三つじゃないのかということよ」
「二つじゃいけないんですか?」
椎奈が首を傾げると柏木は頷いた。
「猿田毘古は死んで三つの御魂に分かれたって言ったわよね? 大亜佐加神社も小亜佐加神社も祭神は三柱ずつなのよ。つまり、
○大亜佐加神社
祭神 一、猿田毘古神
祭神 二、伊豆速布留神
祭神 三、底度久神
○小亜佐加神社
祭神 一、猿田毘古神
祭神 二、伊豆速布留神
祭神 三、竜天大神
ここまで三って数にこだわったのなら、どうして社も三つにしなかったのかしら。そうすれば、三つに別れた猿田毘古の御魂を一社に一つずつ祀ればいい。すっきりするじゃない?」
じゃない? と言われても困るけれど。
「その辺のことを宇受売は教えてくれないから、天照に聞きたかったんだけど。天照はいつ出てくるの?」
柏木が期待を込めて椎奈の顔を覗き込む。椎奈は首を横に振った。桂が代わって答える。
「昨日も一昨日も、昼間はずっと天照だったんですけど」
今日に限って朝起きた時から椎奈だった。おかげで弁当を買わされる羽目になった桂である。
「そう」
柏木は残念そうに言った。
「仕方ない。自力で調査するしかないか。元々そのつもりだったけど」
「フィールドワークですか?」
「研究論文の主題だから。ずっと現地調査をしたかったんだけど、ようやく来られたわ」
「……もしかして、あたしたちお邪魔だった?」
微妙な言葉のニュアンスを感じ取ったのか、椎奈が申し訳なさそうな顔になった。
平沢椎奈さんは他人を思いやれる優しい子ですと、通知表の連絡欄に書いてあったのを思い出す。しかし、だったら兄のことも少しは思いやってくれたらいいのにと願う桂である。
「構わないわ。人に話すことで考えを整理できるし。きみたち兄妹のお役にも立てたみたいだし」
柏木が不器用に微笑む。
「お役?」
何のことだと桂が首を傾げると。
「旅行したかったんでしょ?」
柏木が椎奈に言い。
「わかります……?」
椎奈はえへへと照れ笑いした。
「……」
椎奈は旅行に行きたかったのか。
夏休みになると家族旅行をするのが平沢家の恒例だった。
一昨年は桂の高校受験で中止になり、今年は椎奈が高校受験だ。去年の家族旅行が中止になったのは、桂が友達と遊ぶ方が楽しいと言って旅行に行くのを渋ったからだ。
「もっと妹のことを大事にしてあげなさいよ」
「兄は朴念仁ですから」
椎奈がすまし顔で言う。柏木がぷっと噴き出した。
なんだこの疎外感。
一人蚊帳の外に置かれて釈然としない桂をよそに、N700系のぞみはぐんぐんと加速して定刻通り午前七時半過ぎに名古屋駅に到着。一行は特急ワイドビュー南紀に乗り換えて、その一時間後、松阪駅へと降り立った。
地方都市の駅前はどうしてどこも代わり映えしないのか。
などと口に出そうものならば、地元の有志の皆様から小一時間ほど説教をくらう羽目になりそうだが、桂はいま正にそんな気分だった。
人体の七割を占める水分を沸騰させんばかりに照りつける真夏の日差し。
これでもかこれでもかと鳴き続ける蝉の声。
駅舎を背にして立ち尽くし、無駄に広いバスロータリーのむこうに林立する無個性な四角い建築物の群れを眺めていると、ここがどこだか分らなくなってくる。
タクシーを呼びに行ったまま柏木と椎奈は戻ってこない。
場所を変えたら二人とはぐれてしまいかねず、桂はわずかばかりの日陰を求めて、もう小一時間ばかり駅舎の壁にへばりついているのだった。
どうして僕はここにいるのか――。
哲学的な意味ではなくて即物的な意味で。
なにが悲しくて、夏休み中の男子高校生が、神社巡りなんぞにつきあわされて地方都市の駅前に佇んでなければならんのか。椎奈が余計なことを言い出さなければ――。
「…………」
言い出さなければ今頃は、大学の研究室で本と一緒に缶詰めにされていたのか。
「…………」
