第二十話 「物語の真実」
「始めに断っておくが、これは確定診断ではない。
ただ、以前から私は君の病気についてある可能性を考えていて、その疑念が今回さらに大きくなった。
最初の診察の時に身体的なものから精神的なものまで、幻覚の原因が複数考えられると言ったのを覚えているか?」
「ええ、覚えているわ」
震える私の手を握っているルーゼの手により力が込められた。
「実は幻覚の症状などは、精神異常が無かったとしても、ある箇所に疾患を抱えている場合は、よくある症状なんだ」
「疾患?」
「君の場合、朝に頭の症状が出る事などから、特に脳の病気を疑うべきだろう」
「脳の病気?」
それは今まで考えてもみなかった可能性だった。
「つまり、脳の中に出来物などが出来ていて、その影響で頭痛や幻覚が見えるという事だ」
「あ……」
脳腫瘍という事?
「レティアが……脳の病気?」
隣にいるルーゼも酷く動揺したようで、声がかすれて、呼吸が乱れ早まっている。
「ミュール卿の話によると、そのロウルに首を絞められたのと同じ頃から、君の性格も少し変わったようだね。
脳の病気に侵された者には性格が変わるという症状はよくある事だ」
――そう言われても納得出来無い。
「でも……脳の病気なら、なぜルーゼが傍にいると、頭痛が止むの?」
「それが人の思い込みの力の凄いところだ。
君は病の痛みをミュール卿がいるだけで自己暗示の力で抑える事が出来るのかもしれない」
自己暗示? 確かに私の中にはルーゼといれば安心だという思い込みはあるけれど……それだけでは説明がつかない。
「予知についてはどう説明するの?」
「脳というのは謎が多い器官でね。
私が会った患者にも脳の異常により霊感のようなものが備わった者がいた。
それに関しては私の専門外なのでなんとも言え無いが……」
霊感? そもそも予知自体が脳の病気により得た能力だという事?
サジタリウスの口から次々吐かれる恐ろしい言葉に、身体がぶるぶると震え出し、止まらなくなる。
「……もし、そうなら……私は……これから……どうなるの?」
「……外科的な処置――手術を行う事も出来るが――危険が高い上に成功率が非常に低く、助かるよりも却って命を縮めた例しか私は知らない。
まだ君が脳の病気だとはっきりは言い切れないし、そうであっても、すぐに死にいたる種類のものか、正直なところ私にも分からない。
脳に異常を抱えたまま数十年生き長らえ、天寿を全うする者もいれば、瞬く間に亡くなる者もいる。
その場合、私に出来る事は残りの君の人生から出来るだけ痛みを取り去る事だけだ……」
サジタリウスの言葉は途中から私の耳に入らなくなった。
私があと数十年生きられるとはとても考えられなかったからだ。
――それは物語の中で自分が自殺した明確な理由――小説では描かれなかった真相が、初めて暴かれた瞬間に思えた。
自分が逃れたかった苦しみは失恋の痛みでは無く、病の苦しみと目前の逃れられない死への恐怖だったのではないか?
そう考えると、今までずっとおかしいと思っていた謎の部分が簡単に説明出来てしまう。
正体不明の頭痛や幻覚の正体、なぜ私がこれから湖に入っていくほど追い詰められていくのかという一番の謎までもが……。
自分は決して、失恋のあてつけで死ぬような性格では無かったし、幻覚による心の病やノイローゼも、サジタリウスと出会い、生きる勇気を得た今は有り得ない。
残された理由は、死ぬよりも生きている方が辛いほどの苦痛がその身を襲ったという可能性だけではないか?
ルーゼと離れた時に感じる頭の割れるような頭痛の正体が病の進行具合を示しているのだとしたら――自分の状態はもうかなり悪い。
そうして、それが限界まで悪化して末期を迎えるのが19歳の時なのでは……?
