2 桂と脱衣所の悲劇
二、七月三〇日 午後四時〇〇分
コールすること三十回。母はついに電話に出なかった。
何回目かの新婚旅行でオーストラリア大陸へと旅立った桂と椎奈の両親は、どうせコアラかカンガルーに夢中なのだろう。桂は留守録にメッセージを残して電話を切った。
手術着姿の妹を連れて電車に乗るわけにもいかず、病院の玄関前で客待ちしていたタクシーで自宅に向かうことにする。
運転手が胡散臭そうな顔をして妹を見たが、本人は全く気にする様子もなく、それどころか物珍しそうにタクシーの車内をくるくると見回し、窓ガラスに額をぐりぐり押し当てて、流れていく風景を眺めては、しきりに感嘆の声を上げていた。
「おお! すごいのう天磐船と同じくらい速いぞ! あ! あれはなんじゃ! 高いのう! 杵築大社よりも高いのではないか?」
妹がみせる過剰な反応は、これが観光バスのガイドであれば冥利につきるところだろうが、桂は高校一年生で、観光会社に就職する予定も今のところなかった。
都内の閑静な住宅地、その一角に建てられた築十五年、鉄骨三階建て白壁の戸建て住宅の前で、桂と妹はタクシーから降りた。
蝉がうるさい。
『五月蠅い』ではなくて『八月蝉い』と書いて『うるさい』と読ませるべきだと言いたくなるくらいに五月蠅い。
思考能力を一ミリ秒で蒸発させるくらいに猛烈な暑さの中を、はたはたと飛ぶアゲハチョウを追い掛けて、あさっての方向に歩き出した妹の手を桂は慌てて掴み、自宅の玄関の中へと押し込む。
丸一日、閉め切っていた室内が息苦しいくらいの熱気で二人を出迎えた。家族の体臭が複雑に混ざり合った懐かしい匂いに緊張がほどける。
キッチンに隣接したダイニング兼リビングルームで、あちこち楽しげに観察している妹を横目で見ながら、桂はコーナーソファーに腰を下ろして、ソファーの上に投げてあったリモコンでエアコンのスイッチを入れた。
ピーと電子音が鳴り、勿体振るようにゆっくりと開いたエアコンの送風口が冷風を吹き出し始める。
「うわ冷たい! 颪のようじゃ! 噂には聞いておったが便利な世の中になったものじゃのう!」
エアコンが出す冷風を額で受けてぴょんぴょん跳ねる妹の奇行を、桂は複雑な思いで眺める。妹は感情をあまり表に出すタイプではなかったはずだが。
「おお、そうじゃ。桂、鏡を渡せ」
妹がぴたりと跳ぶのをやめた。桂にくるりと振り返る。
「え? ああ」
桂は背負ったままだった宇受売のバックパックを下ろす。中から木箱を取り出して妹に手渡した。
「神棚はないのか?」
妹は木箱を抱きしめながら部屋を見回す。桂がないと答えると、
「まあ、いいか」
箱をローテーブルの上にぽいっと放り投げた。大事なのかそうでもないのかどっちなんだ。ぼろぼろに錆びついた、しかし強烈な光を放つ不思議な鏡――。
「椎奈、その鏡は何なの?」
訊ねた桂に妹は。
「神託を望むのなら供物を供えよ」
腰に手を当ててびしゃりと言った。
「く、くもつ……?」
お供え物のことだろうか。お供え物というと饅頭とか団子とか和風なモノが連想されるが、和菓子を食べる習慣がない平沢家には和スイーツの買い置きは無く、迷った末に桂は、冷凍庫に保管していたアイスクリームを差し出した。
「……なんじゃこれは」
妹がミニカップ入りアイスを訝しげに見遣る。
「アイスクリームだけど……。これじゃダメ?」
「挑戦してみようではないか。美味なのであろうな?」
「一応、高いやつだから……」
8×5センチの円筒形の容器に入った砂糖と乳脂肪と卵の固まりが税込み二百円以上するというのは、高校生のお財布にはかなり厳しい。
「美味しいと思うけど。……何してんの?」
妹が、ほっそりした顎をちょっと上げ、あーと、お口を全開にして、桂のことをじっと見ている。
「ま、まさか食べさせろと?」
口をあけたまま、こくこくと肯く。
「……」
蓋を外し、フィルムを剥がし、付属のプラスチック製スプーンでアイスをひとすくいして、この有様を近所の人に目撃されたらまずいと思い立った桂は、庭に面したカーテンが閉まっているのを念入りに確かめてから、すくったアイスを妹の口の中にぽとりと落とした。
「……どう?」
目を瞑ってふるふると体をふるわせていた妹は。
「美味じゃ! 美味じゃぞ桂! 生きているとはこういうことじゃ! おおお生きていて良かったあああ!」
いくらなんでも大袈裟でしょ。あまりの大絶賛ぶりに再考を求めたくなった桂に、妹はソファーの上でひとしきりじたばたしてから、再びあーと口を開いて、おかわりを要求する。
「……」