そういえば柏木は、お面の集団が平沢家を襲撃した理由を宇受売に訊ねてくれたのだろうか。
古典芸能の皮を被った暴徒に襲われる理由なんて、桂は思い当たらない。
椎奈だってそうだろう。妹は高校受験を控えた極普通の女子中学生だ。
毎朝起きて学校に通い、夕食後にはリビングルームのソファーに寝転がって携帯片手にSNSで友人たちと交流しているし、休日には連れ立って遊びに出かけてもいる。つい先日も勉強会をするとかでクラスメイトが大勢うちにやってきた。その中に椎奈にやたらと馴れ馴れしい男子がいたが、あれはもしかしたらボーイフレンド……、かもしれないが、いや、それはどうでもいい、どうでもいい。
ともかく平沢桂と平沢椎奈は、一般的な家庭に属する一般的な兄と妹に過ぎないのだ。
「…………」
過ぎなかったと過去形にするべきなのだろうか。椎奈はもう『普通の』とは形容できない中学生になってしまったのかもしれない。そしてその原因は自分にある――。
蜃気楼が視えた。
降り注ぐ紫外線と蝉時雨の下を、少女が一人、まっすぐこちらに歩いてくる。
少女が着ているサックスブルーのキャミソールワンピースがふわふわと揺れるたびに、足元の影がやはりふわふわと形を変える。
避暑に訪れたのだろうか。
家族とはぐれたのかもしれない。
道を尋ねる気だろうか。
自分もこの辺には不案内なのだが。
そんなことを取り留めなく考えているうちに、少女は桂のすぐ目の前に立って。
「置いていかれちゃった」
少女の顔が視界の中でぐにゃりと歪む。
「にいさん、大丈夫?」
「……え」
蝉の声が怯えたように途切れた。
桂の顔を椎奈が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫? 駅の中で待っていればよかったのに」
「あれ……、いま、夢を……」
「夢ぇ?」
椎奈の小さな掌が、汗ばんだ桂の額にぺたりと触れる。
「熱中症じゃないの? 危ないよ?」
「……うん。あれ? 柏木さんは?」
「タクシーがなかなか捕まえられなくて、結局レンタカーを借りることになったんだけど、一緒に来てもつまらないだろうからって置いていかれちゃった。あとで電話するって」
マイペースな人だった。好意的に評価したらの話だが。
しかし、こんなところで置き去りにされてしまって、柏木が戻ってくるまでどうしていろと言うのだろうか。殺人的な日差しを掌で遮り白茶けた風景を呆然と眺める桂を。
「あっちに神社を見つけたの。散歩しようよ」
椎奈が誘った。
「暑いから嫌だ」
その誘いを桂は即断ったのだが。
「木陰もあるし、ここより涼しいよ。すぐ近くだし、ね、行こう」
そう言って桂の腕に自分の腕をするりと絡ませる、椎奈の肌はしっとり湿って冷たかった。
ビルの谷間のかび臭い狭道を抜けると、生活道路を一本隔てたむこう側に色褪せた朱鳥居が現れた。
知らぬ間に市街地の只中に取り残されてしまったような、頼りなさげな鳥居をくぐって、参道沿いに植えられた木々がつくる日陰に足を踏み入れた途端、視界がふっと暗くなり、呼吸がすっと楽になった。
アスファルト道路の上よりも気温が数度は低いのだろう。それでも真夏の炎天下に散歩しようという酔狂な人間はいないらしい、広くて清潔な境内を平沢兄妹は二人きりで歩く。
「覚えてる? 昔、お祭に行ったときのこと」
いやいや歩く桂の前を、スキップするように歩いていた椎奈が、くるりと振り返って言った。
「お祭なんて何回も行っただろ?」
思春期を迎えて、家族という間柄が気恥ずかしかったり煩わしかったり感じるようになる前は、祭の日には家族みんなで近所の神社に出かけたものだ。今年は――。今年も、たぶん行かないのだろう。
「最初に行ったときのことだよ。覚えてないの?」
椎奈が試すような目つきで桂を見る。
「最初?」
家族四人で最初に行った夏祭り?
