12 桂と女神と永遠の別れ
一二、八月二日 午前六時四十五分
窓の外を時速200キロで風景が流れていく。
山や川や田畑のような牧歌的な景色ではなく、高層ビルや商業施設あるいは工場のような無機質でどちらかと言えば見慣れた景色だ。
自分が新幹線の自由席、三列シートの通路側に座っていることを思い出した桂は、首をゆっくり巡らせた。
早朝である。東京行き東海道新幹線こだま691号の車内は閑散としていた。
柏木は引き出したテーブルに突っ伏して、柊木はシートの背もたれにもたれかかって、それぞれ爆睡中だった。花も恥じらう乙女にしては無防備すぎる寝姿だったが、よほど疲れているのだろう。
歴史と伝統のある旅館『ホテル・ヒモロギ』で昨夜起きた火災は、突如として発生した集中豪雨の影響もあって、幸いにも建物を半焼させただけで鎮火した。
消防と警察の発表によれば、火元はホテルの大広間、出火原因は宴会後の火の不始末によるものだと断定され、避難時に転倒してかすり傷をこしらえた軽傷者が数人出た以外、死者、重傷者は奇跡的に一人もいなかったという。
火事の直前、ホテルの廊下を能役者が走り回っていたという怪情報が流れたが、宴会の準備だったという親告がホテル側からなされ、火事とは無関係だということで落ち着いた。
焼け出された宿泊客たちは、簡単な事情聴取を終えた順に、地元の観光協会が手配した新たな宿へとバスで送られていった。
日帰りの予定だった桂たち四人は申し出を辞退し、翌朝、始発の新幹線で熱海の街を後にした。
ホテルの半分を燃やした火事も、火元の真上に都合よく発生した乱層雲も、この国に古くから存在する神の仕業だと言い出す者は、当たり前だが一人も居らず。
ひと夏の冒険と呼ぶにはあまりにも非常識すぎる一連の事件は、かくして唐突に終わりを告げたのだった。
いろいろと。本当にいろいろとあったけれど、残りの夏休みは平穏無事に過ごせそうだ。
「……というわけにもいかないか」
希望的観測を脳内から排除しつつ、桂は隣をちらりと見る。
「なんじゃ?」
視線を感じた天照が、ん? と振り返った。手で熱海の駅前で買った例のぬいぐるみを弄んでいる。
このぬいぐるみを購入する羽目になったのも、女装する羽目になったのも、元を糺せば天照が送ってきたメールに従ったからなのだが、もうひとつの『ねむるからおこせ』という内容はともかく、ぬいぐるみと女装については事件解決に何ら役に立つこともなく、言及してもどうせはぐらかされるだけだろうと経験上思った桂は、なんでもないと首を横に振った。
「ところで桂」
天照が真顔で言った。
「なに?」
「身長に比べてコレが大き過ぎはせんかのう?」
ぬいぐるみの股間に生えた突起物を指で摘んでぶらぶらさせる天照の手から、桂はぬいぐるみをぶんどった。
「そういうことは家に帰ってからやれっ。いや、家でもするなっ」
「小さいことを気にするのう」
「小さくないっ。違うっ。ソコがじゃなくてっ。誰かに見られたらどうするんだ。きみだけの体じゃないんだぞ」
臨月を迎えた妻と夫の会話のようだったが、桂が言いたかったのは、体の持ち主である椎奈の体面もあるんだぞという意味だった。花も恥じらう女子中学生がぬいぐるみであっても、男性器をつまんで振り回すというのはよろしくない。
「もうしまっておきなさいっ」
ぬいぐるみを放り投げて立ち上がった桂のワンピースのスカートを、天照がついと摘まむ。
「怒ったのか?」
目を細めて、ほんのちょっとだけ口角を上げる。椎奈なら見せない愛らしい表情に桂の怒気が緩んだ。
「……トイレ」
「自分のと比べるのか」
「するかっ」
下品なことを言うんじゃないっと小声で叱る桂の背後で、柏木が静かに瞼を開いた。
「スカートだとトイレが楽だな……」
奇数号車のデッキに設置された個室トイレから、男子としてはどうかと思う感想を呟きながら出てきた桂は、誰かの視線に気が付いた。
しまった。いまの独り言を聞かれただろうか。いや待てよ、僕は女装しているのだから聞かれても平気なのか? 混乱しつつ視線の持ち主を確かめる。
柏木だった。
なんだ柏木なら聞かれても構わないそんなことないっと往復二ミリ秒で思い直す。柏木はトイレ待ちだったのだ。そして桂が男性専用トイレではなくて兼用個室を使用していたことについてお怒りなのだ。
「ほ、ほら、恰好が格好だから男性用トイレだとまずいかなって思って」
言い訳しながら柏木の顔を盗み見る。
「……あれ?」
柏木は怒ってなどいなかった。否、怒るどころか笑顔だった。その、らしくない蕩けそうな笑みに違和感を覚える桂との距離を柏木は大股で一気につめると、桂の頭のすぐ横の壁をドンと掌で突いた。
「……」
今度こそ壁ドンだった。だけではなく、柏木は桂に上半身を預けてきた。
「……うお」
薄手のTシャツとワイヤーのないタイプのブラジャーに覆われた大きな胸が、桂の鎖骨でぐにゃりと歪んだ。微かに汗ばんだ肌からは甘い匂いが漂ってくる。
ひょっとして……!
