第十五話 「月光に照らされて」
「君達がいると知人から聞いて挨拶しに来たのだが……私が君に会う時はいつも間が悪い」
皮肉気な調子でヒメネス公爵が言った。
「閣下……お久しぶりです」
ルーゼが乱れた蜂蜜色の髪を直しながら身を起こし、振り返って挨拶した。
「婚約したそうだね。おめでとうレティア、ミュール伯爵」
「ありがとうございます」
ルーゼと一緒にお礼を言いながら、恥ずかしさのあまり顔が熱くなって発火しそうだった。
思わず公爵の顔を見ているのが辛くて俯いてしまう。
前回はライナスと抱き合っている時に、今回はルーゼとキスしている時に出会ってしまうとか。
ヒメネス公爵とは、そういう皮肉な星の巡り合わせの下にでも生まれついているんだろうか。
「閣下もラッセル家のご令嬢とご婚約されたのでしたね? 式はいつ頃なんですか?」
ルーゼは全く動揺していない様子で、麗しい顔に微笑を浮かべてすまし顔で会話をしている。
「それがなかなか思い切れなくてね……だけどようやく今、できるだけ早く式をあげようと思ったところだ」
な、なんだろう……凄く意味深な台詞に聞こえる。
「その際はぜひお祝いの言葉を贈りたいので呼んで頂きたいです」
前回に会った時とは大違いの態度で、ルーゼが愛想良く言った。
「勿論、喜んで招待状を送らせて貰うとも。
――君達はいつまで王都にいるのかな?」
「春までいます」
「では、またどこかの集まりで顔を合わせる機会があるだろう。
その時を楽しみにしているよ。
では私はこの辺で退散しよう――どうぞ二人で劇の続きを楽しんでくれ」
最後にそう言うと、ヒメネス公爵はシャッとカーテンを閉めて立ち去って行った。
「わざわざ挨拶に来てくれるなんて、閣下は相当レティアを気にかけているんだね」
呟くルーゼの言葉から多少の毒を感じるのは気のせいだろうか。
「ええ、私を赤ちゃんの頃から知っている方だもの……」
「――しかし……前から思っていたけど彼はサジタリウスと顔がえらく似ているね。
偶然にしては似すぎていると巷でも噂されているぐらいだ」
「血縁があるの?」
「さあ、分からないけど聞いた話によると、サジタリウスの母親はヒメネス公爵家で働いていた元使用人らしいよ。
今は隠居している同じく医者だった彼の父親とは容姿がまるで似ていないので、亡くなった先代公爵のご落胤と噂されている。
――なんて話をしたら、私もそこらの噂好きのご婦人みたいだね」
ルーゼははにかんだように微笑んだ。
一方、気になる話を聞かされた私は、公爵との再会のショックも手伝い、その後は舞台を観ていてもちっとも内容が頭に入ってこなかった――
噂が真実だとしたらあの二人は兄弟?
サジタリウス医師がヒメネス公爵の兄という事?
