第五話 「馬に乗って」
ヒメネス公爵はまだ婚約していなくて、ルーゼの様子は変なままで、世界は変質し、その空気は常に緊張を孕んでいる。
私の運命は一体どこへ向かっているのだろうか?
破滅? 死? ううん、そんなところへは絶対に行きたくない。
長生きしたい。
恋だってしたい。
差し当たってはヒメネス公爵の気持ちを確認しに行きたい!
などと考えながら朝食を食べていると、ふと、ルーゼ以外の誰かにも見られている感じがした。
顔を上げてみると、まじまじとこちらを見ている、父の視線とぶつかりあった。
「なあ、レティア、お前が変なのって、ひょっとして、あれか? 恋の病という奴か?
――いやな、実は、お前とデリア侯爵のご嫡男が、二人でテラスに消えたという噂を聞いてな。
それが本当ならお父さんは、非常に嬉しいんだがな」
でかしたというような父の眼差しが、私の顔に注がれているのを感じる。
何しろ父は娘をお金持ちに嫁がせたいのだ。
この王国屈指の大富豪であるデリア侯爵家に嫁ぐとなれば間違いなく大喜びであろう。
「そんな下らない噂が立っていたのですね。二人きりなどでは有りませんよ。
私とヒメネス公爵もそこにいたのですから」
特に「下らない」という部分を強調して、ルーゼが冷たい声で否定した。
「なんだ、そうなのか……」
目に見えてがっかりする父の顔。
私の発言を牽制するように、ルーゼがエメラルドの瞳をじっとこちらに向けて硬質の視線を送ってくる。
針のむしろに座っているような心地だった。
そこへ茶色の髪と榛色の瞳をした少しふくよかな義母のライザの穏やかな優しい声が響いた。
「あなた、がっかりする事はありませんわ。
レティアほどの美しい娘ですから、すぐに最高の貰い手がつきますわ」
「うーん、まあな。
だけど君の血筋でもあるデリア侯爵家のご嫡男とレティアとにご縁があれば、最高だと思ってね、ライザ」
「私も、それは嬉しいですけれど、ライナスはあまり女性に興味が無いと伺っておりますわ。
まだ17歳ですし、とにかく馬と剣にしか興味が無いそうです。
それよりも、昨日お会いした、ヒメネス公爵はいかがかしら?
レティアとはお似合いだと思いますけれど」
「ヒメネス公爵! あの方こそ女性に現を抜かしている暇の無い方だ。
それは容姿の上であればお似合いと言えるけれども。
中央の政治にも絡んでいらっしゃるから、ご自分の権勢を高めるような婚姻しか結ばれないだろう。
大方、昨日の舞踏会を主催されたウォールズ公のラッセル家のご令嬢エリーゼ様とでもご結婚されるのだろう。
それにレティアを赤ん坊の頃から知っているから、そんな気持ちにもならないだろうし。
万が一にレティアと婚姻などとは考えられない。
私もそこまで過大な夢は見ていない」
そう、父であるエドワード・ミルゼは意外と現実的な男なのである。
私の白金ブロンドにサファイアのような瞳と美しい顔立ちは父譲りで、40がらみになった今でも父の美男子ぶりは健在だった。
様々な美しいご婦人と浮名を流しながら、結婚したのがこの見た目も性格も地味だが裕福な義母のライザであるという点からも、その手堅さが感じられる。
「父上も母上も、レティア姉さんは16歳になったばかりですよ。
結婚の話などはまだ早いです」
ルーゼはその天使のように美しい顔を不愉快そうに歪め、不機嫌な声で会話に口を挟めた。
「いやいや、ルーゼ……花の命は短いんだ。
そんな呑気な事を言っていては一番高値で売れる時期をあっという間に逃してしまう。
とにかくレティア、デリア侯爵家が主催する集まりには残らず出るんだ。
ライザ、お茶会に行く時は必ずレティアも一緒に連れて行ってくれ」
高値とかとても貴族とは思えない価値観を有するあたり、相当貧乏時代の苦労が透けて見える。
「わかりました。実は今日も午後からお呼ばれしていますの。
今話題に出たラッセル家のご婦人方もいらっしゃるそうよ」
つまり、あの黒髪の美しい令嬢、ヒメネス侯爵と婚約する予定だった方もデリア家に来るのだ。