「…………ああ」
思い出した。椎奈が浴衣を泥だらけにしてしまったあの年だ。昼過ぎまで降っていた雨がつくった水溜りで、椎奈は盛大に転んで――。
――ふっ、と。
ある風景が脳裏に浮かんだ。
桂は歩いていた。
そこは神社の参道だった。
両隣を歩いているのは父と母で、椎奈の姿はない。
椎奈が生まれる前の記憶だろうか。
違う。
母が抱いている赤ん坊。それが椎奈なのだろう。これが椎奈の言う初めての夏祭り――。
違う。
赤ん坊の頃のことを、赤ん坊だった椎奈自身が覚えているわけがない。
つまりこれは『椎奈が記憶している初めての夏祭り』ではなくて『桂が記憶している初めての夏祭り』なのだ。
桂たち家族が歩くそこは見知った地元の神社ではなかった。どこか遠くの神社まで出掛けたことがあったのだろう。
季節は夏なのだろうか。この記憶には温度という概念が抜け落ちていた。
はっきりしているのは、銀色に輝く玉砂利が敷き詰められた参道の清潔さと、拝殿の前に真っ直ぐ立っている白い男。そしてその男が抱いた赤ん坊――。
椎奈?
見間違うはずもない。その赤ん坊は椎奈だった。
白い男に抱えられて、赤ん坊の椎奈が桂のことをじっと見ていた。
では母が抱いている赤ん坊は誰だ?
誰だ? 誰だ? 妹はいったい誰なのだ?
にいさん
「え?」
いつの間にか参道は終わり、桂は拝殿の前に立っていた。椎奈が心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫? やっぱり具合悪いんじゃない?」
「いや……、そんなことないけど……」
「だって顔色悪いよ。汗だってすごいし」
椎奈が差し出したハンドタオルを受け取ると、桂は拝殿へと上がる石段に腰かけた。せり出した屋根がつくった日陰で汗を拭う。
「お祭のこと、思い出した?」
「……え、ああ」
曖昧に肯くと、椎奈の顔がぱっと明るくなった。
「思い出したんだ。あたし泣いてたでしょ」
はにかみながら言う。
「え?」
「知ってるくせに。あたしが夜店のお面に夢中になっていたら迷子になっちゃって。にいさんが探しに来てくれたんじゃない。……思い出したんじゃないの?」
「あった。そんなことあった。あれ? あれが初めてのお祭りだっけ?」
「そうだよ。でも結局、二人そろって迷子になっちゃって。あんな狭い神社で迷子もないもんだけど、あの頃はまだ二人とも子供だったもんね」
そうか。そうだ。そうだった。そして母親が探しに来てくれるまで、兄妹は揃って泣き続けたのだった。
「にいさん大泣きしてたよね」
「……」
迷子になった椎奈を発見したところまでは良かったが、探している間に両親とはぐれてしまい、不安になった桂は大泣きして、あろうことか椎奈に慰められるという屈辱的な体験をしたのだった。
「でも嬉しかったんだ。おにいちゃんが探しに来てくれて。だから、あのあと、あたしはあんまり泣かなかったんだと思う」
そんなもんフォローになるか。くそう。余計なことを思い出させやがって。ん? 今なんて言った?
「おにいちゃん?」
って言った?
