3 桂と不審者の群れ
三、七月三十一日 午前八時〇〇分
寝苦しさに目が覚めた。
枕元の携帯電話に手を伸ばして現在時刻を確かめる。
午前八時になったところだった。
布団に寝転がったまま携帯のワンセグテレビを起動すると、朝のニュースが病院で起きた盗難事件を報道していた。患者のカルテがごっそり盗まれたらしい。そんなものを盗んでどうする気なのだろう。
「……」
病院――。
ものすごく厭な夢をみた気がする。
桂は寝汗でじっとり湿った布団をそのままにして部屋を出た。
一階へと下り、キッチンの冷蔵庫を開けようとして手を止める。気配を感じて振り返ると、リビングルームのソファーに妹が座っていた。
生成りのキャミソールと膝丈の紺ジャージを着た妹は、桂にむかって小さな頭をくりっと傾け、口角をちょっとだけ上げてみせる。
その表情にどことなく、座りの悪さを覚えた桂は。
「ようやく起きたか。空腹じゃぞ」
椎奈とは明らかに違う言葉遣いに、はっとした。
「あ……、あま、てらす……?」
「なんじゃ? 空腹じゃぞ?」
にっこりと笑う。
ああ――。
荒唐無稽で滅茶苦茶な、夢だと思い込んだままでいたかった諸々の出来事――、交通事故から生還した妹が、開口一番、あたしゃ神様だよと言い出すというシュールな展開は、どうやら現実だったらしい。
「桂、空腹じゃと言うておろう」
「……ああ、はいはい」
桂は母が大量に買い置きしていった冷凍パスタをレンジで温めて、天照に差し出した。
「うおお! これは不思議な喉越しじゃのう! つるんつるんと入っていくぞ!」
美味じゃ美味じゃと足をばたばたさせて喜ぶ天照から、一番離れた椅子に座って桂も同じものを食べる。
不味いわけではない。だが絶賛するほど美味しくもない。
一昨日の昼も同じものを食べたのに、椎奈は何も言わなかった。数日間で味覚が変わるなんてことがあるのだろうか。
「桂」
「な、なに?」
「汝、性別が変わったか?」
「え?」
「凹凸の乏しい貧相な体型だと思うてはおったが、これでは女ではなく男だな。髪も短いし」
「あ……」
Tシャツにトランクスという自分の恰好に、桂は内心舌打ちした。
昨夜、脱衣所で意識を取り戻した桂は、妹の服を脱いで洗濯して風呂場に干して、それから自分の部屋に戻って、そのまま眠ってしまったのだ。ウィッグもつけていない。
「……いや」
待て待て。冷静になれ。そもそも男だということを隠す必要なんてないのだ。そんな結論に達した桂は。
「僕は男だから」
そう言った。すると天照はほうほうと頷いて、
「つまり昨日の状態が異常だったわけじゃな?」
くっつきかけた心のカサブタを、遠慮も会釈もなくびっと剥がした。
「汝は男であるにもかかわらず、女の恰好で恥ずかしげもなく天下の往来をほっつき歩いておったわけじゃ」
追い打ちが酷い。
「まあよい。気にするな。嗜好は人それぞれじゃ。小碓命も女装をして敵を討ち取ったではないか。汝も女装で活躍すればよいのじゃ」
「……」
慰めているのか虐げているのか分からない。で、小碓って誰だ。
「のう桂、どこかに連れて行け」
脈絡のない天照の言動に桂は思わず咳込んだ。おまえは夏休みの小学生か。
「ど、どこかって、どこ?」
一応、聞いてみる。
「久しぶりの肉体じゃからの。国見のできるところがよい」
「くにみ?」
「此の国を統べる神として、いまの人の暮らし向きが如何なるものか見聞しておきたいのじゃ。大雀命のアレは吾が言うのもなんじゃが嘘っぽいがのう」
そう言ってわははと笑う。笑うポイントが分からなかったので、桂は唇の端だけで追随した。それはともかく。
「暮らし向きっていうと、繁華街がいいのかな」
「うむ。それは汝に任せる。じゃがその前に」
「な、なに?」
今度はどんな無理難題を言い出す気だ。警戒する桂に。
「うむ。食事をしたし。のう?」
「……」
「……」
「……」
「……」
何やら言い難そうに口をもごもごさせる天照だったが、この唐変木に腹芸は通じないと悟ったらしく、頬をほんのり赤らめて小声で言った。
「……出るのじゃ」
「出る?」
聞き返した桂に。
「出る」
こくんと肯く。
食事をしたから、出る。
「……」
ああ。トイレに行きたいのか……。
