第三話 「湖のほとり」
目を覚ますと、室内には明るく優しい、朝の陽射しに満ち溢れていた。
「ん……っ……」
ぼーっとした頭のままベッドから身を起こし、自分のいる場所を確認するように、周りをゆっくり見渡すと――光に溶け込みそうな程まばゆい少年――ルーゼが、窓辺に立ってこちらを振り返える姿が見えた。
「おはよう……姉さん、気分はどう?」
そうか、私……突然、幻覚が見えて、ショックでそのまま倒れちゃったんだ。
多少頭はぼんやりしているが、気分はそんなに悪く無かった。
「え……と、もう大丈夫みたい」
「本当に? 昨日はあんなに取り乱した上に倒れたから、心配したよ姉さん……」
ルーゼが言う通り、意識を失う前の自分は、酷く混乱していた覚えがある。
ヒメネス公爵もさぞやびっくりした事だろう。
「ごめんね……心配かけちゃって……」
「……きっと、殺されかけた時に受けたショックがまだ残っているんだよ」
確かにそうなのかもしれない。
思っている以上に、首を絞められて死にかけた事や前世の色んな記憶が、精神状態に影響を与えているのだろう。
だから昨日もあんな訳の分からない映像が見えたんだ……。
「……そうね」
「うん、心の傷が癒えるまで、ゆっくり休んでいた方がいい。
私がずっとつきそっていてあげるから」
思いやり溢れた言葉を紡ぐ、その穏やかな天使のような顔を見つめながら、つくづく思う。
昨日はなぜあんなにルーゼの顔が怖く見えたのだろう。
彼はこんなにも優しく、献身的なのに……。
とにかくルーゼにこれ以上心配をかけないようにしなくては……と、思い立つ。
「……ルーゼ! とりあえず、私」
「うん」
「今日も走ってくる!」
その瞬間、ルーゼの肩が目に見えてがっくりと落とされた。
「なんでそうなるの? 出来ればベッドで休んでいて欲しいんだけど……」
「閉じ籠っていたらますます嫌な事考えちゃいそうだから。
身体を動かしてすっきりしたいの!」
我ながら正論を吐いているつもりである。
「はぁっ……でも、昨日みたいに一人で出かけるのは駄目だよ。一緒に着いて行くからね」
「私に着いてこられるなら、別にいいよ!」
ニヤリ笑ってみる。
「……さすがに姉さんよりは、体力あるよ」
ルーゼは苦笑いした。
「あっ!」
そこで、大切な事に気がつき、思わず声をあげる。
「なに?」
「昨日、着た服は汗くさくなったから、新しい服を貸してくれない?」
「……そんな事か、もちろん、いいよ」
その時、ルーゼがふわっと、光がこぼれるようなまぶしい微笑を浮かべた。
思わず見とれながら、やはり天使みたいだと私は思った。
朝食を終えるとさっそくルーゼと一緒にジョギングに出る事にした。
軽いストレッチをしてから屋敷の前を通る田舎道を並んで走って行く。
走りこんで気がついたのは、この身体、スタミナがあまりにも無さすぎる。
これは毎日走ってよーく鍛えないと!