桂が代名詞の変化を指摘すると、椎奈の顔が真っ赤になった。元々色が白い分、赤面ぶりが余計に目立つ。
「おおお、おにいちゃんなんて言ってないよ!」
声がくるりとひっくり返る。
「言っただろ。おにいちゃんって」
「言ってない! 言ってないってば!」
「なんでそこまで否定する?」
「う、うるさい! 馬鹿!」
ふんっと顔を背けた妹は耳たぶまで赤い。
妹に馬鹿と呼ばれるのにはもう慣れた。否、慣れてはいけない気もするが、さほど気にならなくなったのは、妹が馬鹿に込めた意味が分かるようになったからだろう。今の馬鹿は照れ隠しといったところだろうか。それにしてもさっきの風景は。まるで椎奈が椎奈でないようなあれはいったいなんだったのだろう。
「にいさん」
「ん?」
「あれ」
椎奈が指差す境内の隅に、いつの間にか屋台のソフトクリーム屋があった。
炎天下、重たいリヤカーを引っ張ってやって来たのだろう、麦藁帽子をかぶった老人が首にかけた手拭いでしきりに汗を拭っている。
「買ってこいと?」
視線もよこさず椎奈が肯く。渋々尻ポケットの財布を探る桂の鼻先に、椎奈がぶっきらぼうに手を突き出した。
「一緒に行く。どの味か選ばなくちゃいけないし」
まだほんのりと顔を赤らめたままの椎奈の手に、そっと重ねた桂の手を、椎奈は掴んで引っ張ったのだが。
「……」
桂は石段に腰かけたまま、びくとも動かなかった。
うすらとぼけた表情から、兄が故意に立ち上がらないよう脚と腰に力を入れているのだと気付いた椎奈は。
「なんなのよっ」」
こうなったら意地でも立たせてやるとばかりに、踵にぐっと体重をかけて、背中を思いっきり仰け反らせた。
「立てー……っ!」
渾身の力を込めて牽引する。
「お、お、おお……」
桂の腰が、ぐ、ぐ、ぐ、と持ち上がっていって。そして次の瞬間。
「きゃあ!」
汗でつるんと滑ってしまい、椎奈の手から桂の手がすっぽ抜けた。勢いよく仰向けに倒れて背中から地面に叩きつけられる。
「……あれ?」
痛くない。
南にむかって伸びた枝葉と雲ひとつない夏空を、きょとんと眺める椎奈のお尻の下から声がした。
「……どいて」
「え。あ。おにいっ!」
瀕死の玄関マットみたいに地べたに横たわった桂の上から、椎奈は慌てて飛びのいた。
「な、なんでっ?」
忍者超人のような早業で椎奈の下に滑り込んで、クッション人間と化した桂のことを信じられないといった面持ちで見る。
「なんでって……」
立ち上がり、服に付いた土ぼこりを払い落としながら、なんでなんだろうなあと桂は首をひねる。
桂はおにいちゃんなんだから椎奈のことを守るのよ。いじめっこからも。自然災害からも。いいわね?
――などと、幼い頃から繰り返し母親に教え込まれてきた桂である。偏った英才教育はやがて強迫観念と化し、自分でもわからないうちに倒れゆく椎奈の下に滑り込む羽目になったのであった。
「……椎奈が怪我をしないようにだろ」
首をひねりながら言う。
「!」
すると椎奈は、きゅーと息を吸い込んで唇をわななかせ、顔の部品を大きく広げて、
「ばっ……」
と言ったかと思うと、くるっと背中をむけてしまった。
「椎奈?」
「……」
「椎奈さん?」
「……」
返事がない。悪ふざけが過ぎて怒らせてしまったらしい。
「じゃ、じゃあアイス買ってきまーす……」
歩き出そうとした桂の手を椎奈が握った。そっと、でも離れないようにぎゅっと。
屋台の前で桂が、
「財布が開けん」
と手を解くと、今度は桂のTシャツの裾を握り、拝殿の石段に座ってソフトクリームを食べている間もずっと、椎奈は桂の手に指の先を触れさせたままだった。
「…………」
桂は困惑した。怒っているのにくっついてくる、椎奈の意図が不明だった。そろっと盗み見た椎奈の顔は、さっきまでとは正反対に真っ白で、ますます意味が分からなくなった桂は、ただただ無心にソフトクリームを舐めまわす。
木立が地面に落とす影が短くなった。
蝉の合唱が止んだ。
ソフトクリームの屋台がいなくなった。
「にいさん」
久しぶりに聞いた妹の声はかすれていた。かすれた声で言う。
「あたしたちが、ほんとうの兄妹じゃなかったらって想像したことある?」
どどどどどどどういう意味だ?