「そこに座って……、済んだらそのレバーを引くと水が流れるから……」
「うむ。理解した」
何が悲しくて妹にトイレの使い方をレクチャーせねばならんのだ。名状し難い思いに駆られながら最低限の説明を終えて、回れ右した桂の耳にごそごそと衣擦れの音が聞こえた。
ジャージと下着を下ろしたのだろう。
「よっこいしょ」
便座に腰かけたのだろう。
「……」
ちょっと待て。どうして個室の中の物音がこうもはっきり聞こえるのだ。不審に思った桂が振り返ると、トイレのドアが開いていた。
「待て待て待て待てえっ!」
慌ててトイレに駆け寄る。
「わ! なんじゃ! 排便中に覗くのは罪じゃぞ!」
膝下までジャージと下着をずり下げた天照が、キャミソールの裾を引っ張って下半身を隠す。
「ちっ、違う! ドアを! 使用中はドアを閉めろ!」
桂が廊下からドアを押すと、トイレの中から天照がドアを押し返してくる。
「なっ、何やってんだよ!」
「戸を閉めてはいかん! 開かなくなる!」
「ななな何言ってんの! トイレを使うんでしょ! 閉めなさいよ!」
「駄目じゃ! 吾は狭いところが嫌いなのじゃ! 絶対に閉めてはいかん!」
「あ、あ、開けっ放しでするというのか!」
「おおそうじゃ! 開け放ってするわ! じゃから少し離れておれ!」
「なに言ってんだ! いい歳してドアを開けたままトイレを使うなんて!」
「二千歳じゃろうが三千歳じゃろうが吾は一生開けてするのじゃ! もう漏れる!」
「! せめて全開は止せ! 隙間をあけるくらいにして!」
「風が吹いて閉まったらどうするのじゃぁあーぁぁああ」
半泣きで抵抗する天照に。
「も、もしも。いいか、もしもドアが閉まったら、中から叩け。ノックしろ。終わるまで、僕がここにいるから。絶対に開けてやるから」
桂は幼児にするように言い聞かせる。
「…………絶対じゃぞ」
きいぃ。
トイレのドアがゆっくりと閉じていき、五センチほど残してぴたりと止まった。
音が聞こえる……。
下半身を丸出しにした妹と、トイレのドアを押しあうことになるなんて……。
言うまでもなく、桂がドアを閉めようとして天照が開けようとしていたわけだが、これが逆だったらと想像すると、桂は舌を噛みたくなった。
それにしても――。
椎奈が閉所恐怖症だなんて知らなかった。トイレはドアをきちんと閉めて使っていたはずだ。いや、そんなものいちいち確認してはいないけど。確認していたらやばい人だけど。
じゃーと水を流す音がした。唇をつっと尖らせて、うつむき加減で天照がトイレから出てくる。
「済んだ」
「よ、良かったね……」
別に報告はしなくていいです。
数時間後。
新宿駅南口近くのファーストフード店。
甲州街道を見下ろす二階窓際の禁煙席で、平沢桂はテーブルにぐったりと突っ伏していた。
隣では天照が、夏期限定の巨峰ソフトクリームを美味しそうに舐めている。
リクエストにお応えして、桂は女神を新宿へと案内した。
昼間人口が島根県民を軽くオーバーする七十五万人を数える巨大都市新宿。
JR、小田急電鉄、京王電鉄、都営地下鉄、東京メトロと鉄道五社が乗り入れる、一日の平均利用客数が、島根県民をダブルスコアで下す一六七万人を超えるターミナル都市新宿。
「おお! ものすごい人出じゃのう! 今日は何の祭なのじゃ?」
人の多さに興奮を隠さない天照を連れて、百貨店のショウウィンドウをのぞき歩き、家電量販店を冷やかして、東京都庁舎の展望デッキを満喫し、大型書店をぐるっと廻り、新宿御苑をぶらぶら散歩と、炎天下、乞われるままにあっちこっちと歩いて回って疲れ果て、最後の力を振り絞り、ファーストフード店の階段を這って上がって窓に面したカウンター席に倒れ込むように着席した桂だった。
腰から下がずーんと重い。もう一歩も歩きたくないとテーブルに突っ伏していると、隣からがさごそと、紙がこすれる音がした。
「……」
やおら顔を上げる。
日本刀を携えた武者っぽい恰好なのに露出過多な女の子がテーブルの上に乗っていた。
絶賛放送中、深夜アニメのキャラクターを模した美少女フィギュアだ。
★人気投票第一位のキャラクターを立体化した造形はファンも納得の完成度! 全身四十二か所が可動! コスチュームをキャストオフできるぞ!
