意地っ張りの弱者
幌馬車の中、ジャンヌは上着を脱ぐ。ボロボロの上着を見て、ジャンヌはハッハッと笑った。
「ひどいものだ。アルシンド様にはどう言い訳しようか」
ジャンヌは上着を丁寧に畳んで横に置いた。それからシャツに手をかける。左肩の矢の貫通した穴を見て、ジャンヌは人さし指を穴に入れた。ジャンヌの顔が歪む。抜き出した指には血がついていた。
「ディアスにはばれちゃうんだな。ハッハッ」
シャツを脱ぎ、肩の傷口にタスクから貰った薬を塗った。矢はジャンヌの左肩をかすめていた。かすり傷だが、そんな傷など負ったことのないジャンヌにとっては、痛みがこたえた。
「そうだ。これは痛いからなんだ。こんな苦しいのは痛いからなんだ」
噛みしめるように発した後に、またジャンヌはハッハッと笑った。
傷はまだあった。肩の傷よりもちょっと深いものが、左脇の背中にある。ジャンヌはそっと手をそこにあてた。ジャンヌの手にべとりとした感覚が広がる。
「うん、痛い。痛いなあ」
白布をそこに押しあて血を拭う。ジャンヌは痛くて顔が歪む。歪むのに口角を上げる。
「苦しいな」
ジャンヌは笑う。笑う以外の顔ができなかった。心は壊れていく。
「愛する人の心も体も癒さない。髪はなくて、ドレスも着ていない。だからって、頼れる騎士と同等ではない。女にも騎士にもなれない。ハッハッ、じゃあ私は何になるんだ?」
ジャンヌはひとしきり乾いた笑いを発した。息が止まるまで。次第に笑いが止む。そして、傷口に手を伸ばして薬を塗った。背中の傷は、手を伸ばしたって全ては塗れない。ジャンヌは白布に薬を塗布し、それを脇の背にあてて包帯をぐるぐる巻いた。
「私は『ゴラゾンの乙女』だ」
声に力がこもっている。
また皆が望む者になろうとジャンヌはしていた。王都で皆が望んだジャンヌであったように、この戦場においてもジャンヌはそうあるべきだと心に決めた。そうすることが、苦しさから逃れられる唯一の道であったから。
ディアスは拳を強く握りしめた。眼帯騎士に顔を向け口を開く。開くが言葉は出てこなかった。
「俺は」
続く言葉を言えないディアスは、幌馬車を見つめた。
「俺はジャンヌ様を」
「今言ったって、ジャンヌには聞こえない。さっさと持ち場に行け。ジャンヌはそう命じたはずだ」
眼帯騎士はディアスの言葉を遮り、追いやった。幌馬車の入口は渡さないと、鬼の形相で立っている。
ディアスはその眼帯騎士を見ながら、その奥のジャンヌを思う。眼帯騎士の言葉を思う。衝撃的であったのは確かだった。レイやタスクでなく、ジャンヌがディアスを指名したことも。眼帯騎士から聞かされたその意味も。強い者だから泣くのだという残酷な言葉も。
「俺が必ず泣かせる。だが、ゴラゾンの勝利までは『ゴラゾンの乙女』でいてくれ、ジャンヌ」
首の三角巾をソッと撫で、ディアスは新たな決意をして踵を返した。
「眼帯、すまない。ありがとう」
幌馬車から出たジャンヌは、眼帯騎士に声をかける。
「準備はできたか?」
「ああ、ほとんどできた。誰にドラドの軍服を着させるかぐらいだ、決まっていないのは」
眼帯騎士はあそこだと指をさして、ジャンヌとともに向かった。すでに本隊もジャンヌ隊も揃っている。ジャンヌと眼帯騎士が最後だったようだ。
ジャンヌはディアスを見る。
「ドラドの王子と背格好が似ている者はいるか?」
「数名おりますが、臨機応変にできる者といえばレイになりましょう。レイは髪の色と髪の長さは王子とほぼ同じです。後ろ姿ならごまかせると思います」
ディアスの返答を受け、ジャンヌはレイを見た。レイは肩をすくめ後ろを向く。王子の軍服を羽織ってみせる。
「ばっちりだ」
残った軍服もできるだけ似通った者に着せていく。偽のドラド兵の指揮はレイが行うことになった。