桂は激しく動揺した。
ほんとうの兄妹じゃなかったら? それはつまり妹を辞めたいっていう意味か? 僕の妹でいるのがそんなに嫌なのか? 女装癖の持ち主で、しかも妹の服を無断で拝借するような兄だからか? うわ、キモって思われているのか? だいたい、ほんとうじゃない兄妹って何だ? 兄妹と見せかけておいて実は……、何だ?
動揺に動揺を重ねた結果、そもそも自分が何に動揺しているのか判らなくなった桂は。
「き、兄妹じゃなくて、ほんとうは姉妹だったりして」
「……」
「しまい……」
「……」
やってしまった。
本日の最高気温は摂氏三十二度。三日連続の真夏日なのに桂を中心とした一帯だけ震えがくるほど寒かった。椎奈、お姉さんよ。とかいう余分な台詞を辛うじて言い留まった桂は、語彙の豊富な妹が繰り出してくるだろう辛辣な言葉の刃に身構える。だが。
「…………」
返ってきたのは沈黙という、さらに残酷な仕打ちだった。
「うああ、ええと……」
寒気を通り越して悪寒が背筋を迸る。夏だというのに凍えてくる。
「だだ、だって兄妹でしょ? 生まれたときから一緒だったんでしょ? そんなの想像したこともないよ」
どうにか取り繕おうとする桂だったが。
「…………」
答えは――。
やはり――。
ないのか――。
「愛の告白かの?」
と思わせておいて、あった。あ? 愛?
「あ、い、いや、そうじゃなくて」
「何を慌てておる。さては汝、妹に邪な念いを抱いておるな? 相姦は神にのみ許された禁忌じゃぞ」
特徴のある言い回し。桂は妹の顔を見た。悪戯っぽいどんぐり眼がきょろっと桂に向いている。
「あ、天照?」
「美味じゃのう。豊かな食文化は平和の証拠じゃな」
いつの間に入れ替わったのだろう、桂の隣でソフトクリームを舐めているのは椎奈ではなく天照だった。
「度を越えた兄妹愛は秘匿せねば社会から抹殺されてしまうぞ。ま、汝の場合は平気か」
言いながら、桂の手をきゅっと握ってくる。
「と、当然です」
桂は慌てて手を引き抜いた。妹の顔で妹のことを追及されると調子が狂って仕方がない。桂は話題を変えることにした。
「天照」
「なんじゃ?」
「ヒモロギって、あれはいったい何なの?」
平沢家を襲撃した能面をかぶった集団。その正体と目的を桂は知らないままだった。
「おぉ、ヒモロギか」
天照は、コーンの尻尾を口にぱくんと入れてしまうと、指を体の前で組み、んんーと腕と背筋を伸ばして。
「いい質問じゃ、あいつらはなー」
野に咲く可憐な花のように微笑みながら。
「糞じゃ」
暴言を吐いた。
「く……、くそ?」
「そう。あれは糞じゃ。ひねりつぶしてもひねりつぶしても、次から次へとひり出てくる糞の群れじゃ。よいか桂、糞というのはな」
「待って! 待って! ちょっと待って!」
にっこりとして排泄物の異称を連呼する天照を、桂は泣きそうになりながら制止する。
「なんじゃい。答えてやっとるのに」
女神が不満げに鼻を鳴らした。
「く、こ、言葉を選べ! 神さまなんだろっ? びっくりする! びっくりするから!」
「神にも好き嫌いくらいあるわ。吾はあの糞蟲どものことが腹の底から嫌いなのじゃ」
なんか新しい代名詞が出た。
「それはわかった。きみが連中を嫌いなのはわかった。だけど僕が聞きたいのは連中がなんの目的でうちを襲撃したのかってことだよ」
「おお、なら最初からそう言え」
言う隙さえ与えずに糞糞連呼したくそに。いや、くせに。
「本来ならば供物を要求するところじゃが貸しにしておいてやるわ。しばらく汝の家に住んでやるつもりじゃし」
有史以来、ここまで態度の大きい居候がいただろうか。オバQだってもうちょっと殊勝だった気がする。
「ヒモロギというのはのう。さて、どこから話せばよいか。うーむ」
眉間を手刀でとんとんしながら天照が唸る。
「手短に、簡潔に」
「おう。手短かつ簡潔に言うならく――」
「それ以外で!」
「難しい注文じゃのう」
「……」
どうにも真剣味に欠ける天照の態度に桂は不安を覚えた。この調子じゃ本当のことなんて教えてくれないんじゃないか?