そんな煽り文句がパッケージに書かれたこのフィギュアを、家電量販店の玩具売り場で発見した天照は、買ってくれなきゃここを動かんと桂の足にしがみつき、見事これを買わせることに成功したのだった。
「……女の子はぬいぐるみを欲しがるもんじゃないの?」
予期せぬ散財に、桂はぶつぶつ不平をこぼす。
「それは偏見じゃぞ。本当に良いものには性別も対象年齢も関係ない。こんなに見事な造形にはお目にかかったことがない。きっと正倉院にも収蔵されておらんぞ。いやー、長生きはするもんじゃのー」
にこにこと満面に笑みを浮かべつつ、美少女フィギュアをくるくる眺める天照の言動は、どこまでが本気なのか分からない。
「……遊ぶのは家に帰ってからにしろよ」
★下着も脱げるぞ!
とかいう不穏なコピーをパッケージに発見して、桂はすかさず釘をさす。
「むう、仕方ないのう」
天照はつまらなそうに、フィギュアをパッケージにしまい紙袋の中へと戻した。
窓際に放置していたアイスコーヒーの存在を思い出して、桂はストローを口に含む。
直射日光をこれでもかと浴びたコーヒーは、氷が溶けて水っぽくて、なんだか切なくなってしまった。桂は窓ガラス越しに、真下に見える交差点を眺める。
信号が青に変わったところだった。
よちよち歩きの幼児と若い母親。仲良さそうに手をつないだカップル。部活帰りらしいジャージ姿の女子の集団。ハンカチで流れる汗を拭うスーツ姿の会社員。
一斉に歩き出し、追いつき、追い越し、すれ違う。誰もがきっと忙しくも充実した日々を送っているのだろう。
昨日までは桂もそうだった。
高校二年生の夏休みは、誰にとっても大抵一度きり。心の底からリラックスできる至福の時間だ。
だったのだが――。
両親は海外旅行へ、妹は学習塾の夏期講習で夜まで家に戻らないという、またとない好機の到来に好奇心がぴくっとうずいた昨日――。
逮捕された刑犯罪者がよく使う、魔が差したとはこれのことかと、我が事ながら感心した昨日――。
妹の服を無断で拝借して、あまつさえそれを着用するという暴挙が妹にバレて、しかも交通事故まで誘発した昨日――。
桂の高二の夏休みは人生ごと終わりかけた。
脳内で流れ始めた蛍の光は、しかし露出狂の女の出現によって、途中でぶっつり切れたのだが、その代償なのだろうか、妹の中には神を名乗る別人格が居座ることになってしまった。
「何を悩んでおるのだ?」
テーブルに肘をついて、天照が桂を眺めていた。
肉親による贔屓目を除外しても、妹は十分可愛いのだろう。よく女性と間違えられるくらいに線が細くて中性的な容姿をした桂とは、似てはいないが端正な顔立ちをしている。
「悩み事なら聞いてやるぞ。人の懊悩を和らげるのは神の役目じゃ。供物も受け取ったことだしのう」
そう言って膝の上の紙袋を指す。
そうかそうか金を払う気はないのか。だったら悩みくらい聞いてもらうかと思った桂は。
「……」
言いかけて止めた。他人に話すようなことではないし、しかも。
「妹に妹の相談をするのはな……」
いくら別人格とはいえ気が乗らなかった。乗るわけがない。
「妹のことか。汝らは仲が悪いのか?」
「……仲は悪くない、と思う。最近は喧嘩もしないし」
「ほう。ならよいではないか。吾にも弟がおるが、これが駄目な弟でな。でかい図体をして悪さばかりしておったから折檻して放逐してやった」