桂は妹の口内に、再びアイスをぽとりと落とした。
「うやっほーう!」
すると今度は部屋中を転げ回って大喜びし、また、あーと開いた口にアイスを放り込まれ、床をばんばん叩いて喜悦し、またまた、あーと開いた口にアイスを落されて奇声を上げる妹に、またまたまたアイスを食べさせ続けているうちに、桂は考えることをやめた――。
「で、なんじゃったっけ?」
「……はっ!」
自分がアイスを食べさせるマシーンと化していたことに桂は愕然となった。アイスの容器を放り投げ、ぶんぶんと頭を左右に振って正気を取り戻す。妹に何かを訊ねようとしていたはずだ。
そう。
鏡が放った強烈な光に病室が包まれた瞬間。あの瞬間、妹に何かが起きたのだ。大怪我を負い、病院の集中治療室に横たわっていた妹の身に何かが。
桂はテーブルの上の木箱を指差した。
「その鏡はいったい何?」
「秘密じゃ」
終了。
「なんでっ!」
さすがに声を荒らげる。
「世の中には知らない方がいいことがあるのじゃ。その代わりにもうひとつ訊ねることを許そう。ありがたく思え」
「……」
不良品を交換しに行った電気屋で、別の商品を売りつけられた気分だった。
「じゃあ……」
さっきから妹がみせる奇行。その原因は自分にあるのか。つまり――。
「……怒っているの?」
「吾がか? 何故じゃ?」
「これ……」
桂は申し訳なさそうに、自分が着ているワンピースの胸元をちょっと摘んでみせる。
「汝の胸が平たいことと吾の機嫌になんの関連が」
「違うっ! 椎奈の服を勝手に借りたことを怒っているのかって!」
「そんなことは汝の妹に聞いてみよ。吾はあずかり知らんことじゃ」
妹が妹のことは妹ではなくて妹に聞けと言う。
「……そうやって悪ふざけをするから、怒っているんじゃないかって」
「悪ふざけ?」
「言葉遣いだっておかしいし、椎奈が椎奈じゃないような話し方をするし」
「ふざけてなどおらんぞ。素面じゃ」
「……」
だとしたら。
妹は車にはねられて地面で頭を強打した。そのときに脳に障害を負ってしまったのではないか。
「この娘の肉体に異常はない。損なわれた機能は全て回復しておる。ただ魂が寝ておるだけじゃ」
「たましい?」
いよいよ何を言い出したのか。困惑し、眉間にしわを寄せた桂に対して、妹はしれっと真顔だった。
「分かるように説明してやろう。汝の妹は肉体に致命的な損傷を負った。あのままでは一生目を覚まさんか、仮に目覚めることがあっても肉体の機能は回復せずに不自由な生活を送る羽目になったじゃろう。が、安心せい。怪我は完治した。むしろ以前よりも健康体になっているはずじゃ。〈御魂〉が宿った肉体は常人よりも頑強になるものじゃからのう」
「み、みたま?」
何を言っているのか分からない。混乱する桂にむかって、妹はぐいっと胸を張り、顎をしゃくり気味にして宣った。
「吾は八百万の神々の頂点に立つ日神、天照大御神。汝の妹は日神の御魂をその身に宿したのだと言うておる」
「…………あ、ごめん、も、もう一回言って?」
聞こえなかったというよりは、耳が聞くことを拒否したようだった。妹は仕方ないのうと呟いて。
「吾は神だと言うておるのじゃ」
聞き間違いができないくらい、簡潔かつ端的に言った。
「かみ、さま……?」
「そう。神じゃ。天照大御神じゃ」
仰々しく肯く。ふざけているようには見えなかった。少なくとも本人は至って真面目なのだ。それはつまり――。
「椎奈が、椎奈がおかしくなってしまった……」
今朝、交差点で妹に呼び止められたときに逃げたりしなければ。そうしたら、こんなことにはならなかったのに。
「人の話を完璧に聞いておらんのう。汝の妹は眠っとるだけじゃと言うとるのに」
妹――、自称天照大御神が呆れ顔になる。
「眠っているって、だったら椎奈はいつ起きるのっ?」
「吾が眠るか、吾がこの体から出ていくかすれば起きる」
「じゃ、じゃあ今すぐ」
「いやじゃ」
即答だった。
「なんでっ」
「この娘の体は思ったよりも居心地がいいのじゃ。しばらく借りておくことにしたぞ」
妹の体は賃貸物件か。食い下がろうとする桂に天照は、
「以上じゃ」
と両掌を前に突き出して、受付の終了を宣言した。
「なんで!」
「ひとつの供物でひとつの神託じゃ。願いを聞き届けるか否かは神が判断する。わざわざ説明をしてやるだけでも感謝して欲しいくらいじゃぞ。それよりも」
天照は手術着姿の自分と、ワンピースを着た桂とを見比べて、
「吾も汝のような着物がいいのう。着替えじゃ。着替えを持て」
言うが早いか手術着を勢いよく脱ぎ捨てた。
「んなっ!」
