第二話 「恋の闇」
「ルーゼ、ここよ!」
返事をしながら木の陰から姿を現し、遠く道の上に見える騎上のルーゼに大きく手を振る。
ルーゼは丘の上まで勢いこんで馬を駆り、制止させると睨むような目をこちらに向けてきた。
「こんなところでお二人で何をしていたんですか?」
「やあ、初めまして、君が若きミュール伯爵だね。
私は彼女の母方の親戚筋にあたるフェルナン・ヒメネスだ。
レティアとは久しぶりに会ったので、近況などを聞いていたんだ」
挨拶するヒメネス公爵の声は静かに落ち着いている。
とても直前まであんなに熱い口づけをしていた相手とは思えないほどに……。
「……そうですか」
相づちを打ちながらも、義弟のエメラルドの瞳は疑うようにすーっと細められていた。
「取り合えず、屋敷へ帰ろうか」
――と、ヒメネス公爵が私の方に手を伸ばしかけたとき、ルーゼが声を荒げる。
「姉さんは私の馬に乗って!」
なんて無作法な態度だろう。
むっとしたものの断ると面倒くさそうだったので、しぶしぶルーゼの馬に乗せてもらって屋敷へ戻った。
――ヒメネス公爵を連れて帰宅すると、既に屋敷には先客がいた。
居間に入ると、床に膝をついてうなだれている長身の人物の姿が見える。
扉を開けたとたん、はっとしたようにこちらを見たのは、黒髪と青い瞳をした青年。
でも彼は昨日私の首を絞めた男性ではない――
「ライナス!」
「昨夜は従兄弟のロウルが大変申し訳ない事をした」
彼はこちらに向かって深々と頭を下げた。
背が高く、鞭のように鍛え抜かれた肉体が上等な衣服の上からでも感じられる。
凛々しい目と美しく引き締まった口元をした、剣と騎馬の達人のライナス。
密かな私の理想の騎士。
「あなたが謝る事じゃないわ」
「俺がもっと見張っているべきだった……」
いつもキリリと顔を上げている彼が、今は俯き沈んだ表情をしている。
あまりにも彼らしくない様子に見ているのが辛くなる。
「お願いだから顔を上げてライナス」
気がつけば足が勝手に動いて歩み寄り、屈んでライナスの両手を取っていた。
「……レティア……」
そこへ後から部屋に入ってきたルーゼが靴音高く近づいてくる。
「姉はもう少しで死ぬところだったんです。謝ったぐらいで許されるとでも?」
「悪いのはライナスじゃないわ!」
「――っ! えらくムキになって庇うね?」
ルーゼの声は毒と怒りに満ちているようだった。
つくづく今日の彼は態度が悪い。
「何の騒ぎか分からないが、ひとまず落ち着いてみてはいかがかな?」
さらに後ろから入ってきたヒメネス公爵が鷹揚な口調で言った。
「これは、これはヒメネス公爵閣下! よくおいでくださいました」
場の空気を読まずに父が立ち上がり、ヒメネス公爵へと近づいていく。
ライナスは昨日私の首を絞めあげたロウルの従兄弟で、もっと言うならデリア侯爵家の跡取りだった。
一ヶ月ほど前にこのミュール邸で行われた晩餐会の席が初顔合わせで、義母が彼の父親と従兄弟同士と紹介された。
昨日の夜会もデリア侯爵家主催のものだ。
「ルーゼ、本人の私がもういいと言っているんだから、いいでしょう!」
「しかし、大切なあなたが殺されかかったという話が本当であれば、義弟君の怒りも当然だろう。
――ただし、彼に罪が無いというあなたの意見も正論だ。
やはり、本人の口から直接謝罪を頂かない事には、代理ではどうにもならないのではないだろうか」
「ロウルは……あいつは……今幽閉されています……精神状態がおかしくて、もう何を言っているのかわかりません」
ヒメネス公爵の意見に続いたライナスの説明を聞いて、予想以上にショックを受けてしまう。
私のせいなの? 誰かを好きになるぐらいで、そんなに心が病むものなの?