「折檻?」
「髭と爪をむしり取ってやった」
「うわあ……」
想像しただけで顎と指先が痛む。
「それでも可愛い弟じゃ。もうずいぶん長いこと会っておらんが、きっとあやつも吾のことを想い慕っておることじゃろう」
「……」
そんなことはない気がする。
「兄妹とはそんなものだと吾は思う。歳をとれば段々と疎遠になっていくものじゃ」
そういうものだろうか。
「じゃが、どちらかの身に災難が起これば、身を呈してでも庇い合う。そういうものとも吾は思う」
そういうものなのだろうか。
「可愛い妹ではないか。大事にせねばならんぞ」
そう言ってにっこりと笑う。
「そりゃあ大事にはするけど……」
もうしてるけど。あらためて妹の顔で言われると物凄く恥ずかしい。
「それは美味か?」
ソフトクリームを食べ終えた天照が、桂の飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。止める間もなくストローを口に含んで。
「むぎゃっ……。べえ」
口に合わなかったのだろう。くしゃっと顔を歪めてストローを吐き出した。
「なんじゃい。この炭みたいな飲み物は。よくこんなものが飲めるのう」
「僕がコーヒーに砂糖を入れないことくらい知ってるだろ」
呆れ顔になりながら、桂は天照の顎先に垂れたコーヒーの滴を紙ナプキンで拭った。太腿を濡らした水滴を吸い取る。
サックスブルーのキャミソールワンピース、インナーには水色のノースリーブ、黄色い花飾りが付いたサンダルで足元を飾った妹の全身が否応なく視界に入った。
五時間前、ジャージ姿のまま出掛けようとした天照を止めた桂に、ではどんな恰好ならよいのじゃと天照は返し、桂が渋々コーディネートした結果の、天照のこの装いだったのだが――。
おしゃれをして買い物をして散歩をしてお茶を飲んで。まるでデートみたいだ。……デート?
「ああっ、天照っ!」
誰が見たって仲良し兄妹デートにしか見えないことに気付いてしまった桂は、湧き上がってくる背徳感と羞恥心に耐えらず、即時帰宅を申し出た。
橙色の太陽がビルの谷間に消えていく。
夕方になり日差しこそ弱まったが、太陽が放つ赤外線に焙られ続けた東京都心は、湾岸地域に建てられた高層ビル群に風道を遮られて温室と化していた。
地球温暖化の影響だか無策な再開発の末路かは判らないが、今世紀の始まりまでは年間を通じて数えるほどしかなかった最高気温三〇度を超える真夏日が、八月は当たり前になった東京である。
だらだらと流れ続けた汗が乾いて、桂の背中にはちょっとした塩田ができていたが、天照はといえば毛穴がないのかと思うくらいさらさらの肌をして、元気よく腕を振り振り歩いている。
「疲れた顔をしてどうした。元気がないのう」
「きみが、元気すぎるんじゃ、ないの?」
口呼吸の合間に桂が答える。
両親がオーストラリアに旅立ってから今日でちょうど一週間である。連日続く冷凍食品攻勢に辟易して、駅前のスーパーマーケットで弁当を購入したのだが、その二人分の弁当でさえ重く感じるくらいに桂は疲労困憊だった。
「おお、そうじゃ」
天照は、桂から弁当が入った袋を奪い取ると、持ち手の片方を握り、もう片方を差し出した。
「何?」