「ディアスは三台の荷馬車のゴラゾン捕虜の中に。三台の幌馬車の入口は兵糧の積み荷で埋め尽くして、その奥に騎士を隠す。四台目の幌馬車の奥に騎士、それを兵糧で隠して偽の王子と偽のドラド兵士三名が偽王子の従者として手前に。七名の偽のドラド兵士で馬車を動かすとするか」
皆がジャンヌの作戦に頷く。各馬車の隊長を決め、七台の馬車に散らばった。ジャンヌ隊は偽の王子レイの馬車である。陽はもう落ちはじめている。リガ城を空にして二日目が暮れようとしていた。
しかし、二日目はまだ終わらない。夜の移動こそ、戦場に潜入するには好都合な時間であるから。七台の馬車は、第二王子の前線へと闇に身を隠し進んでいった。
「止まれぇ!」
前方に朝焼けを浴びたドラドの小さい陣営が現れる。後方支援の陣営といったところか。
ドラド兵士に扮したジャンヌ隊の警護騎士がドラド兵に『よぉっ』と声をかけた。相手が話す前に言葉を紡いでいく。
「ゴラゾンの兵糧を奪ってやったぜ! んで、ゴラゾンの捕虜もな!」
馬車から勢いよく降りて、幌馬車の後ろを開ける。
「見てくれよぉ。満杯で、幌じゃねえと運べなかった。イッヒッヒ」
なんとも芝居がかっている。しかし、ドラド兵士の口ぶりを知っていた警護騎士は、その口調が相手を油断させるとわかっていた。
「すっげぇじゃねえか! ちょうどいいところだった。実は山脈側の陣営を突如現れたゴラゾン隊に奪われたってんだ。あっちは兵糧支援中心だったから、大痛手さ。もう兵糧が少ねえってとこでのこれだろ。こりゃ、いい案配だぜ」
ドラド兵二名は嬉そうに、兵糧もどきを叩いた。その後ろにゴラゾン騎士が隠れているとは思っていない。
「おっと、ところでどの部隊だい?」
ドラド兵士は思い出したかのように問う。警護騎士は兵標を出した。
「第三王子テオン様の遊軍さ!」
ドラド兵は王子の隊と聞いて驚いたのか、ばっと膝を着いて頭を下げた。
「よしてくれって、偉いのはテオン様。ああ、そうだ。あっちの馬車で今は休んでいるんだが、中で休ませてくれねえか?」
警護騎士は自然な流れで陣営に足を向ける。
「ちょっと待ってくれ。上官に訊いてくる。休む場所と兵糧馬車と捕虜馬車と……ぶつぶつ」
ドラド兵が陣営に入っていった。警護騎士は大声で指示を出した。
「皆、荷物と捕虜を確認しろ!」
馬車の偽ドラド兵が、荷物や捕虜を確認するように動く。警護騎士はすぐにジャンヌとレイが乗る馬車に指示を受けに向かい、警護騎士は陣営の少なさをジャンヌに報告した。
「それならば……やるか。馬車が分けられる前に行動する。あっちの陣営はシャルド様が抑えたのだろうな。ならば、こちらもやってやろうじゃないか」
兵糧の奥からジャンヌが指示を出した。皆の口角が弓なりに上がる。
「よし、ジャンヌ、俺が合図を出す。顔を晒したら、どうせバレるだろ。皆に伝えてくれ」
馬車は次々に陣営に入っていく。進む先にこの陣営の責任者だろう者が王子を迎えるべく立っていた。
「よおお越しくださいました! テオン王子様!」
レイはここぞとばかりに、馬車から出ていった。俯きぎみに歩を進め、相手との距離をつめる。レイの横には三名の偽のドラド従者。
「ああ、来てやったぞ! 立ち上がれ、ゴラゾン騎士よ!」
レイの合図で、馬車に隠れていたゴラゾン騎士が一斉に姿を現した。
ドラド陣営は何が起こったか理解できないようだ。皆、口を開け呆けている。目の前にいるのは、テオンでなくゴラゾンの騎士であると目はわかっているのに、すぐには体は動かない。
「一気に片付けろ!」
ジャンヌが幌馬車の上に乗り、ゴラゾンの旗を振って立った。
レイはニヤリと笑い、握手を求めるように両手を差し出したまま固まっている陣営の責任者の首に剣を添えた。
