道のり
戦火は王都からもわかるほど近づいてきている。登城したジャンヌは、城の窓から見える西方の煙を見て唇を噛みしめた。
「もう間近まできているというのに」
瞬きもせず見つめる瞳に、潤んだ膜がはる。ジャンヌは袖口で目元を擦った。貴婦人や令嬢にはできなくとも、化粧などしていないジャンヌに躊躇することはない。
「失礼いたします、ジャンヌ様」
前方から来た騎士がジャンヌに声をかけた。隣国との開戦以降ジャンヌについている騎士である。詰襟の縁が濃紺の騎士服をまとっている。主に王族警護をする騎士の区分色だ。しかし、ジャンヌはまだ王族ではない。王族になる予定の令嬢である。本来ならまだつくはずのない警護の騎士がついたのは、開戦の直後であった。
「どうでありましたか?」
感情を抑えて問うたジャンヌであったが、思いの外冷淡な声であったのか、騎士はすぐに返答できずジャンヌの顔を伺う。令嬢の顔を見るは不躾であり、騎士たる行為ではない。ただ、今は敵国が侵略している戦の最中だ。主の顔色、表情を見ることは必要なことであった。
ジャンヌも自身の声が騎士を戸惑わせたのだと感じ、フッと自嘲した。ジャンヌは一度瞼を閉じた。小さく深呼吸して目を開く。
「報告を」
幾分軟らかくなった声で騎士を促す。騎士は小さく目礼し報告をはじめた。
「ご在室であります。扉から離れて二名の警護騎士が……顔をしかめて立っておりました」
騎士はまたジャンヌの顔を伺った。騎士にはまだ報告することがあるのだろう。ただ、それを発言していいものかとジャンヌを見たのだ。
ジャンヌは騎士のそれを理解している。訊いても良かったが、わかっていることなのだからと歩き出す。耳にしたとて、ただ『そうですか』と答えるだけなのだから。
騎士はジャンヌの背後に連なった。この騎士の他に、もう二人、ジャンヌには警護騎士がついている。こちらは闇の騎士であり、ジャンヌはその存在を目にすることはない。ただその闇の騎士が常に警護していることは、ジャンヌにも知らされている。警護者本人に気づかぬように警護する陰の騎士なのだ。計三名がジャンヌの手駒と言えよう。
「タスク、王様を」
ジャンヌは闇の騎士に命じた。応えはなくとも、騎士タスクは王を連れて来るだろう。もちろん闇の騎士が王を直に連れては来ないが、ジャンヌが向かっている王太子の部屋に王が来ることには変わらない。
「レイ、先回りはしないで」
ジャンヌはもう一人の闇の騎士レイにも命じた。危機回避のために先回りし、行く場の安全を確認するのも闇の騎士の役目である。しかし、先回りしてしまえば、王太子の闇の騎士に気づかれてしまうだろう。それでは意味がない。
「白日の元に曝されるのですか?」
ジャンヌの背後の騎士がその背に問うた。
「もうすでに周知の事実でなくって? ……でもディアスの気持ちもわからないではないわ。本来の主ですものね」
ジャンヌの警護騎士ディアスは、開戦前は王太子の警護騎士であった。さらに王太子と共に育った幼なじみでもある。そんな信頼のおける者だからこそ、王太子はジャンヌにディアスをつけたのだ。愛する婚約者ジャンヌに。
「私の気持ちは、主が心を痛めないかにあります。もちろん、主はジャンヌ様です」
「そう……ありがとう。ディアス、私は貴方に恥じない主であることを誓うわ」
ディアスは『え?』と思わず声をもらした。騎士にとって誓いとは絶対であり、神聖であり生涯をかけるもの。つまり、誓いの相手に命を預けるようなものであるのだ。それをジャンヌは口にした。きっと、通常の会話の流れで、重きをおいた発言ではないはずだと、ディアスはもれた声を回収するようにシュッと息を吸った。ジャンヌの背を追う。そう、面と向かって言われた誓いではない。きっとジャンヌにとって、会話であっただけなのだと。
しかし、ジャンヌはもう決めていた。目前に迫るあの部屋に入ったなら、今までのジャンヌを捨てるのだと。ジャンヌは未練や躊躇などせぬようにと、ディアスに誓った。自分を奮い立たせるために。