ライナスに昨日のお礼を言いたい気持ちはあるけれど、恋敵の彼女と同席するのは正直辛いかも。
ここはなんとか断わりたい。
「ごめんなさい。お母様、実は、私、お茶会に出るよりも、したい事がありまして」
「まあ……それは何?」
「運動です!」
食事の席が一瞬、シーンと静まり返った。
「馬鹿な事言ってないで、お茶会に参加するんだ。
そしてライナス君に会ったら、よーく自分を売り込んで来るんだ!」
「行きたくないお茶会になど行かなくても良いではありませんか」
そこでルーゼが助け舟を出してくれた。
「そうね、気乗りしないなら、別の機会にしましょう」
義母も頷く。
父はなおも不満そうだが、どうやらこの流れだと今日も自由に一日過ごせそうである。
「姉上、私は午前中から夕方までの間、地所を見て回らねばなりません。
それからなら運動に付き合えますよ」
食後のお茶を飲みながら、頭の中で今日一日の計画を練っていると、ルーゼが話しかけてきた。
「大丈夫、侍女のフランに付き合って貰うから」
勿論、嘘である。
「……そうですか、くれぐれもあまり遠出しないように」
ルーゼの言い方にはあきらかに含みがあった。
ヒメネス公爵と丘でツーショットだった事をいまだに根に持っているのかしら。
とにかく、今日はルーゼはいないんだ。
いない間はこの無言の圧力というかプレッシャーからも解放される。
何より、ヒメネス侯爵に、心置きなく会いに行ける!
そして、公爵に昨夜の言葉の意味をきいて、もし聞き間違いじゃなかったら、長年のこの想いを告白しよう。
父は万が一にも婚姻などは有り得ないと言っていたけれど、少しでも希望があるなら、私は当たって砕けてみたい。
「あ、ルーゼ、出かける前に、服貸してね」
朝食が終わって席を立つルーゼに忘れないように声をかけておいた。
「……貸しますけど……本当に遠出は駄目ですよ。
近所だけにして下さい」
エメラルド色の瞳を細めて、ルーゼはくどいほど念押しをした。
「わかっているわ、ルーゼ!」
もちろん、これも、嘘だけどね。
朝食を終えて自分の部屋に戻ると、さっそく借りた短めのチュニックを着て長めのズボンの裾を靴下に入れて、あまったウエストをベルトでぎゅっと締める。
ルーゼは腰が細いみたいでそんなにウエスト余ってないけどね。
長ったらしい白金ブロンドを後ろで一本縛りにして。
よし、準備万端。
ルーゼが馬車で出かけるのを見届けると、私は侍女をスルーして、一人で屋敷の外へ飛び出した。
私は最近まで貧乏貴族だったのもあり、乗馬が全くと言っていいほど出来なかった。
だから会いに行くには馬車を頼むか、自分の足で行くしか無かったのだ。
家の馬車を使うと後でルーゼにばれてしまうから、ジョギングで会いに行くしかない。
体力も鍛えられるし、一石二鳥だよね。
問題は、場所だけなのよね。昨日行った別荘ってどの辺かしら?
昨夜は馬車に長時間揺られてたから、結構遠いのかも?
正直引っ越してきて2ヶ月ちょっとだからそんなに土地勘が無かったりする。
方向は確かこっちの方だと思うけど……などと考えながら走っていると、
「レティア!」
道を外れた方向から誰かに思い切り名前を呼ばれた。
声のした方向に視線を巡らせてみると、草原を走って来る騎上の影があった。
黒髪で背の高い、鞭のように鍛え抜かれたしなやかな身体付の男性――
「ライナス!」
私は立ち止まり、馬が近づいてくるのを待った。
黒の前裾が短く後ろの長い上着の裾を広げて、颯爽と近付いてきたライナスの顔は、驚きに満ちていた。
「昨夜の様子から君がとても心配で……朝から最短距離を走ってやってきたんだ。
しかし……なんて格好をしてるんだ。
その長い特徴的な金髪が見えなければ、とても君だとは思わなかっただろう」
ライナスのきりりとした目元に引き締まった口元を見返しながら、とりあえずまずは昨夜の謝罪をしなければ、と考えた。
「昨日は本当に迷惑をかけてしまってごめんなさい!