つまり私の死は回避出来る種類のものではなく、必ず死に至るようなものだったのではないか。
あまりにも残酷な現実と我が身の絶望的な状況に――激しいめまいを覚えて気が遠くなる――身体がぐらりと倒れていく感覚を最後に、意識が闇の中へと飲み込まれていった……。
――再び目を開くと薄暗い視界に、見慣れぬ天井が映っていた。
視線をめぐらすと、傍らの椅子に座って私の手を握りながら不安気な顔をこちらに向けているルーゼの姿が見えた。
「レティア……目覚めたの?」
「……」
自分が今いる場所が王都の屋敷で無いという事は、サジタリウスから受けた宣告は夢では無かったのだ。
激しいショックに私は口もきけなくなっていた。
しばらくして、急に扉が開き、サジタリウスが部屋へと入ってきた。
「……意識を取り戻したようだな……レティア。
――ミュール卿。少し二人きりにしてくれるか?」
ルーゼは素直に椅子から立ち上がり「レティア……私は廊下にいるからね」と静かに声をかけて、部屋から出て行った。
二人きりになると、重い空気を破るように、サジタリウスが口を開いた。
「……かなりのショックを与えたところを見ると……君にも思い当たる部分が多かったのだろう。
実は君の診察を始めた初期の頃から脳の病気を疑っていたが、今まで告げなかったのもそれが理由だ。
病の進行状況というものはその精神状態がとても影響を与えるからね」
いつだかサジタリウスが頭部を念入りに調べていたのはそのせいだったのだ。
「出来ればもっと遅くに知りたかったわ……」
彼にならって正直な感想を述べる。
「……もっと遅く……残りの時間が少なくなってから知った方が良かったと?
私は二つの理由をもってそれに反論する。
一つは生きる気力と戦う意志が君の生命をより長らえる事。
二つには、知らないで漫然と残された時間を生きるより、明確な目的意識を持って生きるほうが有意義だと思うからだ」
サジタリウスのその台詞は酷く傲慢に聞こえて、私にヒステリックな衝動を起こさせた。
「目的意識? ……この上、まだ……私に戦えとでも言うの?
未来が予知できているこの私に!?」
「そうだ、その通りだ」
強く言いながら、サジタリウスが私の手を掴み、固く握り締めてきた。
「いいか、レティア、人の死とは必ず訪れるものだ。
結局のところ、それは早いか、遅いかだけの差だ。
生命の長さが人によって違うのはあまりにも不公平な神の采配によってのみ決められているように思える。
だが、それに抗う事は出来る。
現に私は強い意志によって死の運命を覆して来た者を幾人か見た。
諦めずに生きて戦うんだレティア。
予知や病気などは関係ない、君の生命は君の物だ!」
私の生命は私の物?
「残りの寿命を嘆いていたところで、確実にその日はやってくる。
今の君なら一時、一時の大切さが身に染みて分かる筈だ。
こうしてベッドに横たわり嘆く時間すら惜しいと思わないか?
君はまだ生きているんだ。レティア。
君が生きる事を望んで諦めない限り、私も全力で君を支えるし、最期まで君の生命を諦めずに戦うと誓う!」
――たしかにこうして嘆いていたところで死は確実に迫ってくる。
どう過ごしても同じならばせめて、残りの最期までの時間を、大切に生きるべきだろう。
「だけどそんな事言われても私は怖い!」
叫びながら激情とともに熱い涙が吹き零れるてくるのを止められなかった。
サジタリウスの握る手の力は強く、振りほどく事すら許されない。
「怖いのは君が生きているからだ。
死んだ後は無痛だ」
「……!?」
「多くの者が辛い人生を投げ出し、自ら死を選択するのはそのせいだ。
君が辛いのは生きているからだ。
死は怖いものではない。
むしろ怖いのは生きている事なのだ」
「……死は怖くない?」
そう呟いた刹那、私の脳裏に浮かんできた映像は、やはりローズ湖の静かな湖面だった。
その風景を初めて見た時に感じた眠る前のような穏やかな気持ちは、全ての苦痛から解放された後の永遠の安らぎを象徴していたのかもしれない。
確かに今一番恐れているのは、死ぬことよりも最期の自分の苦しみと自分がこの世からいなくなる恐怖なのだ。
だけど幾ら説得されようと今度ばかりは無理だ。
サジタリウスになんと言われようと、心を奮い起こして、病と戦おうなんて気には、どうしてもなれない……。
私はそこまで強くない!
屋敷へ帰ると、夕食を取る気力も無く、倒れこむようにベッドへ身を横たえた。
ルーゼも蒼ざめた顔をしていたが、健気に声をかけてきて、私を元気づけようとしてくれていた。
「あくまでも一つの可能性の話だし……もしそうであっても、死ぬような種類のものでは絶対に無いよ。
レティアはこんなに元気なんだから、何十年だって生きられる!