一方、ルーゼは意外と体力があるみたいで、涼しい顔でずっと横について走っていた。
ジョギングを終えて屋敷へ戻るともう昼で、家族で食卓を囲んでの食事が始まった。
その席で父が言った。
「レティア、昨日ヒメネス公爵が、舞踏会の招待状を持ってきて下さったんだ。
何でもこの近くにある知人の別荘に滞在されていて、そこの奥様が大変な集まり好きだそうだ」
「まあ……そうなんですか」
答えつつ、胸に暗澹たる想いが広がっていく。
その知人のお宅の令嬢が、他ならぬ彼の未来の婚約者である事を知っていたからだ。
小説通りであればその舞踏会で正式に彼の口から婚約の事実を告げられ、失恋した私はルーゼの胸を借りて一晩中泣き明かすのだ。
つまりこの舞踏会が一つの恋の終わりで始まりにもなる。
正直いうと病欠したい。
だけどこれを避けても、ヒメネス公爵が婚約するという現実は変わらない。
ならば逃げずに立ち向かわないと……。生き残る為には強い心を持たなくちゃ。
この地方の有力な貴族はルーゼが継いだミュール伯爵家と、ライナスが継ぐ予定のデリア侯爵家の両家だけだった。
二つの家の領地は隣あい、親戚関係でもあり、付き合いも頻繁だった。
特にデリア侯爵家は温泉に保養地の開発と経営も行っていて有名で、それを目的にこの土地に滞在する貴族が多かった。
人が集まっている分、社交の場も広かったのだ。
昨日、久しぶりに再会したヒメネス公爵は、基本的に普段はご自分の領地にあるお屋敷か、王都に構える町屋敷のどちらかに住んでいる。
所領も持たない貧乏男爵であったお父様が再婚するまで、私達も王都に住んで、ヒメネス公爵が所有する家の一つを間借りしていた。
お父様がやたら公爵様の前で腰が低いのも、今まで散々世話になってきたからだ。
それにしても舞踏会か……婚約の話は聞きたくないけど、身体を動かすのが好きだから、いい気晴らしにはなるかもしれない。
酒類もあるし、失恋のやけ酒でも煽ってやろうか。
「行くんですか? 姉さん」
「お世話になったヒメネス公爵様からのせっかくのお誘いだもの」
「そうですか……では、私も行きます……」
ルーゼのその返事も合わせ、ここまではほぼ小説通りに事が進んでいる。
しかし一つだけ絶対に変えなくてはいけない筋がある。
そう、ルーゼの胸で決して泣いてはいけないという事。
死ぬ運命を回避するためには彼と恋をはじめる訳にはいかないのだ。
――かたく心に決めて迎えた舞踏会当日の夜――
新品の青いドレスを身に纏い、馬車に揺られる事、数時間――私はついに会場前に降り立った。
「さあ、入りましょう、ルーゼ」
「姉さん、声がかすれてるよ。
中に入ったら、まず何か飲み物を取ってくるね」
どうやら緊張で喉がからからになっていたらしい。
それにしてもルーゼは本当に気がきく。
建物内に入るとすでに中は華やかな装いの招待客で賑わっていた。
規模からみて主催者であるこの別荘の持ち主はかなり顔が広いようだ。
飲み物を取りに行く黒の上衣を着たルーゼの背中を見送ると、私の目は自然にヒメネス公爵の姿を探し始める。
するとさっそく美しい黒髪の女性と談笑する、丈の長い光沢のある水色の上衣を纏った優雅な様子のヒメネス公爵の姿を見つけてしまった。
ああ、駄目だ。
私は ズキンと痛む胸を抑えた。
心の準備をしてきていても……やっぱり辛い。
彼の口から彼女を紹介されたくない。
事実は変わらなくても、その口から直接婚約の二文字を聞かされたくないのだ……。
現に二人が一緒にいる姿を顔を見るだけで、もう視界が涙で滲みだしていた。
こんなんじゃ駄目だと分かっているのに。
この場から逃げ出したい気持ちとただ泣き顔を他人に見られたくなくて、両手で顔を覆い、気がついたら足がテラスの方へ向いていた。
向かっているうちに、誰かが追ってくる気配に気がつく。
早くもルーゼが飲み物を持って戻ってきたのだろうか。
駆け込むようにテラスに出たとたん、誰かに腕を掴まれる。
振り返ると――そこにいたのは黒髪と青い瞳をした男性――ライナスだった。
「どうしたんだレティア……泣いているのか?」
ああ……私はなんて運がいいんだろう。
ルーゼではなく、ライナスが来てくれるなんて。
そうだ、目の前のこの精悍な顔をした素敵な男性の胸を借りよう。
ライナスは他の男性と違って、私にこびたりご機嫌を取ってきたりしないので、信用が置ける気がした。
「ライナス……ああ……ライナス……私失恋してしまったの!」
彼の胸に中に飛び込むと、堪えていた悲しみが一気にどっと溢れ出た。
「レティア……君が失恋……そんな事が起こり得るのか?」
ライナスが心底驚いた声をあげる。
「私その人の事がずっと好きで、大好きで……でもずっと分かっていたの、自分には決して手が届かない人だって……」
身分も低く貧しい貧乏貴族の娘だったし、フェルナン様はいつも妹か娘のようにしか接してくれなかった。
あの熱いキスだけが、奇跡みたいなものだったのだ。
ライナスは私の背中に腕を回し、優しくるむように身体を受け止めてくれた。
「俺の胸でいいなら、幾らでも貸すから、好きなだけ泣くといい……」
思いやりに満ちた言葉に甘え、彼の広くて硬い胸に顔をうずめ、しゃくりあげ始める。
ライナスが慰めるような優しい手つきで髪に触れてきた。
「レティア……可愛そうに……」
――と、慰めの台詞を耳にしたのと同時だった――
「……!?」
急に喉からうまく息が吸いこめなくなったのは――
えっ?
