第十六話 「逃れえぬ運命」
そんなっ……あの幻覚はやっぱり、未来に起こる出来事……予知だったの!!
窓から差し込む月の光が、ストロボのように閃き、部屋の中の様子を可視化する。
眼球が、月光の中浮かび上がる私の足を高く持ち上げ血をすすっている人物の姿を捉えた。
口元を血で濡らした、線が細い能面のような顔――サジタリウス医師の助手クィンベルの姿を……!
そう、私を浚ってここに連れて来たのは彼だったのだ……!
室内は再び闇に閉ざされ、血をすする音と、クィンベルがうっとりと呟く声が響く。
「―-はぁっ……あなたの血はなんて甘いんだ……。
早く……もっとあなたを味わいたい……待っていて……今、灯りをつけるから。
この廃屋はカーテンが無いから、外から見られそうで嫌だったけれど……。
どうせならあなたの美しい肉体をじっくり眺めながら、そのきめ細やかな真っ白な肌を堪能したい……」
彼の言動から、この誘拐の動機が私への欲望を満たす為であるという事が分かる。
またしても私は忌々しい魅了スキルの呪いを受けているのだ。
全身が金縛りにあったようになって、呼吸すらも苦しく窒息死しそうだった。
衝撃の事実と、恐怖と混乱に血の気が引いて、気が遠くなり、今にも意識を失ってしまいそうだ。
これは悪夢だ。こんな事有り得ない。
誰か嘘だと言って。
全部夢なのだと、また幻覚を見てるのだと。
灯りをつけたランプが、私の頭近くの床の上にゴトッと置かれる。
らんらんと灯りに照らされた恍惚としたクィンベルの顔が、残酷にも私を見下ろしていた。
「ああ……レティア……あなたは罪なほど美しい……この姿を一目見た時から私はあなたの虜となった……。
いつしか二週間ごとにその姿を見られる事だけが……生きがいとなっていたんだ。
日ごとつのる押さえがたい自分の想いと欲望が怖くて……あなたに忠告したのに……油断して……隙を見せるから……こうなるんだ……。
……あなたのように美しい人は……もっと用心しないといけなかったのに……!」
ぞっとする表情で語りながら、私の頬を手でくるみ、顔を寄せ、唇を重ねてくる。
そのおぞましい口づけの間、目を閉じることも出来ない私は、ずっと視界を彼の顔で塞がれ続ける。
「……とろけるような唇だ……ずっとこうして触れてキスしたかった……。
サジタリウス様があなたに触れているのを見るたびに、羨ましくて、焦れた想いで気が狂いそうだった……!
完璧な婚約者と寄り添うあなたの姿に、ただの平民でしがない医者の助手の私の心は……絶望に打ちのめされていた……。
だけど……それも終わりだ……レティア……あなたはもう私の物なのだから……好きなだけ触れて……あなたを味わい尽くす事が出来る……まさに夢のようだ……!」
クィンベルは感極まったように叫ぶと、性急に上半身を覆う衣服を床に脱ぎ捨てた。
それはまるでこれから始まる残酷なショーの幕開けの合図のようだった。
一番恐ろしいのは、この状態で自身が無残に蹂躙されていく様を見せられ続けるという事だ。
――このままでは確実に私は肉体だけでは無く、精神も破壊されてしまう。
再び上にかぶさりキスしてきた彼は、私の服を引き裂きながらはだけていっては、あらわになった肌を、ねっとりとした手付きで撫で回す。
怖気を奮うような口づけと愛撫に、頭の中が真っ赤に染まっていく。
お願いルーゼ助けて……!
なぜ傍にいないの? 助けに来ないの?
早く私をこの悪夢から救い出して!
――そんな助けを求める私の心の叫びに呼応するようなタイミングだった――
――ドンッ――
激しくぶつかる衝撃音と、バラバラと鳴り響く足音。
続く、鈍い打撃音に――見る間にクィンベルの姿が横へと吹っ飛び、視界から消えていく。
変わっていつかのように目の前に現れたのは、蜂蜜色の髪を乱れさせ、エメラルド色の瞳を揺らした、取り乱したルーゼの蒼ざめた顔だった。
「レティア……レティア……ああ……レティア!」
彼は何度も何度も私の名を悲痛な声で呼び、ひっしと私の身を固く抱き寄せた。
包み込むように私を抱いたその身体から、押さえきれぬ感情の高ぶりが、激しい震えとして伝わってくる。
――ああ……やっと来てくれたのね……ルーゼ。
安堵の涙で霞んで、彼の輪郭がぼやけて見えた。
「全く、クィンベル、お前はなんて事を……!」
部屋の中から、サジタリウスの怒声が聞こえて来た。
「どうしてここが……?」
悲鳴のようなクィンベルの声が室内に響く。
サジタリウスは忌々しそうに弟子に対し言葉を吐き連ねた。
「……馬車の目撃情報を募り、その方角にある廃屋をしらみつぶしに調べて行ったんだ!
全く手間をかけさせる!
明かりをつけてくれたおかげと、別に部屋を借りていなくて助かった……!