健康的な肌色が桂の視界に飛び込んできた。すっぽんぽんの妹がリビングルームに降臨する。
「しっ、椎奈、裸! 裸だから!」
一糸まとわぬ妹から、桂は慌てて顔を背けた。
「見ればわかるじゃろ。着物の脱ぎ着など端女がすべきことじゃぞ?」
天照は肌を隠そうともせずに、腕を上げて脇の下の匂いをくんくんと嗅いだ。
「まずは禊じゃな。桂、水場はどこじゃ。身を清めるぞ」
「き、清める? 水場? お、お風呂? あ、あっち」
桂は廊下の突き当りにあるバスルームを指差した。その指先を天照はじっと見つめたまま動こうとしない
「……」
案内しろということか。
「こちらです……」
首と眼球を限界まであさっての方向に逸らし、妹の裸の肩を背後からそっとつまんでバスルームへと誘導する。
中学生になるまでは一緒にお風呂に入っていたし、裸を見ても見られても意識なんてしなかったけれど、思春期を迎えて成長すべき部分がきちんと成長した妹の裸を見ることには、抵抗を感じる桂だった。妹だってこの数年は、裸はおろか下着姿だって見せようとしなかったのに。
「…………」
下を向けば、歩調に合わせてリズミカルに律動する小さなお尻が視界に入り、顔を上げれば、肌から漂ってくる甘い匂いに鼻腔をくすぐられ、桂は苦悶しながらようやく目的地にたどり着いた。
「ど、どうぞ。お使い下さい……」
天照を脱衣所に押し込むと、桂は廊下に座り込んだ。両親が留守で助かった。否、この場合はいてくれた方が助かったのか。
「桂」
「うはい!」
脱衣所からにょきっと頭を突き出した天照が、焦れたような表情で桂をにらみつけている。
「何をしておる。早く汝も入って来ぬか」
「……は、はいっ?」
「使い方がわからぬ。水はどこにあるのじゃ」
「……」
桂がバスルームの使い方を説明している間、天照はおおー便利じゃのーとか、湯が出るのかーとか、目を丸くして感心していたが、説明を終えた桂が息も絶え絶えにバスルームから這い出ると、ふわーと大欠伸をして脱衣所にぺたりと座り込んでしまった。もう堪忍して……。
「今度は何……?」
「んー、眠くなってしまった。もう日が沈んだのう……」
手の甲で目をぐしゅぐしゅと擦る。
天照の言う通り、脱衣所の窓から見える屋外はすっかり暗くなっていた。
「吾は眠る……。日が昇れば目覚め、日が沈めば眠る。それが人のあるべき姿じゃ……」
「ね、眠るって? ここで? は、裸で? せめて部屋にっ」
寝たら駄目だと頬をぴちゃぴちゃ叩き、肩をつかんで揺さぶったが、桂の健闘むなしく天照はかくりと寝落ちてしまった。
「……なんなんだ」
凄まじい疲労感が桂の心身を襲う。
もういいや。このままお前も眠ってしまえと重くなってきた瞼を無理矢理ひらき、すうすうと規則正しい寝息をさせ始めた妹を、このままじゃ風邪をひいちゃうからだこのままじゃ風邪をひいちゃうからだっと呪文のように繰り返し、お姫様抱っこで抱き上げる。
「……」
妹は意外に軽くて想像よりも柔らかだった。それにしても――。
「……」
人生初のお姫様抱っこの相手が、全裸の妹であったことは絶対一生他言すまい。心に誓った桂の目の前数センチの距離で、妹がゆっくりと瞼を開いた。
焦点が定まらない目で桂をしばらく眺めたあと、不快そうに眉間にしわを寄せて深呼吸を一回、二回と繰り返し、それから今度はしっかり目を見開いて桂の顔を凝視する。
「……ん?」
桂は首を傾げた。
さっきまで妹を見るたびに覚えていた違和感がない。
それはつまり。
これは天照ではなくて。
【名前】平沢 椎奈 ひらさわ しいな
【年齢】十五歳
【職業】公立中学三年生
【身長】一六〇センチ
【体重】およそ〇.〇四トン
【性別】女
「……」
桂は、お姫様抱っこで抱き上げていた椎奈をそろそろと脱衣所に下した。
洗面台の鏡に映った生まれたままの自分を見て、はっと両手で前を隠した椎奈は、背中を向けて立っている桂に振り返って。
「……それって、あたしのワンピース? カーディガンも。ウィッグ? なんで?」
とんでもなく汚いものを見てしまったような顔をして、吐き捨てるようにこう言った。
「にいさん、なにやってんの?」
【名前】平沢 桂 ひらさわ かつら
【年齢】十七歳
【職業】公立高校二年生
【身長】一七〇センチ
【体重】五〇キロ
【性別】…………男
平沢椎奈は冷静であろうと努力した。
目を瞑って深呼吸を繰り返しながら、自分が置かれた状況を正確に把握しようと努めたのだった。しかし。
問一、女装をした兄が、脱衣所で、意識のない全裸の妹に何をしようとしていたと思いますか?
