第九話 「恋と恋の間」
自分からキスしておいてなんだけど、この感触はさすがに刺激が強すぎて耐えられない。
証拠に、全身がびりびりとして鳥肌が立ってきちゃっている。
その背徳感たるやヒメネス公爵といつかした口づけどころの騒ぎでは無い。
――恋しかけている男性の前で他の男性と、しかも義理であっても弟とキスをしているのだから……。
もういっそ殺してしまって下さい。という感じである。
――きっとこうしてルーゼとの熱いラブシーンを見せれば、全てを察して、ライナスは去っていくだろう。
とっさに思いついて実行した作戦だった。
けれど私は分かっていなかったのだ。
ライナス・デリアが決してどんな場面であっても逃げたりはしない男であるという事を……。
もうそろそろいいかなと思って、キスを終わらせる為に、私は掴んでいた義弟の顔をぐっと押しのけた。
「はぁっ……はぁっ……」
熱い呼吸を繰り返しながら、ルーゼの唇が離れる。
「姉さん」
勇気を出して目を開けると、エメラルドの潤んだ瞳が、すぐ近くに見えた。
次に視線を横にずらし、門の方向を見て、飛び上がる。
ライナスは……全然去ってなどいなかった。
それどころかすでに門の中にまで入って来ていて、至近距離から私達を観察しているところだった。
「庭先でずいぶん熱いな」
その低い声からは動揺の程はうかがい知れなかった。
静かな青い瞳を向けて冷静な表情で馬に跨ったままこちらを眺めている。
その姿を見返しながら、結局対峙しないといけないなら、キスなんかするんじゃなかったと、己の浅はかさを呪いたくなる。
「……ライナス、来ていたんですか?」
ルーゼが声に気がついて、ぼうっとした顔で振り返った。
「ああ……レティアの様子を見に来たんだが、元気そうで良かった」
『元気そう』という言葉にかけられた皮肉気な抑揚が半端無かった。
「……心配して下さってありがとう。
でも、姉さんには私がついているから大丈夫ですよ。
せっかく来て頂いたけれど、私達はこれから出かけるところなんだ。
それでは、また。
さあ、姉さん行こう……」
にこっと、美しく口角を上げて微笑すると、ルーゼが私の手を引いて歩き出す。
とりあえずこの場から去れそうで私はほっとした。
「レティア」
ライナスとすれ違い、門の方へと向かっている途中、背後から呼びかけられた。
「泣いてないなら良かった」
思いも寄らぬ優しい言葉が続いて、あやうく心がわし掴みされそうになる。
振り返ってその青い瞳を決して見てはいけない。
きっとさらなる恋心を覚えてしまうから。
「ありがとう……さようなら」
「ああ……さようなら、レティア」
低く深い男らしいライナスの声と別れの言葉。
ヒメネス公爵と別れた時とは別の種類の悲しみが心を覆う。
さようなら大好きな私の強くて優しい騎士。
私は悲しみを振り切るように、だーっと思い切り田舎道を走り出した。
どこまで走ればこの胸の切なさを癒せるかもわからずに……。
短い期間に私は二つの恋に別れを告げた。
二つ目は始まってもいなかったようなものだけれど……。
胸の中で慰められたり馬に乗せて貰ったり、散々受けた彼の優しさが、この身に染み過ぎてとてもとても辛いのだ。
(ごめんなさい。ごめんなさいライナス!)
今の私にはこうするしかないの。
いつかルーゼがリーネに出会って私から解放された時に、もう一度恋を始められたらいいな。
きっとそれは無理で、期待しない方がいいのだけれど、そう願わずにはいられなかった。
「姉さん、飛ばし過ぎじゃない?」
ルーゼが隣を走りながら、心配そうな瞳を向けてくる。
「だ、大丈夫……っ!」
こんなに私は息が上がっているのに、なぜ義弟は余裕のある涼しい顔をしているの?