住込みのお前だから、廃屋だと当たりをつけたものの……もし違っていたら、さらに見つけるのに時間がかかり、取り返しがつかないところだ……!」
懸命に私を探してくれていたらしい、ルーゼの髪はぐちゃぐちゃで、全身が汗で濡れたようになっていた。
「……レティア……もう……大丈夫だよ……大丈夫だからね……!」
腕の中の私に頬ずりしては、目尻や髪に口づけてくる、ルーゼの涙が顔に伝い落ちてくる。
いつもならこうして抱かれたら、たちまち心が安心感に包まれるはずなのに……。
こうして危機的な状況から救い出されてもなお、私の心は底なしの闇の中に落ちていくようだった。
身体的な危険が去ったとたん、新たに分かった真実が、私を打ちのめし始める。
――やはりりノイローゼでも思い込みでも無く、私が見た映像は未来に起こる出来事――予知だったのだ。
そして私はまたしても致命的な思い違いをしていた。
映像は可能性の一つでは無く、未来に起こる出来事を忠実に映し出していた。
証拠に、ヒメネス公爵といる時に見た幻覚は、何もかもが同じように再現された。
他の映像もその通りになるとしか思えない。
そして残りの二つはいずれも私の死を暗示している。
最期は湖の中に沈んでいくという生々しい感覚が、いずれもセットになっているものなのだ……。
つまり全ては、私の死は、逃れられない運命――宿命――
生まれ変わる前も生まれ変わっても、私は溺れて水の中で一人孤独に死んでいくことが決まっているのではないか?
だとしたら、どんなに必死に悲惨な運命を回避しようとあがこうとも、全ては無駄で無意味なのだ。
あまりにも過酷で残酷な現実に、心が引き裂かれてしまいそうだった。
――私の精神状態はクィンベルに誘拐されたその日から、一気にどん底にまで落ち込んだ。
寝室のベッドの中、うなされ、泣き叫んでは、ルーゼに抱きしめられる。
「死にたくない……死にたくない……助けてルーゼ……私を見捨てないで……!」
半ば錯乱状態で取り乱す私にたいし、ルーゼはずっと付き添って慰め続けてくれた。
「絶対に見捨てたりしない……あなたを死なせたりするものか!」
けれどいつか去っていく彼のその言葉は少しも私を慰めない。
――希望を抱いてはすぐに打ち砕かれる。
もうこんな繰り返しはうんざりだ。
私が一体何をしたというの?
なぜこんなに苦しませるの!
いっそもう一思いに楽にして欲しいぐらいだ。
こうやって最後には精神を破壊され、冷たい湖に沈んでいく。
この先にどんな救いがあるというのか。
愛している人を諦め、必死にルーゼに縋り、それでもやはり助からない。
そう分かっているのに、これ以上無駄にあがき続けて何になるの?
私は混乱状態が過ぎ去ると、今度は無気力状態になった。
起き上がるのも億劫で、毎日ベッドの上で塞ぎ込む日々。
横たわり、ぼうっと天井を眺め続ける。
「レティア……ごめんね……あなたの精神の不調を治したくて、王都へ来たのに……余計悪化させてしまった……」
視界にすっかり気力を失いぐったりした私の手を握り、涙を浮かべ悲しそうにこちらを見下ろすルーゼの顔が映る。
沈みきったエメラルドの瞳に、くしゃくしゃの蜂蜜色の髪。
美しい頬や唇からは血の気が失せ、憔悴しきった彼の方がまるで病人みたいだ。
私も、今度ばかりはどうしても浮上できそうになかった。
悲観的な気持ちが心を覆い、いつまでも晴れない。
私を心配し、心を痛めているルーゼの姿すらも恨めしく思える。
(ルーゼが予定通り、父様の再婚に反対してくれていれば、私もロウルに出会わずに済んだ……。
……予知能力も死の呪いも受けなかったのに……!)
考えれば考えるほど全ての不幸の元凶が彼のように思えてくる。
こんな風に辛そうな顔をしていても、どうせルーゼが死ぬわけじゃない。
彼はこの物語の主役の一人であらゆる祝福を受けた存在。
なのに私は呪われた悪役令嬢なのだ。
おまけに彼無しでは生きていけない身なのに、そのうち捨てられる運命!
自分とルーゼの境遇のあまりの不公平さ憤りを感じる。
羨ましい、恨めしい。
浮かんできた負の感情に、自分の手を握るルーゼの手を衝動的に、バッ、と振りほどいていた。
続けて背中を向け、視界からも頭かからも彼の存在を追い出しにかかる。
気が滅入り、顔も見たくない心境になる。
こんな嫌な態度では、予定より早くルーゼに捨てられるかもしれない。
そう分かっていても、もう彼にすがる事にすら疲れ果ててしまっていた。
所詮、ルーゼの悲しみや私への愛は一時的なもの。
いずれ彼は去っていき、私にはもっと救いようのない運命が待っている。
どのみちいなくなるならさっさといなくなればいい。
その方がむしろすっきりと諦めがつく。
いっそのこと彼の愛が自分から剥がれる前に、愛の絶頂の今、死んで悲しませてやりたいとさえ思えてくる。
誰の感情も大きく動かさないで死ぬより、ずっとマシではないか?
すっかり自暴自棄な気持ちになった私の口から、思わず呟きが漏れる。
「もう……死んでしまいたい……」
ひゅっと、ルーゼが息を飲む音が聞こえた。
「レティア……?」
「生まれてなんか来なければ良かった……」
両肩を掴まれ、強く揺すられる。
「……お願いだから、そんな事言わないで……私はあなたと出会えて本当に幸せなのに……!」
「嘘だ……ルーゼ言ってたじゃない……地獄だって……私だって地獄だわ……こんなの……。
今度生まれ変わったら……あなたのいない世界がいい……」
「……レティア……っ!」
動揺を示すようにルーゼの呼吸は激しく乱れていた。
「なんで……こんな世界に生まれて来たんだろう……」
短く、辛いだけの生涯なのに。
「……どうせ……死ぬ運命なら…早く死んで楽になりたい……」
無気力にそう呟いた瞬間だった。
「ふざけるな!」
怒りを含んだ叫びが、部屋の中に響き渡る。
とっさに声がした扉の方へ視線を向けると――そこに立っていたのは銀髪と紫の瞳、刃物のような鋭い眼光をこちらに向けた、サジタリウス・アルバーンだった。