王太子の警護騎士がこちらに気づく。ジャンヌの姿を確認するとすぐに反応する。王太子に知らせようと動く。が、ジャンヌは待てと示すように手の合図で制した。
「知らせはしなくてよいのです。貴女方がこの場に離れている意味を私はわかっています」
騎士は険しい顔で頷いた。
「ここに立つことは、警護騎士としてギリギリの配慮ですわね。ありがとう。今から貴女方の本来の役目に戻っていただきます。その騎士の誇りを汚しはしない。ついてきて」
騎士は強く握った拳のままジャンヌに一礼した。
ジャンヌは閉ざされた扉の前に立った。背後にはディアスと王太子の警護騎士二名。闇の騎士レイもどこかにいるだろう。さらに王太子の闇の騎士はどう動いているだろうかと、ジャンヌは思った。ついてからまだ時間は経っていない。きっとレイが伝えたはずだ。もうすぐ王もここに来るはずだと。この突然の訪問は、すでに対処できぬところまできているのだということを。
ジャンヌは歩いてきた廊下に目を向けた。
ーーここまでの道のりは決して悪いものではなかったわ。いいえ、幸せであっただろうと思う。ほんの数ヶ月前までは順風満帆であった。王太子様の婚約者に選ばれたのは三年前の十六の時。それから三年をかけて愛と慈しみを育ててきた。
それに亀裂が入ったのはいつであったのか? 開戦となった三ヶ月前? ううん、戦だからこそ絆が強まったわ。王太子様の信頼のおける者を警護騎士としてつけてくれた。戦地に向かう王太子様と強く抱きしめあったとき、亀裂などなかったもの。戦地での活躍を聞くたびに、王都においても頑張らねばと、正妃様と一緒に領地を巡り民を励ましてきた。
王太子様が指を切断し城に戻ったと聞き、倒れそうになりながら城に飛び込んだのはちょうど二ヶ月前。真っ赤に染まった左手を見て胸が締め付けられた。毎日城に見舞いに来たかった。けれど、王太子様の婚約者という立場がそれを許してはくれなかった。王太子様の代わりに王様が戦場に向かわれたから。正妃様は王様の代わりに玉座を守る。帰ってきた王太子様が民の不安を払拭しなければならなかったけれど、怪我をした王太子様を民に見せられない。不安を煽るだけから。代わりに全てが私の肩にかかった。だから見舞いと看病を親友に頼った。……それがいけなかった。いけなかったのだろうか? 私に責任があるというのか、何度も自問する。一ヶ月が過ぎたころ、私の耳に入ってきたのは残酷な噂であった。
"王太子は見舞いの女に夢中になっている"
王城の騎士の間で噂されていた。それを聞いたとき、自分の耳を疑ったものだ。戦の慌ただしさで、耳がおかしくなったのだと思った。心が疲弊しているのだ。そんなことを信じては駄目だと何度も自分を律した。だけど、無情にも……
"扉も開けず何をしているのやら"
それを聞いたとき、プツンと糸がキレた。抱きしめあい一つになった絆は、ピキンピキンと大きく音をたて亀裂が入る。そして、真っ二つに割れて、自身の呼吸しか聴こえぬ世界に堕ちた。それからは、ただ役目をこなす日々。毎日耳にする噂は、真か嘘かなど上がらぬほどの、
"女を入れ扉を閉める"
この事実をもってして真と察せられた。この戦の最中に帰還した王太子様がせねばならぬことは、怪我をおしてでも臣下の前に立つことであるのに。女を入れ扉を閉めることではないのに。それなのに……
そんな日々の中、王様は帰還した。状況は敵国に押される一方で、再度作戦を練り直すための一旦帰還だった。前線では王太子様の二人の弟君らがなんとか食い止めている。王様はそろそろ良くなったであろう王太子様と今後を決めようと戻られたのに。
"左手の小指一本など怪我には入らぬわ"
と私に笑ってくれた。その小指一本で二ヶ月ほど部屋にとじ込もっておりますなんて、言えるはずもなかった。まして、あの真の噂も。帰還してほんの三日で王様の耳にも入ったとディアスが教えてくれた。けれど、王様は戦場で勇敢に活躍していた王太子様のお姿を知っているから、噂を一蹴された。
ああ、王様が来られたわ。廊下の奥から金刺繍のマントをなびかせて。私が先ほどまで歩んだ道のりをーー
ジャンヌは扉に手をかけた。