第七話 「逆さまの運命」
ルーゼの突然の登場に動揺して、一瞬、呼吸も忘れて固まり、その姿を見返し続ける。
まるで、熱くなった心と身体に、突然、冷水を浴びせかけられたようだった。
抱き合うどころか激しいキスシーンまで見られてしまった今の状況は、どう考えても昨夜より悪い。
怖くてその渦巻くようなエメラルド色の暗い瞳から、目が離せなくなってしまう。
今すぐ逃げ出してしまいたいほどの緊張感が場に満ちていた。
「――キス……してたんだ?」
……と、いきなり現実を認める呟きが、ルーゼの唇から漏れた。
昨夜とは違う反応に、思わず「えっ」と小さく声を上げてしまう。
「見ての通りだ」
ライナスが興奮した息を抑えるよう低い声で肯定する。
「……」
無言でルーゼはゆっくり馬を間近まで寄せて来て、すぐ目の前から私の顔を見下ろしてきた。
そしてすっと繊細な白い手をこちらに差し出す。
「姉さん……帰ろう」
かすれた、搾り出したような声だった。
「さあ、馬に乗って……私たちの屋敷へ帰ろう……」
「あっ……!?」
繰り返し言われて、差し出されている手を見つめ、しばし呆然とする。
ルーゼのその静かな、息も絶え絶えな口調が、昨日よりも深い絶望を表現しているようだった。
ライナスは昨夜と同じく庇うように私の身体を抱いていた。
「レティアは、俺が後で送る」
その台詞を遮ってルーゼが初めて大きな声を上げ懇願した。
「……姉さんお願いだ……一緒に帰ると言って!」
ルーゼの声は軽く裏返り、血の気を失った唇がぶるぶると震えていた。
色を無くした瞳に、あえぐように呼吸をつく小刻みに震える身体、激しい物を堪えているのが分かるその蒼ざめた表情と、血走った目。
これ以上追い詰めると、彼が昨夜と同様に爆発する事が容易に想像出来る。
――危機感を抱くのと同時に、あまりにも痛ましいその様子に、自分がこの瞬間、義弟に与えている苦しみの深さを思い知り、戦慄を覚えた。
彼の苦しみはヒメネス公爵に失恋したばかりの自分にとって酷く身に詰まされるものだった。
己の苦しみと照らし合わせて、はるかに酷いルーゼの様子に、罪悪感に辛くなり、めまいがしてくる。
私はなんて残酷な事をしているの!
「ルーゼ……私……」
より刺激する怖さよりも、もうこれ以上彼に苦しみを与えたくない、という思いが自分の中で強くなっていた。
私はライナスの首から腕を外すと、硬い胸をぐっと押すように身を離した。
そうして、ゆっくり腕を上げ、ルーゼの手に自分の手を重ねかけた、その時。
「レティア、待つんだ!」
ライナスが叫んで腕を掴んでそれを止める。
力強い光を宿す青い瞳が、なぜだ? と問いかけていた。
「ごめんなさい、ライナス……私……ルーゼと一緒に帰らなくちゃ……!」
先刻まで抱き合いキスしていた相手に言うには、有り得ないほど素っ気無い台詞だった。
けれどどうしても私には義弟の苦しみを、このまま放っておくことなど出来ない。
ライナスの手を振りほどき、改めて、自分の手をルーゼの方へ伸ばして、重ね、言葉をかける。
「帰ろう……ルーゼ」
「姉さん……」
その時エメラルドの瞳が揺れて、確かに救われるような色が広がるのを、見た気がした。
手を握って馬の上に引っ張りあげて貰うと、義弟の震えを止めたくて、背後から身体にそっと腕を回す。
それからライナスを見下ろし、今度こそ別れを言った。
「さようなら、ライナス……ごめんなさい……ありがとう」
言い終わったタイミングで、ルーゼが馬の腹を蹴って走らせ始める。
最後に見返した、ライナスの青い瞳は呆然としたものだった。
立ち去る間ずっと彼の視線を背中に感じて、心が硬直するようだった。
屋敷へ帰るとルーゼに手を引かれ、大人しく自分の部屋へと戻った。
扉をパタンと閉めると、ルーゼが振り返り、私達は部屋で二人きり、立ったまま見詰め合う。
「座ってもいい?」
「ああ……いいよ」
ルーゼと一緒にベッドまで歩いて行き、疲れていたのでドサッと腰を落とす。
彼も並んで横に座り、しばらく二人で並んでぼーっと過ごした。
まだ手は繋がれたままだったが、なぜかはがす気は起きなかった。
静寂で心を落ち着かせると、私はやっと、今まで自分が直視する事を避けていた、問題に向き合う事にした。
まずは昨夜から怖くて訊けなかった、禁断の質問をルーゼにしてみる事にする。
「ルーゼは、私の事が好きなの?」
いきなり核心をつく。
「……好き?」
その問いに対し、ルーゼは虚空を仰ぎ、考え込む仕草をした。
再び、視線を下ろすと、天使のように美しい顔をこちらに向け、ゆっくり答える。
「違うよ姉さん」
その言葉に私は一瞬、ほっとしかける。
「そんな浅い言葉じゃ足りない。あなたへの私への思いは……」
「……えっ」
すぐに事態が想像以上に深刻である事に気づかされ、愕然とする。
「――姉さんだって気がついただろう?
あなたに出会ってすっかり私はおかしくなってしまったんだ……。
それまでは、自分で自分の感情を制御出来なくなるなんて事は一度もなかったのに……。
まるで、今では自分が自分で無くなってしまったようだよ。
恋とはもっと甘いものだと思っていたのに、これを表す言葉を今ではたった一つしか思いつかない」
たった一つ?