――などとぐるぐると考えているうちにその晩の歌劇の幕は下りていた――
そして前回の診察から二週間後。
今度はサジタリウス医師が助手のクィンベルを連れてミュール伯爵邸まで往診に来てくれた。
「調子はどうだい、レティア」
「少し朝方は頭が重い気がしますが、それ以外はすっかり良いです」
「そうか、朝方……」
サジタリウス医師の隣でクィンベルがメモを取る。
簡単な問診のあと、彼は私の頭部を重点的に診察し始めた。
向かい合って座った状態で念入りに頭を調べられている間、至近距離にあるサジタリウス医師の顔を見つめながら、私は昨夜ルーゼが教えてくれた噂話を思い出す。
「――寝る前にこのハーブを煎じたお茶を飲むといい。
今日は忙しいので、あまり良く診れないが、再来週の午後の時間を丸々取ろう。
私の自宅の診察室でもう一度、幻覚を見た際の状況を詳しく聞きたいのだが大丈夫か?」
「もう一度?」
「より細かく状況を理解して分析したいからね」
詳しく分析する事で、具体的な幻覚対策が見つかる可能性があるならお願いしたい。
「分かりました」
――診察が終了して立ち去る際――珍しく彼の助手が私に近づき、深刻な表情でそっと耳打ちしてきた。
「――あなたのように美しい方は、色々気をつけた方がいいですよ」
いきなり言われて意味が分からず、絶句してその線の細い顔を見返していると、
「クィンベル、どうした?」扉の近くからサジタリウス医師が振り返り、鋭い声をあげた。
「いえ、何でもありません! 今行きます」
あわてたようにクィンベルが扉へと駆けて行く。
退出していく二人と入れ違うように、診察中席を外していたルーゼが部屋に戻ってきて、おかしな表情をしている私に気がついたのか、問いかけてきた。
「どうしたの? レティア、何かあったの?」
「……うん」
鈍い返事を返しつつ、私はクィンベルに言われた言葉の意味を考えた。
気をつけろってことは警告されたのよね?
何に? 誰に?
「……何でもないわ。少し疲れてぼーっとしてただけ」
少し悩んだ結果、滅多なことも言えないし、私は忠告を受けたことをルーゼには伝えず、そのまま心の中に閉まっておくことにした――
次の二週間もごく穏やかに過ぎて行った。
いつもの日課や買い物に加え、ルーゼに頼んで以前住んでいた地域まで連れて行って貰い、昔なじみの友人や世話になっていた人を訪ねてお茶をしたり、懐かしい街並を散策したりして楽しく過ごした。
「では私は別室で本を見せて貰っているから」
再び訪れた診察の日、サジタリウス医師の自宅兼診療所を訪ねると、さっそくルーゼがそう告げて、前回のように部屋を出て行った。
助手のクィンベルによって部屋のカーテンが引かれ室内が暗くなる。
「では、目を瞑って、力を抜いて」
私は言われた通りに脱力して目を瞑った。
サジタリウス医師の静かな語り声が聞こえてきた。
サジタリウス医師の静かな語り声が聞こえてきた。
「今回はその時の状況を出来るだけ詳細に思い出し、頭の中に実際に近い映像を思い浮かべながら話して欲しい。
できたらその時の気持ちも合わせてね。
――では、始めよう……」
一呼吸置いてから、再びサジタリウスは言葉を紡ぐ。
「……君は、今、最初に幻覚を見た日に戻っている……その湖の映像を見る直前、君はどんな状況だった?」
私はその時の実際のシーンを思い浮かべながら説明した。
「フェルナン様と……ルーゼと一緒に屋敷に入ると、居間で跪いている人物がいて……。
一瞬ロウルかと思ったら、ライナスでした……」
「それで……?」
「ライナスがロウルの件で謝罪して……」
私はその後の状況を一部始終詳しく語った。
「つまりヒメネス公爵、彼の警告が契機になったのか……」
さらに次の幻覚の映像に到る前の状況もつぶさに思い出しサジタリウス医師に伝える。
「次の幻覚の前はそのライナスの同情の言葉がきっかけになったんだね」
「はい……」
そして、鏡でもう一人の自分の姿を見た時の事も同じように話して聞かせる。
「――鏡に映っていたもう一人の君は、実際の君の顔より青白かったという事だね?」
「はい、亡霊みたいに見えました」
「亡霊……か。つまり死んだ後の未来の君という訳だね」
その表現にはぞっとする響きがあった。
「話を総合すると、君の潜在意識には、自分が死ぬという思い込みがあるようだ」
「……思い込み?」
「つまり君の中には自分は死ぬ運命だという自己暗示があるという事だ」
――サジタリウス医師には話していなかったが、それはたぶん『リーネとルーゼ』の物語のせいだ。
小説の中でレティアが死ぬことを筋として知っているから、無意識に自分もその通りになると思い込んでいるのかもしれない。
「君は君自身に自分は死なないと、暗示をかけていかなくてはいけない。
さもなければ君はミュール卿や他の男性ではなく、自分自身の心によって殺されてしまう可能性がある」
「私が私の心に?
