水鏡の心
ラゾン丘陵。ゴラゾンのほぼ中央に位置する丘陵である。そして、そこがこの戦の前線となっていた。洞窟の出口はそこに続くそうだ。出口の近くには巨石群がありどの陣営からも離れているらしい。
「洞窟の出口が、そこに繋がるとわかったのは最近でさあ。俺らもびっくりしたさ。巨石群がなかったら敵に見つかってたかもしんねえな」
テツは洞窟の地図に新しい道と出口を書き足した。その地図にはいくつかの坑道が書かれており、坑道の先には○と×が記されていた。
「ラゾン丘陵の他に出口があるのか?」
ジャンヌは○を指差してテツに問う。
「ああ、ラゾン丘陵の出口はここ。あと二つの内一つは王都郊外の森の端に続いているが、そこは人が通れねえ狭い風穴だ。もう一つはジャンヌたちと会った沢に続いている」
「そうか……」
ジャンヌは考え込んでいる。
「隊を三分するしかないな」
そう答えを出した。
「三分ですか、二分ではなく? 洞窟を進む隊と、馬車を隠密に運ぶ隊の他にまだ隊が必要ですか?」
ディアスは二分すると思っていた。なぜ三分なのかと訊ねる。
「ああ、その他にリャンガ、リガに戻る隊がいる。ここの民をより安全なリャンガに移す。ここではもう抱えるのは無理だろう、テツ?」
「ああ、もう食糧が危ねえ。騎士が護衛してくれるんなら、安心して移動できるだろうよ」
「それに、ドラドを焦らせるためにリガ城砦を目に見える状態で築かせたいのだ。ムカデも協力してくれよ。ドラドの撤退を急がせるためにな」
三分の内容はこうだ。
一班は約九十名で洞窟を進む。二班は二十名で馬車三台を巨石群まで移動させる。三班は四十名とムカデ数人で、馬車四台を使いここの民半分程度をリャンガに運びリガ城砦を築く。
一班はディアスが率いる。二班はジャンヌだ。
「三班は、すまんな眼帯。お前をアンジーと一緒にリャンガに行かせてやりたいが、私はお前を離せん。だから、頼まれてくれないか?」
ジャンヌはアルシンドの警護騎士二人と闇騎士であった二人を見つめた。ジャンヌに首を預けた者らである。
「リガはこの戦いにおいてゴラゾン勝利の象徴となろう。いや、そうさせねばならない。王様や王太子様に遣えていた者なら、皆が従うはずだ。頼めるのはお前たちしかいないのだ。シャルド様が帰還するまでリガ城を確固たるものにしたい」
ここで前線との戦いから外れることは、騎士として辛いであろう。しかし、ジャンヌが言うことも理解できるはずだ。四人は躊躇わずジャンヌに従った。元よりジャンヌに首を預けているし、ジャンヌの命ならそれを全うするのみである。
「ジャンヌ、いえ、ジャンヌ様。我らにお任せを。必ずやリガ城砦を短期に築いてみせましょう」
「ああ、頼んだ」
ジャンヌは四人と軽く抱擁した。なぜかレイが続いて手を広げている。ジャンヌはテツに合図を送った。テツが承知と言わんばかりに、レイを抱擁した。
「おい、こら」
レイはテツを剥がしてジャンヌに抱きつこうとするが、ディアスが蹴飛ばす。タスクはジャンヌに被害が及ばぬように優しく肩を抱いた。一番の役得である。
「タスク、てめ、こらぁどさくさに紛れて一番得してんじゃねえ」
作戦会議は三人のじゃれあいと、笑いで終わったのだった。
リガを出て五日が経とうとしている。二週間の折り返しは目前だ。
ジャンヌはディアスと二人洞窟を歩いていた。ジャンヌがランプを持ち、ディアスが地図を広げている。
「ここを右ですね」
二人が目指している場所は、地図上では△が記されている場所だ。そこに水源があるとテツはこっそりジャンヌに教えた。水源は清らかで、ムカデのただれた肌の痒みをとってくれているそうだ。ただれは治らないが、赤みがだいぶ引いたとも言っていた。ジャンヌの靴擦れを聞いたテツは、あえて騎士らが寝静まった頃にやってきて『嬢ちゃんは女だから肌を男どもの起きてる最中に晒すんは危険だしな』とぶっきらぼうに言いながら教えてくれたのだ。
ジャンヌとテツはこっそり洞窟を進もうとしたが、ディアスに気づかれてしまう。それどころか、ディアスは密かにジャンヌを連れ出すテツに対し髪を逆立てんばかりの威嚇を放った。テツは苦笑いしながら説明し、ディアスに地図を渡したのだ。『△ん所だ。嬢ちゃん、騎士様と行った方が安心だ。頼んだぜ』テツはディアスに託した。
「もうすぐのはずですが」
というわけで二人は進んでいる。
「あっ」
くねった道を曲がると突如それは現れた。水晶の原石に囲まれた空間に、透き通った水盤が浮かぶ。
「綺麗」
洞窟の中に湧き出でた水源は水鏡のようにそこに在った。
「ジャンヌ様、足を浸けてください」
ディアスはランプをソッとジャンヌの手から取った。それから、ジャンヌに背を向ける。ランプを持った手を後ろに伸ばしている。