「ふたりで持ったら軽くなるじゃろ?」
「かっ……」
首を小刻みに左右に振る桂の手に、袋の持ち手をねじ込むと、天照は満足げに言った。
「一人で持とうとするから重いのじゃ。重かったら重いと遠慮せずに言えば良い」
慈愛の表情を浮かべる妹は、なんだか女神のようだった。
「……」
一つの買い物袋を二人でぶら下げて歩く男女がどう見えるかは、もはや考えまい。せめて知り合いにだけは遭遇しませんようにと、桂は神に祈った。
祈願先が隣にいて、しかも当事者というわけのわからない状況ではあったが、なんとか無事に誰にも遭わず自宅の前までたどり着いた。早く家の中に入ろうと、鍵を探してジーパンのポケットをまさぐる桂に。
「もしもし」
誰かが声をかけてきた。
「っ!」
聞き覚えのある声だった。近所のナントカさんだろう。不幸なことにスーパーの買い物袋は、桂と妹の指にかかったままだった。噂話が尾ヒレと背ビレと翼までをも生やかして、町内を面白半分に飛び回るさまが頭に浮かぶ。桂がフリーズしていると。
「おお、宇受売」
天照が気安く声を上げた。
「う? 宇受売え?」
間抜け面で振り返る。立っていたのは真紅のライダースーツに身を包んだ長身の女だった。
「よくここが分かったのう」
天照が意外そうに言うと、ライダースーツの女、宇受売は頬を痙攣させた。
「忘れていました。あなたはこういう方でした」
物凄く疲れた顔をして、眉間をぐりぐり指圧する。
「うむ。吾も汝のことをすっかり忘れておったわ」
女神はあっけらかんと笑った。
言われてみれば昨日、病室で別れて以来、桂と天照の会話には宇受売の「う」の字も出てこなかった。確信犯的に行方不明になった天照を捜して、宇受売は東京中を駆けずり回っていたのだろう。同情する桂と宇受売の視線が合った。
「あなたは平沢椎奈さんの、お兄さん? 初めまして。天宇受売命と申します」
女装していない桂と会うのは初めてだった宇受売は、桂を椎奈の、もうひとりの兄妹だと勘違いしたらしい。説明するのは面倒だし恥の上塗りになりかねないので、桂は勘違いされたままにしておくことにした。
それにしても、これから峠を攻めますよ的な宇受売の恰好は、閑静な住宅街では目立ち過ぎる。というか彼女が目立たない場所なんてハーレーダビッドソン・オーナーの集会くらいだろう。
「あの、どうぞ」
立ち話もなんですからとドアを開いて中に入るよう促す。宇受売は素直に従った。
「どれだけ大変だったと思っているんですか。病室に戻ったらもぬけの殻だわ、看護師は個人情報だとか言って何も教えてくれないわ、おかげで丸一日棒に振りましたよ。勝手に歩き回られては困ります」
リビングルームの床の上に姿勢正しく正座した宇受売がこんこんと垂れる小言を、ソファーにごろんと寝転がり、ふぁー、ふぁーと適当に相槌を打つ天照は聞いているのかいないのか。
「どうぞ」
冷えたお茶を差し出した桂に会釈しつつ、宇受売の説教は続き。
「あーもう! 汝の小言は聞き飽きたのじゃ!」
癇癪を起した天照がごろりと背中を向けるに至って、宇受売の深い諦めの溜息と共に一応終了した。
全く成長していらっしゃらないと聞こえよがしに言い、サイドテーブルの上に投げてあった木箱をバックパックに収納して背負うと、宇受売は立ち上がった。
「さあ天照さま、行きますよ」
