第六話 「恋の節目」
お互いに距離を詰めるように近づいていくと、ヒメネス公爵の連れの女性が、舞踏会で見たあの黒髪の美しい令嬢である事が分かった。
ライナスはちょうど近くに来たあたりで馬を止め、自分が先に道の上に降りて、私を抱き降ろしてくれた。
「ヒメネス公爵様……」
「レティア……なのか? またそんな格好をして……」
銀髪に合う白地の丈長の上衣を着たヒメネス公爵は、アメジストの瞳を大きく見開いてから、眉をひそめるような顔をした。
その表情に心が一気にくじけそうになってしまう。
「お話が、どうしてもしたくて……」
「俺は、その辺を散歩しているから」
気をきかせたライナスが再び馬に乗って去って行く。
ヒメネス公爵の隣にいるご令嬢が水色のドレスの裾を揺らして優雅に挨拶をしてきた。
「あなたがレティアさんなのですね。
はじめまして、私はエリーゼ・ラッセルと申します」
「はじめまして、私はレティア・ミルゼです……」
挨拶を返しながら、自分の服装が恥ずかしくて、かーっと顔が熱くなる。
「お話はフェルナン様から何度か伺っておりますわ。お会い出来て嬉しいです。
残念ながら、今日はこれからお茶会に呼ばれていて、もうそろそろ行かなくてはいけませんが。今度、ゆっくりお話をしましょうね。
では、ごきげんよう」
そう言うと彼女は一礼して、後方からやってきた付き添いの女性と合流してから、一緒に道を歩いて行った。
その背中が離れて小さくなるのを確認すると、ヒメネス公爵がこちらに向き直り、腕組みをした。
「で、話とは……?」
話を促す彼の瞳の冷たさに悲しくなりながら、昨夜の謝罪と弁解を言い始める。
「昨夜は……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
でも、私がライナスと抱き合っていたのは、恐怖に怯えていたからで、決して彼と特別な関係ではないんです!」
「それにしては、今も一緒のようだったが?」
不快そうに目が細められる。
「それは、偶然会って、ここまで送って貰っただけなんです。私がここまで歩いて来ようとしていたから…」
自分で言ってても嘘っぽい理由だが全部本当の事だった。
「なぜ私にそんな弁解を……?」
ヒメネス公爵が不思議そうにアメジストの瞳を瞬かせる。
「公爵様が……フェルナン様が……昨夜、私に男性を弄ぶなと、そうおっしゃったから、私はそんなことは一度もした事がありません!」
言っているうちによけい悲しくなって目から熱い涙がこぼれて頬を伝った。
「……怯えていたとは、どうして?」
「公爵様がミュール邸に来た時と同じように、怖い幻覚が見えて……それでルーゼが死神のように見えて……」
「つまり、私が君の屋敷に行った日に失神したのは幻覚を見たショックで……昨夜も同じような物が見えて恐怖でライナス・デリアに抱きついていたと、そう言う訳だね?」
公爵の言葉を肯定するように、コクコクと首を縦に振って頷き返す。
「首を絞められて殺されそうになってから、何度か幻覚を見るようになってしまったんです」
もうこうなっては、何もかも正直に打ち明けるつもりだった。
「確か、先程いたライナスの従兄弟に殺されかかったのだったね」
「ルーゼが助けに来なければ、私はその時死んでいました」
「わざわざその話をする為にここまで?」
「あなたに、誤解されたままなのが、何より辛くて……私はずっと、あなたを……」
そこで胸が詰まって、次の言葉を言うことが出来なくなり、変わりにポロポロと涙が溢れてこぼれた。
……と、頬にヒメネス公爵の手が触れて来て、指で優しく涙をすくい取られる。
冷たかったアメジストの瞳は、今は優しく温かみのある光を浮かべてこちらを見ていた。
「……レティア……私は、先ほどのエリーゼ嬢に今さっきプロポーズをして、受け入れられたところだ……」
「……えっ!?」
衝撃のあまり目の前が一瞬で真っ暗になる。
「それも、昨日、君がライナス、彼と抱き合っている姿を見て、頭が冷えたおかげでね。
君の美しさに目がくらみそうになっていた自分を恥じたんだ。
幼い頃から、レティア、君は大変な美少女で、愛しく感じると同時に、私は常に思っていた。
君を手に入れた男はずいぶん苦労をするだろうとね。
昔から私にとって君は決して手折ってはいけない花のように見えていた」
「そんなっ……!?」
……そこまで私の美しさは禍々しいものだというの?
「今、こうなってみると、これで良かったと思える。
私は、立場上、女性の事ばかり考えて生きていく訳にはいかないのだ。
正直、君と再会して、口づけしてから、私の頭の中は君の事ばかりで占められていた。
他に考えなくてはいけない事がたくさんあるのに……政治的に必要なエリーゼとの婚約もつい、引き伸ばしてしまっていた」
「……!?」
――やっぱり婚約が伸びたのは私のせいだったんだ。
「君の首を絞めたという男性の存在や、ルーゼ・ミュールの姿を見れば、君の虜になった男性の苦しみが見えるようだった。
私には到底、他人事のようには思えなかった。
君のお父上が再婚し、もう世話をする必要が無くなったことについても、とても寂しく思うと同時に、どこかほっとしていた。
……私は今週中には王都に戻る予定だ。
多忙な中、ラッセル家の別荘に来たのは、もちろん君の顔を見たい気持ちもあったが、一番の目的はエリーゼにプロポーズすることだった。
これからはもう君に会う機会もほとんど無くなるだろう……今日別れたら、もうしばらく会えないだろう。
だから、最後に、さようならを言わせてくれるか? レティア……」
あまりにも辛いヒメネス公爵……フェルナン様からの告白と、別れの挨拶だった。
けれどそれは同時にとても率直で真摯なものだった。
彼の誠意にこたえる為に、最後に自分の心の一番大切な想いを明かそうと思った。
「フェルナン様……。
私……あなたの事が、幼い頃から、大好きでした。
お慕いしてました……ずっと。
小さな頃から、顔を見られるだけで、笑いかけられるだけで、とても嬉しくて、心が舞い上がって……あなたの事ばかりいつも考えていました。
フェルナン様……今まで……ありがとうございました。
あの丘でして頂いたキスの思い出を……一生大切にします……!