「ディアス、気にしないから一緒に足を浸けよう。……一人ではちょっと怖い」
怖いと言われてしまえば、ディアスは断れなかった。ただ何を話していいかわからず、ディアスは無言になった。
ディアスはランプを安定した石の上に置き、ブーツを脱ぎ足を出す。裾をたくしあげてからジャンヌを見た。ジャンヌの細い足首が白く浮かび上がり、ディアスは息を飲んだ。ジャンヌは笑っている。
「昔よくテツと裸足になって遊んだんだ。こんな風にね」
ジャンヌは水鏡を蹴った。パシャンと水が跳ねた。ジャンヌはそれを見てクスクスと笑い出す。
「お転婆だったんだよ」
言いながらジャンヌは腰を下ろして水鏡の湧き水に足を浸けた。ディアスもそれに倣う。二人の間は人一人分離れていた。
ジャンヌは水の中で足を揺らし、波紋を作っている。ディアスは水晶の岩盤を眺めている。ジャンヌが水を揺らす音だけがその空間に流れていた。
「アンジーを泣かせちゃうな」
ジャンヌの小さく呟く声が反響した。
「それでも、眼帯が必要なのでしょう?」
ディアスが水鏡に映るジャンヌに言った。
「ああ、この隊で眼帯が一番背が高いから」
ジャンヌも水鏡のディアスに話す。
「無理をさせると思う。眼帯にしかできないことを頼むんだ。ディアスに反対されてもやるからな。私はお転婆だからね」
ディアスは苦笑いした。ジャンヌは前線での戦いの作戦を言っているのだろう。
「いいえ、反対などしません。貴女の奇策は勝運があるとわかっていますから。私だけでなく、隊の者皆も貴女に着いていきますよ」
「ありがとう、ディアス」
水鏡越しに二人は笑い合った。
「アンジーはまだ子供です。子供は泣くのが常。泣いて成長するのです。泣いた先にはきっと笑顔がある。眼帯との暮らしが待っている」
ディアスはそう言って水鏡でジャンヌを見ることを止めた。水鏡にはジャンヌを見つめるディアスが映っている。
ジャンヌはディアスの視線を感じながら、まだ水鏡のディアスを見ている。
「素敵な未来だな。必ず叶えさせないといけない未来だ」
ジャンヌの声は震えていた。
「……未来が怖いのですか?」
ディアスはジャンヌから目を反らさなかった。眼帯とアンジーの未来のことではない。ジャンヌの未来が怖いのかとディアスは問うたのだ。
「未来が怖いんじゃないの。未来を描けないのが怖いのかな。どんな未来を自分が望んでいるのかもわからないの。未来がプツリと切れちゃったから」
ジャンヌは隊長の口調から、ただのジャンヌのそれに変わっていた。ジャンヌは水鏡をじっと見ている。
「ジャンヌ」
水鏡の向こうの未来を探すように見つめるジャンヌをディアスは呼んだ。
「ジャンヌ、私を見てくれ」
ディアスは手を伸ばしジャンヌの肩をソッと触れた。
「私の未来はゴラゾンの勝利で綺麗に終われたらいいのにな」
「ジャンヌ!!」
ディアスは叫んだ。ジャンヌは決戦で命を落とす未来を望んだのだから。
ディアスはジャンヌの肩を強く引く。自然にジャンヌはディアスと向き合った。ディアスは二人の距離をグイッと縮めた。しかし、ジャンヌはうつむいている。
「勝利したら笑おう。ドラドに怒ろう。犠牲になった者らを悼もう。それから、たくさん泣こう。それだって素敵な未来だろ? たくさん笑ってたくさん泣いて、そうやって笑って泣いてる仲間を見るんだ。眼帯やアンジーのそんな姿を見たくないか?」
ジャンヌが顔を上げる。ゆっくりディアスの瞳にジャンヌの瞳に映った。ジャンヌは泣いてはいない。穏やかに微笑んでいた。
「素敵な未来だ」
ディアスの胸が軋んだ。泣かないのでなく、ジャンヌは泣けなくなったのだとディアスは感じた。ジャンヌがアルシンドから受けた傷は深く深くジャンヌを蝕んでいるのだ。ディアスは手に力が入った。このままジャンヌを抱きしめたいと衝動にかられる。
「ジャンヌ」
掠れた声だとディアス自身も感じていた。ディアスは何をしようとしているのか、自身の頭が理解している。何かに駆り立てられている。
「私にはエレンはいらない」
競り上がったディアスの気持ちが、一気に冷めた。いや、覚めた。ディアスはばっと手を離した。今しようとしたことが、エレンがアルシンドにしたことと一緒だと、ジャンヌの言葉でわかったからだ。ディアスは頭をガシガシと掻いた。
「貴女は『ゴラゾンの乙女』。私は貴女に忠誠を誓った者。ですが、それはゴラゾンの勝利までです」
ディアスは小指を出した。
「ジャンヌ、約束してほしい。笑って泣いている素敵な未来を私と一緒に望んでくれることを。今はその未来だけを見よう」
ジャンヌはディアスの言葉に大きく息を吐き出して笑った。無理のない笑顔である。
「ありがとう、ディアス」
ジャンヌはディアスと小指の約束を交わしたのだった。
次話更新1/17(火)予定