「此の国には神の御魂が漂っておる。納まるべき〈依代〉を得られずに、行き処なく大気を漂う哀れな神の残骸じゃ」
「…………はい?」
「ちゃんと聞いておれ。終いには賽銭とるぞ」
「急に始めるから……」
「よいか。永い間、依代を得られぬまま御魂として大気を漂ううちに、やがて神は〈ただ其処に在るもの〉となってしまうのじゃが」
「た、ただ……?」
「ただ其処に在るものじゃ。通常、御魂は人の眼には視えぬ。視えぬ神を人はどうやってさも其処に居るように扱うか。つまり〈此の神〉と〈彼の神〉を区別するときに人はどうするかというと、神名を呼ぶのじゃ。社に祀られ祠に納められた神は、名を呼ばれることで神としての自我を確立する。数千年生きた樹木を人は神として祀るのう? 其処に何かが居ると人が感じて名を呼んだときに、其の木は他から特立して神となるのじゃ」
「……」
「理解できておるか?」
「……うん」
桂はちょっと目を逸らした。
「まあよい。じゃが人は、生まれては死ぬを繰り返すうちに、いつしか神を忘れてしまう。御魂が宿った木が枯れても、代わりの木を植えたり、枯れた木を御神体として祀れば良いのじゃが、それすら行われずに忘れ去られてしまった神は、再び名を失って、御魂のみが大気を漂うことになる。己が何者なのか分からず自と他の区別すらできない存在。それをただ其処に在るものと呼ぶのじゃ」
「……」
哀しい話だった。人に忘れ去られ、自分が誰なのか分からないまま百年も千年も漂い続けるなんて、それはどんな気持ちなのだろう。
「御魂は何も感じぬ。例えヒモロギに使役されたとしても屈辱を覚えることもない。それだけが救いじゃ」
神を、使役する?
「ただ其処に在るものを己の身に降ろし、その霊威を操って神の如く振舞う者ども。それがヒモロギじゃ」
天照の顔が不快そうに歪んだ。
神とはなにかという問いの答えを桂は持ち合わせていない。だから天照が話した内容を誤解なく正確に理解できたのかと問われたら正直怪しい。だけど桂は想像する。自分の意志にかかわらず呼びつけられて行為を強要されるなんて、それはとても辛いことではないか。それが神さまならば尚更に――。
「食わぬならよこせ」
と言って、食べかけのソフトクリームを桂の手から強奪し、ぺろんぺろんと舐め始めた女神の浅ましい姿に、感傷的な感情はあっさり失せてしまったのだが。
「……で、そのヒモロギがどうしてうちに来たの?」
あらためて桂が訊ねる。コーンをかじりながら天照が答えた。
「鏡が目的じゃろうな」
「鏡?」
病室でまばゆい光を放ったあの鏡。平沢家のリビングルームに放り投げてあったのを宇受売が回収して……。
「……あれ? あの鏡ってどこにあるんだっけ?」
「ここにあるが」
天照がポーチに手を突っ込んで、剥き出しの鏡をずぼっと取り出す。相変わらず扱いが雑だった。
「どうしてヒモロギはその鏡を欲しがるんだ? 何か特別な鏡なの?」
「内緒じゃと言ったろ? 記憶力がないのか? 若いのに残念じゃのう ああ残念じゃ残念じゃ」
「……」
椎奈も天照も、二人そろって口が悪い。どちらか片方くらい優しい言葉をかけてくれても良さそうなのに。
身悶えながらそんなことを思っていると、どこからか軽快なメロディが聞こえてきた。