私だってずっと傍にいるし……痛みだってサジタリウスが取ってくれるし」
「……」
私だってルーゼの言うように大丈夫だと思いたかった。
思えばロウルに殺されかかって以来、襲ってくる残酷な事実に、何度も何度もこの胸が引き裂れてきた。
しかしその全てが、今日新たに分かったこの真実よりはずっとマシだった。
すでに自分が脳の病気である事は、疑いようもない事実に思えていた。
そう考えると、突如、抗えない真っ黒な死の渦の中に巻き込まれていくような不安と恐怖が胸に広がる。
絶望的な死の運命に飲み込まれるのが怖くて、思わずベッドに座っているルーゼの身体に必死にしがみついた。
「ルーゼ、怖い……私の身体を捕まえていて!」
「レティア……」
怯える私を守るようにルーゼの両腕が身体に回され、力強く抱きしめてくれた。
「……お願い……ルーゼ……今夜はずっとこうしていて……」
「……大丈夫、決してあなたを放しはしないから……今夜だけじゃなく、これからは毎晩、あなたをこうしてしっかり腕に抱いて守りながら眠ってあげる。
絶対にどこにも行かせないし……勿論あなたの嫌な事は一つもしないよ」
彼の優しさと温もりが心に染みてきて、自然に目から涙が染み出してくる。
「……ルーゼ……ありがとう……」
優しく澄んだエメラルドの瞳を見つめ返し、柔らかな蜂蜜色の髪に触れ、その温もりに縋るようにより身を寄せては何度もしがみつきなおす。
ルーゼの温かな胸に潜り込み守られていてもなお、悲しみや恐怖が絶えずさざなみのように押し寄せて来てはこの胸を襲う。
今まで何度かルーゼを恨んだ事もあったけれど、それは全くの見当外れだったのだ。
誰に恋しようと病で死ぬ現実は変わらないのだから。
むしろ今となっては早くに殺されていた方が苦しみが少なかったと思える。
自分になぜそのような暗示が起こっているのかは分からないが、彼がいなければ、こうしている間も、頭の痛みにのた打ち回っていた事だろう。
そう、今はっきりと分かった。
ルーゼはこの世界が私に与えてくれた唯一の温情、生命の最期の時に与えられた、病からの苦痛を取り去る存在だったのだ。
おかげで今まで病気に気がつきさえもせず、心穏やかな日々を過ごす事も出来た。
それを思えばルーゼには感謝してもし足りない。
(そうだ……ルーゼがいて本当に良かった)
「レティア……大丈夫だよ……私がいつも傍にいるからね……」
今もどんなに彼の存在に心が慰められているかも分からない。
「うん……ルーゼ……大好き」
「私も……愛しているよ……レティア……心から」
私の体の震えを止めるように身体に回されているルーゼの腕に力が入り、滑らかな唇が合わさってきた。
その温もりに包まれながら、改めて彼は私にとって、今一番必要な存在なのだと思い知る。
いなくなるなんて考えられない……一人ではあまりにも残りの人生を生きるのは辛すぎる。
そう、まだ、リーネにはあなたを返せない……リーネには……。
――リーネ?
その名を思い浮かべているうちに、私はハッとしてベッドから跳ね起きた。
そう、この世界、物語の、根底にある、そもそもの重要な設定を思い出したからだ――
「レティア、どうしたの?」
突然の私の様子にルーゼが驚いて半身を起こし、目を見開いてこちらを見ている。
なぜすぐに思い出さなかったのだろう!
『ヒロインのリーネは人を癒す手を持った不思議な少女』だったのだ。
『リーネとルーゼ』はそもそも貧しく平凡な少女リーネが「癒しの手」によって奇跡を起こし、人生を大きく変えていく物語。
彼女によってたくさんの人の生命が救われていくという奇跡を、私は物語で読んで知っている!
リーネ・フォンデ!
その名はたちまちのうちに、私の中でルーゼを奪う存在から、残された唯一の希望を表すものへと意味を変えていく――
まだ諦めるのは――希望を捨てるのは早い――
リーネに会って、命を助けて欲しいと必死にお願いするのだ。
それが自分に残された、生き残る最後の可能性、たった一つの方法なのだから――