桃色フィルターがかかった男子高校生脳が答えをぴーんと弾き出した。
ひょっとしてこれは、迷惑をかけたお詫びに体で償っちゃうという、妄想世界で頻繁に起こる例のシチュエーションではないか! こんな嬉し恥ずかしいイベントが現実世界で起こるとは!
柊木あたりに話したら、女性はそういうもんじゃありませんと一昼夜説教をされそうな妄想に身を振るわせる桂の唇に、柏木の唇が秒速一センチで近付いてくる。柏木の吐息が桂の睫毛をふわふわと揺らす。
「柏木さん……」
このままでは唇を奪われてしまう。余談だが桂にとってこれが人生初のキス。ファーストキスだった。そしてそんな記念日に桂は自分が女装中であることを思い出す。
「……」
ちょっと待て。ということはファーストキスの甘酸っぱいメモリーを将来回想するたびに、自分が女装をしていたという香ばしい記憶がもれなくついてくるということではないか。
「か、柏木さんっ」
顔を背けた桂の顎に、柏木は長い指をそっと添えた。そして。
「か、柏木さん?」
ぎりぎりと物凄い力で締めあげ始めた。
「あがががががががっ!」
桂の高速タップにも、柏木は指の力を緩めない。この期に及んで頭に浮かんだ、柏木は強引なプレイが好みなのかとかいう間抜けな考えは、もったいぶるように上下に割れていく彼女の唇の隙間にそれを見つけた瞬間、那由他の彼方へすっ飛んだ。
柏木の口の中で翠色に妖しくゆらめく、それ。
それは御魂だった。
御魂は柏木の口から抜け出して、ゆらり、桂の方に近づいてくる。寄生生物が宿主を替えるように、天宇受売命の御魂が柏木から桂へ移ろうとしているのだ。
「ふが……っ!」
慌てて閉じようとした口は、しかし柏木の指にしっかりとロックされていて閉じられない。交通事故で死にかけたわけでも不治の病を抱えているわけでも知りたい謎があるわけでもないのに! 閉じない口でふがふが悲鳴をあげる桂の祈りが天に届いたのか、ぷしゅーとデッキのドアが開いて現れたのは女神だった。
「ああえあう!」
助かった。だが。
「ようやく出てきたか。まったく用心深いのう」
ぬいぐるみを片手にぶら下げた天照は、そう言ったきり動こうとしない。
「ああえあうっ!」
傍観を決め込んだらしい天照に、冗談は止めてくれと桂は涙目で訴える。だが。
天照はちっとも笑っていなかった。
「ああえあう?」
救いを求める桂に視線を合わせようともしない。
桂はようやく悟った。神は人間のことなど何とも思っていないのだ。ヒモロギの女将が言うように、神にとって人間は家畜以下の存在なのだ。
冷淡な目つきで女神が眺めるその前で、桂の口から滑り込んだ御魂が体内を――食道や胃だけではなく、血管や臓器はおろか物体が通過できるはずがない骨の隙間まで――這いずり回る。その筆舌に尽くし難い不快感に桂は。
「うげええ!」
吐いた。
今朝、駅前のコンビニで購入したおにぎり諸共、桂の体内から吐き出された御魂は、うろうろと所在無げにデッキを漂っていたが、天照が早口で紡いだ宣呪言に緊縛されて動きを止め、ぬいぐるみに吸い込まれて消えた。
天照がぬいぐるみに話しかける。
「次の千年はここで過ごすのじゃな猿田毘古」
「……猿田毘古?」
天宇受売命じゃなくて猿田毘古神? 床に横たわったまま桂は唖然と天照を見上げた。
「災難じゃったな桂。大事ないか?」
言葉とは裏腹にニコニコと嬉しそうな天照にむかって、どうしてすぐに助けてくれなかったんだと桂は不満をぶちまけた。すると天照は。
「愛希の体から猿田毘古の御魂が完全に抜け出るまでは、うかつに手を出せなかったのじゃ。宇受売の御魂をこの依代に鎮めてしまう危険もあったしのう」
言いながら例のぬいぐるみを振り回す。
「え……?」
桂は混乱した。
「だけど猿田毘古って柏木さんが探していた神さまでしょう? どうしてその神さまの御魂が柏木さんの中に?」