天照はソファーに寝転がったまま完全スルーを決め込んでいる。不安に感じたのは成り行きを見守っていた桂だった。
「あ、あの、行くってどこに……?」
「お兄さんはご安心を。数日中に妹さんはお戻しします。さあ天照さま、我儘言っていないで行きますよ」
もはや主従というよりも、聞き分けのない幼稚園児と保母さんといった風情だ。
「……行かんぞ」
ソファーの背もたれに顔を押し付けて天照がもごもご答える。
「皆様お待ちかねです。急ぎませんと」
「千年も放置しておいて今更なんじゃ。吾は行かぬ。桂とここで暮らす。吾は肌を見られたのじゃ。厠も覗かれたし。責任をとってもらうつもりじゃ」
衝撃の告白に部屋の空気が凍り付いた。
「あなたまさか……!」
宇受売が顔を引きつらせる。
「違う! 濡れ衣だ! トイレは天照が閉めたがらなかったんだし、服だって自分から脱いだんだ!」
冤罪だ! 桂は必死に抗弁した。
「分かりました。何があったのか理解しました」
天照に前科があったのだろう。桂の疑惑はあっさり晴れた。
「勘違いされるようなことを言うなよっ」
桂は文句を言ったが、天照はもはや返事もしない。
その間を埋めるようにピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。受話器をとって応答する。だが返事がない。
「いたずらかな?」
桂は首を傾げた。
「ならいいのですが」
思い当たる節があるのか意味ありげなことを言い、宇受売は庭に面したカーテンを勢いよく開いた。
それは異様な光景だった。
七×二メートル四方の庭。
決して広くはないその空間に、三、四十人からの人間が、テントウムシの冬籠りのように、ぎゅうぎゅう詰めで立っていたのである。
他人の家の敷地の中で、大勢の人が押し合いへし合い屯しているという時点で、もう十分すぎるくらい異様だったのだが、カーテンが開いたことに気付いたのだろう同時にくるっと振り向いた顔のすべてが。
能面をかぶっていた。
「ひい!」
天照が音もなく立ち上がり、悲鳴を上げた桂の手を引っ張って自分の脇に寄せる。
「吾から離れるでないぞ」
怖い顔で言う。
伝統芸能の面を被った不法侵入者たちは、手にした金属製の棒で窓ガラスを叩き割り、割れた部分から手を差し入れて鍵をかちゃりと開錠する。プロの手口である。
「ど、泥棒……!」
で、正解だろうか。
空き巣にせよコソ泥にせよ、その手の犯罪者は人目を忍んで行為を行うわけで、白昼堂々団体でやってくる窃盗犯というのは聞いたことがない。そんなもの目立って仕方ないではないか。
「〈ヒモロギ〉です。椎奈さんを車ではねた連中です」
宇受売が淡々と訂正した。
靴も脱がずに次々と室内に上がり込んでくる能面――両目を剥いて口をぽかんと開いた面の集団は、半袖ワイシャツに汗をにじませた営業帰りの会社員風、髪を明るい色に染めたTシャツとジーパンの学生風、〒マークが印字されたヘルメットをかぶった郵便配達員風、スポーツタオルを首に巻いたジョギング帰りの老人風と、同じ形のお面をかぶっていること以外、統一感のない服装をしていたが、その動きは訓練された軍隊のように隙がなく無駄もなく、鶴翼陣形でリビングルームに展開すると、桂たちを壁際に追い詰めてしまう。
バシッ!