それから慰めてくれてありがとう」
長い金髪をばさっとしながら、ライナスに対して思い切り深々と頭を下げる。
「……そんな事はいいんだ。
ところで一体何事なんだ? ただの散歩にも見えないし」
「実は……」
私はヒメネス公爵に会いに行く為に昨日の別荘を訪ねたい旨をライナスに説明した。
「……走って行くつもりだったのか?」
「うん」
余程その無謀な行動がおかしかったらしい――ライナスは声高く笑ってから、爽やかな表情で言った。
「……しょうがない、送ってやるから、後ろに乗るといい」
「本当に! ライナス! ありがとう」
嬉しくて思わず声が弾んでしまう。さっそく馬の上に引っ張り上げて貰うと、視界が凄く高くなった。
ライナスってば本当に親切過ぎる。
「昨夜からライナスにはお世話になりっぱなしよね」
「いいんだ。こうして過ごせて、俺も役得でもあるし」
手綱を操り、同じ馬の背に乗っている背後の私を振り返りながら、ライナスが楽しそうな声をあげた。
私達が乗っているのは、筋肉の張りがあって、黒々と磨き抜かれたようなツヤのある馬体をした、とても美しく立派な馬だった。
「すごく格好いい馬ね」
「ああ、バルツィはうちで一番の駿馬だ。どんな障害物でも軽々越えるし、長距離を走っても全くへばらない」
「へー、凄いのね」
「君は乗馬は?」
「……やってみたいんだけど、習う機会が無かったの」
放蕩者の父の金遣いが荒いのもあって、凄く貧乏だったから……。
「じゃあ、今度俺が教えてやろう」
「本当に、ライナス? ありがとう」
そんなたわいない会話をしながら、ライナスのがっしりした腰に掴まりつつ、風を切りながら、どんどん流れて行く景色を眺める。
――ふと、遠くに青緑色に横たわる水面の影が見えた。
「ねえ、あそこの林の向こうに湖が見えるわ」
「ああ……寄って行きたいのか?」
「今日は急いでいるから遠慮しておく! ところで、この辺の湖ってあそこだけ?」
「そうだ、この辺の湖はあのローズ湖しかない」
ライナスが肯定する。
つまりあの湖が小説の中で私が一人寂しく沈んでいき、幻覚でも見た場所なのだ。
そう思った瞬間、胸の中に切ないような悲しいような痛みが走った……。
その後、広がる草原に連綿と続く丘や木々の間を通り抜け、ライナスは道なき道を行き、器用に馬を操りながら、最短距離で目的地へと向かって行く。
「そろそろ近い筈だ……」
ライナスのその言葉を聞いた瞬間――早くも私の胸はどきどきしてきた。
突然来ちゃったけど、ヒメネス公爵、別荘にいるかしら。
いなかったらまた出直さなくっちゃね。
馬ではるばるこうして来てみて分かったのだが、ジョギングだと相当辛い距離だった。
本気でライナスに乗馬を習って、次は馬に乗って来た方がいいかもしれない。
草原からやっと馬が道の中へと入って行った。
……と、少し進むと、道の向こう側から、ちょうどこちらへ歩いて来る二人連れの姿が見えた。
銀髪にスラリとした長身――遠くからでも、その人の姿だけは見分ける事ができる。
そう、間違いなく、こちらに向かって歩いて来ているのは愛するヒメネス公爵だった。
――私は自分の胸がいよいよ期待にか、愛しさにか、苦しい程に高鳴るのを感じた……。