まったく訳が分からなかった。その柏木は、翠色の御魂がぬいぐるみに吸い込まれた途端、吊っていた糸が切れたように床に倒れてそのままだ。
「愛希が猿田毘古に固執し過ぎたから、かのう。ま、詳しくは席に戻ってからじゃな。ほれ、とっとと後片付けをせんかい」
「天照!」
誤魔化されないぞと憤慨した桂は、文句を言いつつデッキの掃除をテキパキこなし、気を失ったままの柏木を背負い、天照に従って座席に戻って、そして腰を下ろしてから、己の下僕体質についてしばしのあいだ落ち込んだ。
「愛希は猿田毘古への執着を、糞ども(※ヒモロギ)に利用されたのじゃ。便所虫(※ヒモロギ)どもは、愛希が欲する知識を提供する用意があると言葉巧みに接近した。宇受売が与えた知識では愛希を満足させられなかったことが、ペンペン草(※ヒモロギ)の甘言に愛希が釣られる原因になったわけじゃな」
天照が訥々と話し出す。だけど。
「宇受売さんは三番目の神社がどこにあるか知らなかったんでしょ?」
教えたくても知らなかった。それなら仕方がないと思うが。
「違う。宇受売は猿田毘古の社について、知っていることを愛希に故意に伝えておらん」
「えっ?」
「亜佐加神社がもう一社あるはずじゃと、愛希はそう言い張っておったのう? 猿田毘古の御魂が三つに別れたのじゃから、祀る社も三つなくてはおかしい。猿田毘古を祀る三番目の社がどこかにある筈じゃと。が、三番目の社は失われてなどおらんのじゃ」
「失われてない……?」
「そんな社は初めから存在しない。猿田毘古を祀る社は後にも先にも二つだけ。ないものは失われることもない。そういう意味じゃ。宇受売はそれを愛希に告げなかったのじゃ」
失われていないけれど、ない。ないものは失われない。禅問答のようだった。だけど結局それは知らないのと同じことじゃないか。ぽかんと口を開いた桂の下唇を、天照は獲物を見つけた猫のような仕草で、ひょいとつまんで引っ張った。
「いららららっ! 何っ!」
「馬鹿面しとるから。可愛くてつい構いたくなるじゃろ」
そんなに間抜けな顔だったろうか。桂は口許を手で隠す。
「愛希が言っておったのう。邇邇芸が葦原中国を平定したあと、故郷に戻った猿田毘古は海で貝に手を挟まれて溺死した。『古事記』にはそう記されておると。そして海中で三つに別れた御魂のうち二つが社に祀られた。亜佐加神社に祀られた御魂は初めから二つだけ。それゆえ山頂から山麓に社が遷座されたときに社は二つに別けられたのじゃ。三つに別けようにも御魂は二つしかない。無い袖は振れぬからのう」
天照の言う通り、祀るべき御魂が二つなら三番目の社は必要ない。だけど。
「祀られなかったもうひとつの御魂はどこにあるの?」
「海に沈んだままじゃった」
「海に?」
「猿田毘古が溺れ死んだ〈阿邪訶の海〉。汝が吾を押し倒した海じゃ」
「……」
そういう覚え方は止めてほしい。
「猿田毘古の御魂のうち〈あわさく御魂〉〈つぶたつ御魂〉は亜佐加の社に祀られておる。残るひとつ〈そこどく御魂〉は海底に沈んだまま。終ぞ祀られることはなかった」
「……」
何か引っかかる。新幹線の車内で聞いた柏木の話を桂は思い返した。
亜佐加神社を名乗る二つの社には、それぞれ三柱の神が祀られている。両社に共通する神は〈猿田毘古大神〉と〈伊豆速布留神〉。そしてもう一柱は片方の社が〈竜天大神〉で、もう片方は……。
「あ、そうだ。〈底度久神〉だ。〈そこどく御魂〉と名前が似ているよね? 〈底度久神〉は、実は〈そこどく御魂〉のことで、つまり片方の社には猿田毘古の御魂が二つ祀られているってことじゃないの?」
思い付きだが案外いい線をいっているのではないか。だが天照は首を横に振った。
「手元にないものを在ると吹聴し、在るものをさも無いかのように振る舞う。隠し事をするときの常套手段じゃ。人の視線を海から遠ざけたかったのじゃ。御魂が残る阿邪訶の海からな」