どうしたら自分にそんな暗示をかけられるんでしょうか?」
「焦らず時間をかける事だ。
今安定している状態なら、少しづつミュール卿と離れている事に慣れていくのがいいかもしれない」
「ルーゼと?」
「さて、今日はもういい時間だから、これぐらいにしよう」
「あ、あの」
「何だ?」
私は少し恥らいながら言った。
「トイレに行ってもいいでしょうか?」
長時間座っていたので限界だった。
サジタリウス医師は薄く笑ってから助手を呼んだ。
「クィンベル」
すぐにクィンベルがやってきて、私をトイレへと案内してくれた。
――そして用を済ませて出ると、扉の前で待っていた彼に声をかけられる。
「先にミュール伯爵が馬車に乗って待っています。
私に着いてきて下さい」
――もう外で待ってるんだ。
私は素直にクィンベルの後につき従い、裏口から外へと出る。
しかしそこにはなぜか御者が乗っていないうえ、ミュール家のものではない馬車が止まっていた。
「あれ、この馬車は?」
……と、不思議に思って問いかけた時、突然、背後から口元を布で覆われ、息を吸い込んだ直後、気が遠くなった――
――次に意識を取り戻したのは、何かトロリとした液体が喉を流れたとき――
周囲は真っ暗で、斜め上方から誰かが私を見下している気配はあるが、その顔は判別出来ない。
「ここは……」
背中の感触から固めの寝台にでも寝かされているようだ。
「目覚めましたか……レティア」
「あなたは誰? ここはどこ?」
私はガバッと勢い良く跳ね起き、首を左右に巡らし辺りを見渡した。
いつの間にかもう夜になっているようで、明かりの無い部屋にはひたすら暗闇が広がっている。
今しがた聞こえた声がルーゼのものではないという事に危機的を感じ、心臓の鼓動がドクドクと高鳴っていく。
意識を失う直前の状況を考えると、誰かに浚われたとしか思えない――逃げなくては!
そう判断し、弾かれたように床に降りて闇雲に走り出そうとした――次の瞬間だった――
バキッと、足の下で何かが弾けて壊れる衝撃音がして、裸足の足にガラスの破片らしき物が突き刺さった。
「痛っ!」
土踏まずから踵のあたりにまで激痛が走って、私は床に転倒する。
「あ……」。
すぐに起き上がろうとして気がついた――段々と身体が痺れ、うまく動かなくなってきている事に。
「やっと、飲ませた薬が効いてきたようですね」
「薬?」
暗闇の中、傍に誰かが屈みこむ気配した。
「手術時に使う、意識は覚醒しているのに身体が全く動かせなくなる薬ですよ。
今さっきあなたに飲ませたところです」
「な……んで、そんな……薬……を?」
床に縛りつけられたように転がって、質問の言葉を吐く。
謎の人物はそれに答えず、私の怪我した足を掴んで持ち上げた。
「あ……」
直後、足裏にぬるっとした舌と温かい唇の感触して――流れ出た血をすすられていることに気がついた。
「そんなのは、意識のあるあなたの身体を自由にしたかったらに決まっている……!」
「……ひっ……!?」
一体、今何が起こってるの?
――そこで、恐怖でカッと目を見開いたまま――私は完全に指一本すら動かせない状態になった。
「だから言ったのに、あの時……あなたが悪い。あなたが悪い……」
耳にしたその台詞には聞き覚えがだった。
どろっとした闇の中、一瞬、雲間から顔を見せた月が、私の視界に煌々とした光を投げかける。
その時、心臓が張り裂けそうな恐怖とともに気がついた。
間違いない――これはいつかヒメネス公爵といた時に見た幻覚と全く同じ状況であるのだと……!!