「だったらいいけど、無理しない方が……」
「きゃっ…!」
道のでこぼこした部分に足を取られ、あやうく転びそうになってしまった私を、ルーゼが素早く腕を伸ばして受け止めてくれる。
「ほら、危ない……」
「……ありがとう」
「もっとゆっくり走ろう?」
道の上で抱かかえられ、見詰め合っているうちに、たちまち甘い雰囲気になり――ルーゼが美しい顔を傾け、近づけてくる。
「さっきはキスしてくれて嬉しかった……」
「待ってっ」
私はうろたえながらその顔を手で押しとどめた。
当たり前だけど私、ルーゼに勘違いをさせてしまっている。
どうしよう、なんて言えばいいんだろうか。
さすがの私も二つも失恋を重ねた今は新しい恋を始めるような心境ではない。
「……分かった。待つよ」
ルーゼはそれ以上追及せず、キスも求めて来なかった。
元々彼は相手に無理を強いるような強引な性格では無いのだ。
そう波風さえ私が立て無ければ私達はきっとうまくやっていける筈。
この問題はいきなり解決しようとせず、ゆっくり曖昧にぼかしていくしかない。
あなたにキスをしたけど好きじゃありませんなんて、とてもじゃないけど、言えないもんね。
それから数週間は、私はルーゼと日課のジョギングをこなす一方、お茶会などの集まりは一切断わって、屋敷でのんびりした時を過ごした。
約束通りルーゼは毎日少しづつだけど乗馬を教えてくれて、おかげで私はまだ相乗りだけど、手綱を操れるようにまで進歩していた。
二人で馬に乗って近所を散策するのはとても楽しく、目にも鮮やかな美しい緑の風景に、私の失恋の傷もじょじょ癒えつつあった。
幸い、たまに挨拶がわりの軽いキスをルーゼにされることはあっても、それ以上は特に求められることもなく、基本、彼は私が傍にいるだけで充分満足そうだった。
そうして穏やかで平和な毎日を送るうちに、すっかりこのままリーネ登場の日まで何事もなく過ごせるのではないかと、私が油断していた矢先。
突然、その不吉な予兆は現れた。
私はその日、朝からとても頭が重ったるく、ベッドからなかなか起き上がる事ができなかった。
ルーゼが心配して起こしに来る前に、なんとか起きなくちゃ。
そう思って必死に身を起こし、身づくろいする為に姿見の前に立った――その時だった――鏡に映る私の背後に、もう一人の蒼白な顔をした私が立っている姿が見えたのは――
「きゃああああっ!!」
激しいショックを受けて悲鳴をあげた瞬間――急に視界がぐるんと回って――頭の中に鮮明な映像が浮かび出す――
青白い月の光に照らし出されるた世界に、一人、湖面を見つめて、静寂の中に立っている私の姿が見えた。
思いつめたようにじっと湖を見つめながら、ゆっくりと歩を進めて行く。
「ルーゼ、あなたまで去ってしまった……私はもう一人ぼっち……」
悲しげな声が夜のしじまをぬって木霊する。
「やっぱり私の運命は変わらなかった……変えられなかった……!」
何を言ってるの?
私は何をする気なの?
なぜ湖へと歩いていくの?
「さようなら、ルーゼ……さようなら、ライナス!」
待って! 止めて止めて止めて止めて――
湖の中に入っていくのは止めて!
誰か私を止めて、湖に入らせないで!!
「あぁあぁああああああっ……!?」
必死の祈り虚しく、視界に映る私は立ち止まらずに、迷いない足取りで湖の中を進んでいく。
嘘だ、こんな映像嘘だ!
「姉さん、どうしたの!」
扉が勢い良く開く音と共に取り乱したルーゼの叫びが響き、慌てたような足音のあとに、身体が強く抱き締められる感覚があった。
私は彼の腕の中でなおも絶叫する。
死んでしまう、私は死んでしまう。
未来の自分が自分を殺してしまう。
誰か助けて、お願い!
――冷たく凍える水底へと沈んでいく私を、残酷な誰かが見下ろしている。
何をどう選んでもお前は死ぬのだと、あざ笑っている。
絶望で染まった視界の中はひたすら真っ暗で、私は助けを求めるように天へと手を伸ばしていた――