「だけど、どうして御魂が海に沈んでいることを隠す必要があるんだ? 沈んでいることが分かっているんなら探せばいいじゃないか」
「見つからなかったのじゃ。宇受売とその眷属が死に物狂いで探したのじゃが、魚がどこぞにくわえていったか、潮に流されてしまったか、どこにも、どうしても見つけられんかった。宇受売は阿邪訶の海に近付くことを己と眷属に禁じた。怨嗟を残して死んだ者は怨霊と化して生者に仇を為すと言ったのは愛希じゃったな。まさしく〈そこどく御魂〉は怨霊と化す危険性を孕んでおった。怨敵たる宇受売が接近したらそれは現実となる。便所の草(※ヒモロギ)はそれを知っておって、じゃから愛希に阿邪訶の海へ行くよう促したのじゃな。結果、便所コオロギ(※ヒモロギ)の思惑通り、海に沈んでいた〈そこどく御魂〉猿田毘古は愛希の体に侵入した。宇受売は猿田毘古に抑えこまれて身動きがとれなくなってしまったのじゃ」
天照の召喚に宇受売が応じず、火事で柏木が死にかけていたときでさえ顕れなかったのは、しなかったのではなくできなかったということか。猿田毘古の御魂にしがみつかれて身動きが取れなかったのだ。
「……」
暗くて冷たい海の底で何千年も、じっとじっと物音を立てずに隠れて沈んで恨みを晴らす日が訪れることを待っていたなんて。異常なまでの執念深さに背筋が凍る。
「かくして便所コオロギ(※ヒモロギ……気に入ったらしい)どもは宇受売の無力化に成功し、愛希という間者を吾の元に送り込むという小細工にも成功した。じゃがそれも吾の神算鬼謀の前には徒労に過ぎなかったわけじゃな。桂、褒めて構わんぞ?」
女神が、どや? と傲岸不遜な笑みを浮かべる。
桂は腹を立てた。
「……じゃあきみは阿邪訶の海が危険だって知っていて、柏木さんが危険な目に遭うことも分かっていて、それでも黙っていたんだな?」
納得がいかない。どうしてなんだと声を荒らげると、天照の顔から喜色が消えた。いつだって真正面から人の顔を視る女神には珍しく、逃げるように視線を逸らした。
「油断しておったのじゃ。阿邪訶の海に猿田毘古の御魂が沈んだままになっておるとは思わんかったし、ヒモロギが猿田毘古の御魂のことを知っているとも思わんかった。気付いたときには手遅れじゃった。あのとき吾は汝に押し倒されていたしのう」
だから。その思い出し方は止してほしい。
「だけど海にいたときに気付いたのなら、猿田毘古の御魂を柏木さんから追い出すチャンスはあったんじゃないか?」
そうすれば、わざわざ神籬旅館くんだりまで行かなくても、ましてや火事を起こすこともせずに済んだのではないか。死者が出てもおかしくないくらいの事故だったのだ。
「御魂を無理に引き剥がそうとすれば愛希が傷付くおそれがあった。暴走した御魂が怨霊と化すおそれもあったのじゃ。それは避けねばならんかった。怨霊が世に放たれたら犠牲者は千や二千では済まんじゃろう。人の世は栄えた。栄えた分、災害が起これば犠牲は甚大なものになる。猿田毘古が隙をみせるのを待つより他になかったのじゃ」
「隙?」
「一つの依代に二つの御魂が鎮まることは普通はない。宇受売が自由を奪われたように猿田毘古も身動きがとれぬ。じゃから必ず他の依代に移ろうとする。その瞬間を、御魂が無防備になる瞬間を待ったのじゃ」
つい数分前に新幹線のデッキで桂の身に起きた、金輪際思い出す気はなかった惨状が早くも脳裏によみがえる。天照の狙い通りに事は運んだわけだ。
「あれ? ちょっと待ってよ。おかしいよ」
桂は声を上げた。
「僕には神の御魂を宿す資格がないってヒモロギの女将さんが言っていた。そういう血筋だって。それなのにどうして猿田毘古は僕に移ろうとしたんだ?」