という設問に対しては、もうどうやったって犯罪的な解答しか思い浮かばず、椎奈はフルボリュームの悲鳴を上げ、視界に入った持ち上がりそうな物体を手当たり次第、桂めがけてぶん投げ始めた。
中三女子にしては語彙が豊富な妹が思い付く限りの罵詈雑言と、渾身の力を込めて投げつけるアメニティグッズが雨あられと降り注ぐ。
桂は弁解を試みたが、椎奈は聞く耳を持たなかった。
そりゃそうだ。
一糸まとわぬ妹の前に、兄が妹の服を着て立っているなんていうシチュエーションはそうそうあるものではない。というかあってはならない。
「ちっ、違うんだ椎奈! 話を聞いてっ!」
「何が違うのよこの犯罪者! 死ね! 腹かっさばいてお天道様に詫びろ!」
椎奈がワインドアップでぶん投げたシャンプーボトルを顔面に食らい、仰け反った桂の尻ポケットで、携帯電話がぶるると振るえて着信を報せた。
「ちょ、ちょっとタイム! 電話! 母さんから電話!」
両手でTの字をつくり、バスルームから退避しつつ通話ボタンを押す。
「も、もしもしっ?」
『――あ、桂? ごめんね~、さっきは電話出られなくて。カンガルーが可愛くてさ~』
携帯のスピーカーから聞こえてきた母の声は、いつも通りに能天気だった。こっちは有袋類どころではない。
『で、どうしたの? 何かあった?』
何かどころではなく、あった。あったのだが――。
「……ふたりが日本に帰ってきたら話す。急ぎじゃない、というか、電話では上手く話す自信がない」
『――あ、そう。椎奈は近くにいる?』
「! い、いないっ。椎奈は、ト、トイレかなぁあ?」
声がきれいに上滑る。誤魔化そうとした桂の背後にバスタオルを巻き付けた椎奈が立っていた。兄の手から携帯電話を強奪する。
「もしもし?」
『――ああ椎奈? そっちはどう?』
「まあ。いろいろあったけど」
日本から六〇〇〇キロ南にいる母と話しながら、兄を横目でじろりと睨む妹の視線が痛い。
子供の教育に関しては、放任すぎるくらいに放任主義な桂と椎奈の両親だったが、妹の服を着て、眠る妹を裸にひんむき、お姫様抱っこに興じていたと知ったら、さすがに放任できないだろう。
女装はともかく後半部分は誤解だった。
だが痴漢行為には被害者寄りの判決が下ることが多いと聞くし、さっきの椎奈の様子をみれば告発の行方は明らかだ。
「……」
なんかいろいろ終わったな。桂はくるりと白眼を剥いた。
『――桂とうまくやってる? あんたたち会話がないからコミュニケーションとれないんじゃないかって心配してるのよ。まあ喧嘩にもならないだろうけど』
「大丈夫。あたしもにいさんも子供じゃないんだから。やって良いことと悪いことの区別ぐらいつくわよ」
椎奈が言葉の端々で兄のハートをさりげなく小突く。
『――あ、そう? 火事と戸締りには気をつけてよ』
「うん。母さんたちも旅行楽しんで。じゃあね」
終話ボタンをぷちりと押すと、兄に携帯を突っ返した。
「へ……?」
告発なしに通話を終えた椎奈を、桂は信じられない面持ちで見た。
「……い、言わなくてよかったのか?」
おそるおそる訊ねる。
「どうしようかな」
椎奈は胸の前で腕を組み、片眉だけをちょっと上げて。
「あたしの言うことを聞いてくれるんなら、黙っていてあげてもいいわよ」
そう言って桂の顔をちらりと見た。
「脅迫する気……?」
「あたしはどっちでもいいんだけどな。なんだったら今から母さ」
「お願い致します」
椎奈が言い終えるのを待たず、桂は光の速さで膝を折り、床をぶち抜く勢いで頭を下げた。それはそれは見事な土下座だったという。
「じゃ、契約成立ね」
身をひるがえして階段を上がっていった椎奈が自室のドアを閉める音を聞き届けてから、桂はがしゃんと崩れおちた。