何が起こったの?
混乱しながら手で喉を押さえる。
息が苦しい。
溺れている訳でも首をしめられている訳でも無いのに……。
混乱しているうちに視界がぐるん回って、先日と同じく目の前に違う風景が……映像が浮かび出す。
青白き月光の中に浮かびあがる湖面と、誰かがそのほとりに立ち、私を横抱きにしている光景……。
「どうしたレティア?」
異常に気がついたライナスが私の両肩を掴み、揺すってくる。
訊かれても、自分でもなぜこんなものが見えるのかはわからない……。
一度死にかけた私には予知能力のようなものが身についている?
違う。これはただ脳に浮かんだ意味の無いものだ。
ルーゼの言うように神経質過敏になっておかしくなっているのだ。
幻覚の中で横抱きにされている私が死人のように蒼白な顔をしているのも、ピクリとも動かないのもきっと気のせいだ。
「可愛そうに……可愛そうに……こんなになって……」
誰かの声が聞こえてくる。
――そして結局、私の身体は水底へと沈んでいく。
深く深く。
そこは真っ暗で冷たく寂しい。
「ああああああああああっ……」
「レティア! しっかりしろ!」
喉にやっと空気が通り、急にさーっと視界が開けたようになると、目の前に力強い光を浮かべる青い瞳があった。
そこに宿る強い生命力に縋るように、気がついたら叫んでいた。
「私死にたくない!」
両目から溢れ出した涙が次々頬を川のように伝っていく。
上から力強いライナスの声が返ってくる。
「君は死なない」
「本当に、本当に?」
「……ああ……俺が守る」
「ライナス……」
そのままライナスの広い胸に顔を埋め、ひたすら自分の胸の中の不安と恐怖を涙にして流した。
彼の胸は温かく、とても安心出来る感じがした。
温かい大きなその手が何度も何度も私の髪を撫でていた。
――その時だった――
「姉さん……」
不意にテラスの扉側から声がした。
顔を上げて視線を向けると、ゆらっとルーゼが飲み物を持って、よろめくように歩いてくるのが見えた。
「誰と、何を、しているの? そこで?」
義弟の顔は酷く蒼ざめ、身体は小刻みに震え、エメラルドの瞳はいつもの輝きを失い、闇のようなもので濁っているように見えた。
なぜ、そんな様子で歩いて来るのルーゼ?
――まだ出会ってから二ヶ月しか経ってないのだから――私達の間には色恋など始まっていない筈なのに。
なぜ、そんな思いつめた怖い目でこちらを見ているの?
まるで私の首を絞めあげてきたロウルと同じような恐ろしい目付で……。
瞬間、ストンと先ほどの予知のような映像と、その表情が合致した。
――間違いない、そうなのだ……私を……殺すのはルーゼなのだ。
だから昨日もルーゼの顔を見た時にあんなに恐怖を感じたのだ。
闇のような濁ったもの……それは明らかな狂気を孕んだ瞳だった。