能面が手にした金属棒が、宇受売の肩に振り下ろされた。
振りかぶるとか身構えるとか、攻撃に移行するときの予備動作がない奇怪な動きだった。相手に与えるダメージは少ないが武器の軌道が読めず避け辛い。
「だ、誰か!」
「止せ。平気じゃ」
表にむかって人を呼ぼうとした桂を天照が制止した。
「平気って!」
そんなわけないだろと声を上げた桂に、天照は不敵な笑みを浮かべてみせる。
「天宇受売命は軍神じゃぞ? 国津神との戦では最前線で戦い続けた歴戦の強者じゃ。いいから黙って観ておれ」
「だけど!」
軍神だか軍鶏だか知らないが、凶器を持った相手を、しかも何十人もむこうに回して平気でいられるわけがない。
だが。
宇受売は平気だった。
平気どころか、平気かどうかを心配するべきなのは、能面の、ヒモロギたちの方だった。
細くたおやかな腕で、宇受売が宙に円を描くと、ヒモロギが持っていた凶器がバラバラと床に落ちた。
長くしなやかな脚を矢のように踏み替えると、ヒモロギがもんどりうってバタバタと床に倒れた。
優雅に、ときに峻烈に、宇受売が舞を舞うたびに、一人、また一人とヒモロギが叩き伏せられていく。
驚いて目を丸くした桂に、天照がドヤ顔で言う。
「わかったじゃろ? 神に逆らうなど愚うわあ!」
狙うならこっちだとばかりに標的を変更したヒモロギの棒が、咄嗟に身を屈めた天照の頭上ギリギリをかすめた。
「何をするのじゃ! おのれらの相手は宇受売がすると」
「馬鹿! 危ないっ!」
ヒモロギにむかって文句を言い始めた天照の腕を、桂が慌ててつかんで引っ張る。
間一髪だった。
ヒモロギが振り下ろした金属棒がめり込んで、先月張り替えたばかりの壁紙ごと壁が破れてしまったが、ともかく天照は無事だった。
天照の手を引いて、桂は廊下に飛び出した。だが玄関から侵入してきた新手のヒモロギに行く手を阻まれてしまう。
「う、宇受売さあんっ!」
SOS! SOS! しかし宇受売はヒモロギに十重二十重に囲まれていて、すぐには助けに来られそうにない。
棒で殴られるのは嫌だ。痛いから。そう思いつつ桂は天照を背中にかばった。すると天照は桂のシャツをきゅっと掴んで。
「吾は馬鹿ではない」
「……はい?」
「吾を馬鹿と言ったことを謝罪して取り消せ!」
頬をぷうっと膨らませて、桂に抗議を開始した。
「こんなときに何を!」
「馬鹿ではない! 馬鹿ではない!」
ぎゅっと柳眉をねじ曲げて、駄々っ子みたいに桂の胸板をぽかぽか叩いたのならば、まだ可愛げがあったのだが、天照はグーで桂の鳩尾をどすっと突いた。
「うっ」
一瞬呼吸が止まる。
右の鳩尾を叩いたら左の鳩尾とばかりに、再び拳を引いた天照に。
「悪かった! ごめん! きみは馬鹿じゃない! 僕が馬鹿! 僕が馬鹿!」
桂は平謝りに謝った。
「そうじゃ汝が馬鹿じゃ。馬鹿」
天照は桂のむこう脛を軽く蹴飛ばした。そして、こほんと咳払いすると。
「よいか。八百万の神々の頂点に君臨する吾の〈霊威〉をしかとみよ!」
傲岸不遜に言い放ち、両腕を仰々しく広げた天照の全身が。
「!」
ぽわーと、申し訳程度にちょこっと光った。
「……えっ? ……ええっ?」
期待と不安がないまぜになった場の空気が、ゆっくりと冷えていく。
「……あ、あとは?」
その場にいた全員を代表して桂が確認する。すると。
「以上じゃ」
「はぁっ?」
それで終わりかよ! という言わずもがなの感想が表情に出てしまったらしい。
「何じゃ! 何が不満じゃ! 汝は太陽に何を求めておるのじゃ! 農作物が育つのに光合成がいらんと言うのか? 冬の間に降り積もった雪を溶かす赤外線がありがたくないと言うのかっ? あああああ。そうかいそうかい! 紫外線を汝の額に照射して文字を書いてやるわ! 馬鹿って書いてやるわ!」
キレた天照に、桂が言い返す。
「ばっ、馬鹿はそっちだ! そんなの嫌がらせにしかならないじゃないか!」
「あああまた馬鹿って言うたな! もう一生口をきかんぞ! 吾の一生は永遠じゃぞ!」
「もうわけわから、うわあ!」