「お? なんぞ痙攣しておるぞ」
天照がポーチをがさがさとまさぐる。取り出したのは椎奈の携帯電話だった。掌の上でるるると歌い、ぶーんぶーんと振るえるそれを楽しそうに眺める。
「おおー、これは愉快じゃ。これ、こ」
「もしもし?」
電話は柏木からだった。柏木は、椎奈の電話に出たのが桂だったことに戸惑いつつも、あと三時間ほどで松阪駅に戻るからと告げて電話を切った。
取り上げられた携帯を返せ返せと連呼する天照の掌に、桂は椎奈の携帯を戻す。
「お? もう痙攣せんのか? お終いか?」
「着信があったときに振動するものだからな」
「おう。ではすぐにちゃくしんするのじゃ」
「すぐにって言ったってなあ」
尻ポケットから携帯電話を取り出した桂は、自分が椎奈の電話番号を知らないことを思い出す。
「ちょっと貸して……。なんだよ」
天照は携帯を持った手を背中に隠した。
「駄目じゃ。はやく痙攣させい。痙攣させねば返さんぞ」
「だから、痙攣させるから、一回僕に渡しなさいって」
「汝の手の中で痙攣しても意味がないではないか。だいたいこれは椎奈のものじゃろ? 妹のものを欲しがるとは汝」
「いいから貸せっ!」
ぐるぐると逃げ回る天照から携帯を奪い、赤外線通信で電話番号とアドレスを交換する。
「妹への執着心が異常じゃの」
「やめてよ! 真顔でそういうこと言うの!」
天照に携帯を投げて返して電話をかける。るるる、ぶーんぶーんと椎奈の携帯が歌って踊った。
「おお! これじゃこれじゃ! 愉快じゃなあ!」
しばらくの間、きゃきゃきゃと喜んでいた天照だったが、やがてぴたりと笑うのを止めて。
「これは、これだけのものか?」
と桂を見た。
「いや、これは電話とメールをするものだから」
「ほう。なんじゃそれは」
「神さまは、なんでも知っているわけじゃないんだな」
「お? なんじゃその挑戦的な発言は。いいからでんわとめーるを教えい」
「どうしようかな。僕の言うことを聞くんなら教えてやってもいいけど」
「ほう。神と取引をしようというのか。高くついても知らんぞ? で、汝の要求はなんじゃ。妹の体か?」
「そういうの止めてって言ってんでしょ!」
桂は声を荒らげる。
「いや、吾に椎奈の体から出ていけと要求するのかと思ったのじゃが」
「あ……、そっち……」
「そっちって他にどっちがあるというのじゃ。……ま、まさか汝!」
女神は両手で口をおさえて、ずざざーと数メートルほど後退った。
「ちょっと! 違う! やめて! そういう反応やめて!」
「いざというときは大声を出せと椎奈に伝えておかねばのう」
兄としてというか人として、そこだけは守っておきたい最後の砦を言葉のつるはしでガツンガツン突き崩した女神は、さめざめと泣き崩れた桂を見下ろして偉そうに宣った。
「黙っておいてやらんこともないぞ。でんわとめーるを吾に教えればのう」
「……かしこまりました」
かくして携帯電話の使い方をレクチャーする羽目になった桂は、腹が空いたと言い出した天照に駅前のステーキ懐石料理店へと引きずられるように連れ込まれ、神と取引をすると高くつくということを身をもって知ったのだった。
これはもはや神というより……。