ドラド陣営は慌てふためいた。指揮をする陣営の責任者はレイによって捕まっている。誰からも指示がないまま、敵と戦わざるをえないのだ。
辛うじて剣を持ち戦う者や、むやみに剣を振り回す者。丸腰の者もいる。そのドラド兵に向けてジャンヌは叫んだ。
「聞け、ドラド兵よ! ここはゴラゾンの地だ。ここで命を落とせば、その身はドラドの地に戻ることはない。戦わず、逃げよ! 剣を捨てドラドの地まで逃げよ! 家族が待つドラドの地まで」
ジャンヌの甘言に幾ばくかのドラド兵は陣営から逃げていった。ここは後方支援の陣営であり、前線にいる猛者たちとはわけが違うのだ。元々兵士でない者もいる。志し高い者などいないのだ。
ジャンヌは続ける。
「すでに聞いておろう! ゴラゾンの続く勝利を。ドラドの前線はすでにゴラゾンに囲まれつつある! さらに、ゴラゾンはリガ山麓のドラド領を占領している! ドラド兵よ、ここで戦うのか? ここゴラゾンの小さな陣営を守るか、家族のいるドラドの地を守るのか……さあ、選べ! これが最後の忠告だ!」
ドラド兵はゴラゾン騎士と剣を交えながらも、後退している。
「ゴラゾンの騎士よ、聞け! 逃げる者を追うな。退く者の背を狙うことは、誇り高いゴラゾン騎士のすることではない」
ジャンヌの発言に、ドラド兵はとうとう逃げ出していった。残ったのは、レイらに捕まった陣営の責任者たちだけであった。
朝焼けの中、ゴラゾン勝利の旗が掲げられる。陽を受けた銀刺繍と金刺繍が輝いた。
「ふぅはぁああ」
寝起きのゴラゾン騎士が背伸びをした。深夜の強行軍の後のドラド陣営との一戦であったため、ゴラゾン騎士の疲労はたまっていた。昼まで仮眠をとった騎士らと、これから仮眠をとる騎士が交代をする。
「それにしても、ディアス隊長は暑くねえのかな」
起きがけの騎士の会話が、ジャンヌの耳に届いた。
「そうそう、あれだろ。三角巾。この暑いのにずっーと、口に巻いてるやつ」
「もう、リャンの森でもねえのにな」
「俺、気になって訊いてみたぜ。『三角巾暑くないですか』って」
「隊長は何て答えたんだ?」
「俺には意味がわかんなかった。なんか、哲学的な言葉だったぜ。
『口を塞げば、自分の呼吸と鼓動で癒しと温もりを得られるから。自分を研ぎ澄ませるから。弱者でいられるから』
ってさ。俺には難しすぎる」
ジャンヌは騎士らの言葉を耳にし、顔を手で覆った。ジャンヌの心の中で、靄のかかった視界がぱぁっと晴れた。
「私は馬鹿だな。一番最初に誓ったのに。ディアスに恥じない主であることを。ありがとう、ディアス」
そこにいないディアスにジャンヌは礼を言った。そして三角巾を取り出して首に巻き口を覆った。
「あの日の決意を思い出せ。恥じない主はどんな姿かだ」
ジャンヌは覆った口元を手で抑え呼吸と鼓動を確かめる。痛さと辛さを感じた肩と背の傷が次第に熱を持ち主張し出した。
「ああ、この傷は醜さじゃない。誇りだ」
ジャンヌは、呼吸と鼓動をさらに感じるよう瞳を閉じた。ジャンヌの心に重石のように居座る苦しさがジャンヌを襲う。リリィにすがりディアスの手の温もりを頼ったジャンヌの苦しさが。
「すがる存在、頼る存在があってこその苦しさ。なんと傲慢な感情か」
ジャンヌは瞳を開けた。その瞳をゴラゾンの旗に向ける。
「ゴラゾンを失う以上の苦しさがあるというのか。全てを無にする苦しさの前で、私の苦しさなど赤子のようなもの」
研ぎ澄まされたジャンヌが答えを見つけた。
「ああ、弱者だ。他人に頼れぬ、自分よがりで意地っ張りの弱者だ。でも、そうありたいと決意したんだ、あの日。ゴラゾンの勝利を自分で掴むと」
あけましておめでとうございます
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