「御魂が安定しやすい体質というのはある。それが血によって親から子へと伝わっていくのは事実じゃ。が、それ以外の人に御魂が宿らないわけではない。重要なのはのう、女ということじゃ」
「女っ?」
意外な答えに桂は思わず聞き返した。
「御魂は女に宿りやすいのじゃ。男の場合は七面倒くさい儀式やら手続きやらが必要になる。それなしで男に宿ろうとすると」
……ああなるのか。己の醜態を思い出す。
「じゃから汝に、女の恰好で来いとめーるしたのじゃ。それから猿田毘古の御魂を鎮めるための、これじゃな」
例のぬいぐるみを振ってみせる。つまり――。
ステップ1、女装した桂を女だと思い込ませて猿田毘古に襲わせる
ステップ2、だが実際は男である桂に御魂は宿れない
ステップ3、行き場を失った猿田毘古の御魂をぬいぐるみに鎮める
これが猿田毘古の御魂を捕らえる最も安全な方法だったのだろう。それならそれで説明してくれればよかったと桂は思うのだが、どうせこの口の減らない女神さまは、下僕は無い知恵を絞らず主人に盲従していればよいのじゃとか宣うに違いない。
はずだったのだが――。
「すまなかったのう。これほど大事になるとは思ってもみなかった。吾の考えが甘かったようじゃ」
「へ……?」
天照のしおらしい態度に桂は戸惑った。額面通り受け取るべきなのか、それともこれも女神一流の悪ふざけなのか、どちらなのか判らず迷っているうちに何かを言うタイミングを失ってしまう。天照も口を噤んでそれきり何も言わず、所在なさに桂は座席に体を沈めた。
700系の窓の外を見知ったような風景が流れていった。
壁の案内表示と車内放送が間もなく品川駅に到着することを報せ始めていた。
それは突然だった。
「桂、吾は疲れた」
「えっ?」
エネルギーの塊のような天照には相応しくない台詞に、桂はぎょっと隣の席を見る。
女神の顔が蒼白かった。
「椎奈には汝からよくよく謝っておいてくれ。色々と迷惑をかけたと」
様子がおかしい。
「それから汝に預けている鏡じゃが、近いうちに誰かが取りに来るはずじゃ。それまでは大事に保管せよ。あれには此の国最大の怨霊が閉じ込められておる。吾はその蓋なのじゃ。少し無理をし過ぎた。封印が弱まらぬよう全精力を傾けて役目を果たさねばならん」
物語も最終盤というこの期に及んで、なにやら伏線めいたことをサラッと言う。
「吾は眠る」
「えっ?」
驚いて目を剥いた桂の手の甲に天照の指が触れた。
冷たかった。
燃えさかる太陽の化身の指が冷たかった。
桂は気が付いた。
日神の力は日とともに満ちて日とともに衰える。本来なら眠っているべき夜に、鎮めてあった御魂の全てを開放してまで、火の神を倒し、女将を諫め、柊木を助け、柏木をこの世に繋ぎとめた、八面六臂の大活躍をした天照がどれほどの霊威を消耗したか――。
「今回は少し長めに眠ることになりそうじゃ」
天照の瞼がゆっくりと落ちていく。失った力を回復するため女神は長く永い眠りに、千年の眠りにつくのだ。
「いろいろと楽しかったぞ桂。ぱすたもあいすくりーむも美味じゃった。汝と歩いた夕焼けの道を、砂浜を吾は忘れられないじゃろう」
心底幸福そうに言う。
「……」
この瞼が閉じ切ったら天照は眠ってしまう。言いたいことも伝えたいことも山ほどあるはずなのに焦るばかりで言葉にならない。
「吾が起きたら、汝はいくつになっておるかのう」
どきりとした。千年後、女神が目覚めたときに桂は。
「……おじいちゃんに、なっているかな」
決壊しそうな涙腺に力を込めて無理矢理笑顔を作る。ほとんど閉じかけた目で桂の不自然な表情に気付いたのだろうか、天照は少し口角を上げると。
「そうか。楽しみじゃ」
そう言って静かに瞼を閉じた。
妹のポーチの中で携帯が震えている。
それは母からの電話だった。
隣で眠る妹の顔を眺めながら、桂は通話ボタンを押した。