ヒモロギが無表情で振った棒が痴話喧嘩を強制終了させる。
二人は悲鳴を上げながら家中を逃げまどい、結局宇受売に救出された。
「それに乗ってください!」
家の外に逃げ出した桂と天照は宇受売に指図されるまま、路駐してあった白銀色の750CCバイクに跨った。
二人の間に割り込むようにバイクに飛び乗った宇受売のボリューム豊かなお尻にぐいっと押されて座席から落ちそうになった桂は、宇受売の腰を抱きかかえてしまい、
「セクハラ禁止!」
側頭部にごちっと肘を打ち当てられた。
「さ、三人乗りって道交法違反じゃ……?」
「じゃあ降りますか?」
宇受売が指さした先、平沢家から湧いて出てくるヒモロギの群れに桂が黙る。
「振り落とされないように、しっかりつかまっていて下さい!」
言われた通り宇受売の体に腕を回した桂は、いきおい彼女の大きな胸を握り締めてしまい、
「胸以外に!」
側頭部にがつっと肘鉄を頂戴した。
宇受売はサイドスタンドを蹴飛ばし、キーを差し込んで、エンジンを起動させようとする。しかし。
「……?」
エンジンがかからない。苛々とキックを繰り返すたびに、すかっ、すかっと、足が虚しく空を切る。
「どうして?」
宇受売は、空転するキックペダルのさらに下、地面にエンジンプラグが転がっているのを発見して理由を悟った。ヒモロギが細工をしたのだろう。宇受売は天照をバイクから抱き下ろすと自分も座席から下りた。
「う、宇受売さあん!」
桂が情けない声を上げる。
平沢家の前の狭い生活道路にひしめくヒモロギの数はいつのまにやら増加して、その数推定三〇〇人。能面をかぶった一個中隊がじわりじわりと包囲網を狭めてくる。
「あいつ、自分の趣味なら一秒も遅れないのに」
細腕には不釣り合いなごついダイバーウォッチを睨みながら宇受売が毒づく。
「誰か呼んだのか?」
天照が訊ねる。
「天照さまが素直に同行して下さるとは思えなかったので運搬係を」
「ぬ。誰を呼んだのじゃ」
「いえ」
うすらとぼける宇受売の頭上。橙色の夕焼け空を何かが斜めに横切った。
すぽーん、すぽーんと勢いよく空に向かって打ち上げられているのはヒモロギだった。
「な、何だ?」
桂がぎょっと空を見上げる。
夕日にむかって人体が次から次へと打ち上げられる様に動揺したのはヒモロギたちも同様だった。二七〇名くらいまで目減りした刺客たちにざわめきが広がっていく。
「ようやく到着したわね」
宇受売が渋面で言った。
つまりこれは宇受売が呼んだ助っ人の仕業なのだ。
その何者かは、一人ずつ投げるのが面倒くさくなったのか、五、六人まとめて放り投げ始め、終いには投擲するのにも飽きたらしく、人の山を、わしゃーわしゃーとひっくり返しながら、天照の前に参上した。
「汝だったか」
二メートルをはるかに超える長身と、それを上回る胴回りを、おそらく両国界隈で入手したのだろうスウェットの上下で包んだ巨人が、天照の眼前に地響きをさせて跪いた。
「天手力男命、参上仕りました」
円らな瞳を涙でじんわり潤ませて天照を見つめる巨人の顔は、つるっとしていて意外と可愛かった。
「遅い。五時に現地集合って言っておいたでしょう」
元々つりあがり気味な目を、さらにつり上げた宇受売に。
「五時が定時。このご時世、残業なしで帰宅するのは気を遣う」
天手力男命と名乗った巨人は、腰だと推定されるあたりに手を当ててぷんぷんと怒り返した。
大雑把な見かけによらず細やかな神経の持ち主なのだろう。……というか会社員なのかこの人。登場してわずか十秒、手力男の情報に桂が呆気にとられていると。
「ここはお任せを」
巨漢は腹の肉をぶるんと揺らして立ち上がり、ヒモロギたちを再び衛星軌道に乗せ始めた。
手力男が開いた血路というか、強制カタパルトデッキと化した手力男から逃げまどうヒモロギたちの間を、宇受売を先頭に天照と桂がすり抜ける。
天照を小脇に抱えた宇受売と、美少女フィギュアを取りに戻るとわめきだした天照を慰める桂が、夕日に染まった街を駆け抜けていった。