……さようなら……」
そこまで必死に言うと、もうそれ以上は耐え切れなくなって、目を瞑ったまま夢中で走り出していた。
やはり一日遅れただけで、結局、あなたは私の手の届かない人になってしまった。
こんなに胸が引き千切れてしまいそうな悲しく辛い想いは生まれて初めてだった。
「レティア……!」
低く澄んだ大好きな人の声が最後に私の名を呼ぶのが聞こえた。
道から飛び出して、夢中で走って走って、そのうち足が絡まって、草原につっぷして、草の中に顔を埋めて泣いた。
そうしてしばらく泣きじゃくっていると、誰かが近づいてくる足音がした。
ひょっとしたらフェルナン様……ヒメネス公爵かもしれないと、ガバッと顔を上げて振り仰いで見ると、そこにいたのはライナスだった。
「大丈夫か? レティア」
ライナスの声は優しくて、見下ろすその青い瞳もあまりにも温かくて、涙が余計溢れて、流れてくる。
「……大丈夫なんかじゃ……無いわ!」
ひくつく喉でそう言うと、昨日と同じようにその広い胸の中に飛び込んで、叶わなかった初恋への想いに、ひたすらわんわんと泣き続けた。
――ひとしきり泣いた後、馬に乗って、帰路に着くことになった。
遠足に向かうようだった行きとは違い、帰りは葬式帰りのように暗い雰囲気だった。
「ライナス……ごめんなさい……今日はずいぶんな時間、つき合わせちゃって」
「好きでしている事だ」
そう、あっさりとライナスが何でも無い事のように簡単に答えるので、ふと、訊いてみたくなった。
「ねえ、ライナス、私ってそんなに不吉な感じ?」
「不吉?」
少し驚いた声で聞き返すライナス。
「好きになると、苦労しそう?」
考えるような間があった後。
「……そうかもしれないな」
と、肯定される。
(やっぱり、誰から見てもそうなんだ)
これも全部、息を吸うように男性を魅了する、という小説においての自分の設定のせいなのだ。
普通が良かった。こんな禍々しいスキルいらなかった。
ルーゼがおかしくなったのも、間違いなくこのスキルのせいなんだ。
胸の中が絶望的な思いで染まっていく。
「俺はでも苦労するのは嫌いじゃない」
遅れて、つけ加えるように、ライナスのきっぱりした声が響いた。
その言葉に急速に心が救われていくのを感じて、思わず背後から抱きつくと、彼の背中に顔を埋めてお礼を言った。
「ありがとう……ライナス」
そうしてまた道なき道を進んで行くと、再び遠くに自分が沈む予定だった湖が見えて、しばらくすると、今度は屋敷へと続く道が見えてきた。
「ライナス、お願い。あの丘のところで私を降ろしてくれる?」
「ミュール邸まで送らなくていいのか?」
とてもじゃないがまだ帰れるような状態じゃなかった。
「うん、いいの。歩いて帰れる距離だから……少しあそこで休んでいく」
ライナスは丘の上へと馬を回して、降りるのを手伝ってくれた。
「本当に、送ってくれてありがとう。……さようなら」
手を握ってお礼と別れを言ってから、再び泣きそうになる顔をライナスに見せないように、くるりと木に向き直る。
思い出の場所に立ち、自然と感傷的になっていた。
手を伸ばしがさがさとした幹に添えて寄りかかりながら、懐かしく思い出す。
ここでヒメネス公爵と最初で最後のキスをしたんだ。
つい先日の事なのに……なんだかとても遠く感じる出来事だった……。
そのまま顔を埋めるようにしくしく泣いていると、急に肩を強い力で掴まれ、身体をひっくり返された。
「あっ……」
「もう泣くな……」
帰ったと思っていたライナスの顔がそこにあって、目前に迫ってきていた……。
鼻先が触れるほどに近づいた瞬間、私は自然に目を瞑り、彼の唇を受け入れていた。
鍛えられたライナスの身体はどこも硬かったのに唇はとても柔らかい。
口づけを受けているうちに、気がつくと彼の首に腕を回し、自からもその熱い唇を求め続けていた。
今日他の男性に振られたばかりなのに、もう別の人とこんな風にキスを交わしている事が、自分でも信じられない。
お互いを激しく求め合うこんなキスは生まれて初めてで、触れた唇から熱く溶け合い混ざり合っていくような不思議な感覚だった。
――そうやってライナスと抱き合いながら夢中で唇を重ね合わせていたので、近くに来るまで、馬の気配に気がつかなかったのだ。
急に木の幹の陰から飛び出すような、蹄の音と馬のいななきが聞こえて、二人同時にはっと、顔を離した。
「レティア……姉さん……」
直後に横から聞き覚えのある声に呼ばれて、心臓が凍りつきそうになる。
「ルーゼ…」
すぐ右側の位置に、馬に乗って佇む義弟の姿が見えた。
昨夜のようにライナスに抱かれたまま見返したルーゼのエメラルドの瞳は、絶望にか狂気にか濁り、細かに震える凍りついたその表情は、恐ろしいまでに狂おしいものだった……。