聞くのが怖いのに問いかけずにはいられなかった。
「……それは、どんな言葉?」
「地獄……地獄だよ」
「……!?」
答えるルーゼのエメラルドの瞳は再び暗く渦巻くみたいになり、表情が懊悩するように歪められていた。
「……今日の苦しみは特に酷かった……心臓が八つ裂きにされたみたいで……どうにかなってしまいそうなほど。
それで思い知った……あなただけが私のこの世界を天国にも地獄にも出来るのだと……。
姉さん、頼むから、私に地獄を見せないで?
そうじゃないと、あなたの首を絞め上げていたあの男のように……きっと、そのうち、私はあなたに酷い事をしてしまう」
言いながら、ずるずるとベッドから床に身体を落とすと、ルーゼはすがりつくようにして、苦しみに満ちた表情で下からこちらを見上げた。
「酷い事?」
その言葉が意味する事が、たび重なる自分の死を暗示する映像を見せられていた私には、すでに何であるかが分かっていた。
「苦しみから逃れたくて……あなたをこの世から消してしまいたくなる……。
そんな事を今更しても絶対に、元のあなたを知る前の、恋する前の自分には戻れないのに……」
「……ルーゼ」
「だけど耐えられないんだ……私には耐えられない……あなたの瞳が他の男を見つめ、その腕の中に抱かれ、口づけをする……。
そんな物を見るぐらいなら、自分の目をいっそ潰してしまいたい。
あなたを殺して自分も死んでしまいたくなる!」
彼はぶるぶると震えながら自身の顔を手で覆って、私の膝に顔を埋めた。
激情とともに吐露された想像以上のルーゼの自分への想いに、私は慄然する。
「そんな……そんな事って……!?」
ショックを受けるとともに、心から疑問に思い尋ねずにはいられなかった。
なぜなのかと、なぜそんな地獄みたいに私を愛するのかと。
殺してしまいたくなる程の強い感情を抱くのか。
「出会ってから私達はまだ二ヶ月でしょう? どうしてそんな風になるまで私を想っているの?」
その問いが虚しい物である事は、ルーゼよりもっと短い期間で私の首を絞め上げるまでに到ったロウルの存在が教えいた。
ルーゼは私の問いに対し、自嘲的な笑い声を上げてから、語り出した。
「なぜ? さあ……私こそむしろ訊きたいぐらいだ……なぜこんなにも愛さなければいけないのか……。
――恋に落ちたのは貴方に出会ったその瞬間だった。
初めてその透き通るような美しい姿と、澄んだ声を聞いた時、生まれて初めての衝撃に打たれた。
貴方に会う直前までは、母の再婚など反対しようと思っていたのに……。
気がつくと、あなたが欲しいあまり、それを受け入れ、この屋敷に一緒に住む事まで了承していた。
産みの母を幼い頃に亡くし、ライザは育ての親だったから、再婚するなら普通は家から出てもらうのが筋だったのに。
なのに……あなたの傍にいたくて、一時も離れたくなくて、愚かにも父親ごとこの家に招き入れていた。
自分の目が届かない場所にあなたがいる事自体が耐えられなかったからだ……!」
出会った瞬間……その言葉が本当だとすれば、二ヶ月という期間すらも最早意味を成さない。
恋の苦しさ、失恋の苦しさは、自分も今日味わったばかりの感情だ。
しかしこれは……これは一体何なの?
そこまでの根拠が無いのに、男性が私に魅了されその苦しみを味わうというこれは……呪いと呼ばずに、なんて呼べば良いのだろう!
出会った者を息を吸うように魅了してしまうという呪い。
この呪いゆえに、幼い頃から大好だった男性の気を迷わし、出会ったばかりの男性を廃人にして、今もルーゼをこんな風に地獄に叩き落している。
それだけではない、自分はまたライナスをも惑わしているのだ。
本来、色恋などより、馬や剣に夢中な人だったと、義母も言っていたではないか……。
そうしてこのままいけば、どんどん被害者が増えて行く事だろう。
なのに、どうしたらこの呪いを解除出切るのか、自分でもわからない。
呪われたこのレティアの小説の設定を覆す方法が……!
この呪いゆえに自分が殺される運命にあるかもしれないというのに……。
――そうなのだ、私がルーゼに殺されるとしたらその理由はたった一つなのだ。
今さらながら自分の大きな思い違いと、愚かさにめまいがしてくる。
今思えば、繰り返し見た映像はその警告だった。
だからいずれもルーゼ以外の男性といる時に決まって見たのだろう。
つまり全ては私の最初の考えとは逆さまだったのだ。
ルーゼと恋仲にならなければ死なないのでは無い。
ルーゼ以外に恋すれば彼自身でも制御出来無い激情によって殺されるのだ。
逆に、ルーゼと恋仲になれば、生死の選択権は少なくとも自分にあった筈だ。
――自殺しなければ死ななかったのだから。
そう、死にたく無ければ昨夜、ライナスではなく、ルーゼの胸の中でこそ泣くべきだった。
ルーゼにこそ恋するべきだったのだ!
(なのに私はもうライナスに恋し始めている!)
ライナスの胸の中で泣き、二度目は自然に彼の口づけを受け入れるまでなっていた。
つまり、ある意味小説の筋通り、私は失恋の時に胸を借りた相手に恋し始めてしまっていたのだ……。
恋する相手が、ルーゼではなくライナスに変わっていたという、その致命的な違い。
その違いゆえに、たぶん私は殺されて……冷たい暗い湖に一人沈んでいくのだ……!