「それではもうどうしようもないな。ある意味そのようになったのなら、彼はもう罰を受けているも同然だろう」
そんなヒメネス侯爵の言葉に父も頷く。
「公爵閣下の言う通り、今回の話はこれで終わりにしよう」
ルーゼはその結論が気に食わなかったのか、怒りもあらわな表情で、音高く扉を閉めて部屋から出て行った。
続くようにライナスも父に伴われ、再度、謝罪の言葉を述べながら居間から出て行った。
二人きりで残されると、私はヒメネス公爵に弁解した。
「ルーゼは、いつもはもっと優しく穏やかな気質なんです」
「分かっているよ。あなたを守りたい一心なんだろう。彼はまるであなた専用の騎士のようだね」
公爵の言うとおり、確かにルーゼは出会ってからずっと私を傍で守ってくれている。
昨夜の絞殺未遂だってルーゼが相手を殴って助けてくれたうえ、その後も大きな騒ぎにならないように収めてくれたのだ。
こちらにたとえ非が無くても嫁入り前の娘として、醜聞は避けたいものだったから。
集まりの場で男性に言い寄られて困っているといつも助けてくれるし、ルーゼは1歳年下ながらとても頼りになる義弟だった。
加えてその蜂蜜色の髪とエメラルドの瞳をした甘く美しい天使のような相貌を見ると、「リーネとルーゼ」の中のレティアが虜になった理由も納得してしまう。
――だけど現在の私はどちらかというと年上の方が好きだった。
さらにいうなら目の前にいるヒメネス公爵が好き過ぎて辛かった。
今月中には婚約を発表して手が届かなくなるとわかっている人なのに……。
「なぜ、そんな瞳で見るのだ。レティア?」
「ごっ、ごめんなさい」
今の私はきっと目がハートになっていたに違いない。
恥ずかしさに、顔が茹で上がったみたいに熱くなる。
「そういう潤んだ目で男性を見ていたら、相手を勘違いさせてしまうよ。
貴方のように美しい人に想われていると勝手に舞い上がり、夢中になってしまったらどうするんだい?」
「私がこんな目で見るのはあなただけです」
聞こえないようにこっそり小さい声で呟いてみる。
「今なんて」
「なんでもありません! 今後は気をつけます」
「そうだね。気をつけた方がいい。冗談では色々済まなくなるから……」
――と、その台詞を聞いた途端、昨日のように突然視界がぐるんとした。
次の瞬間、目の前にいる筈のヒメネス公爵の顔が見えなくなる。
周囲はひたすら漆黒の闇。
何かをすするような不気味な音だけが響いてきて……。
その音にまじり、ぶつぶつ呟く誰かの声が聞こえてきた。
「だから言ったのに、あの時……あなたが悪い。あなたが悪い……」
どろっとした闇の中、一瞬、雲間から顔を見せた月が、窓から差し込み誰かの顔を照らしだした。
蒼白な顔でかっと目を見開くあの顔は――
「きゃあああああああああ」
「どうしたんだ? レティア」
ヒメネス公爵の顔が再び現れ、あたりは明るくなったが、私の心はまだ闇の中に囚われているようだった。
今見えた。一瞬だけど、はっきり見えた。
死んだように横たわる自分の顔が!!!
なんで、なんで、なんでなの?
ルーゼと恋しなければ、自分で死を選びさえしなければ、私は死なないんじゃないの?
なんでこんな映像が現れるの?
いきなり幻覚が見えてきたりするの?
悲鳴を聞きつけたルーゼが扉を開けて部屋の中に飛び込んでくる。
「姉さん、どうしたの!」
その美しい天使のような顔が果てしなく怖くて、気がつくと私は、再び喉が裂けるような悲鳴をあげていた。
そうしてそのまま視界が暗転していった……。