第十四話 「サジタリウスとの出会い」
向かっている馬車の中でルーゼから、サジタリウスは庶民は診ない『貴族専用の医師』だという説明を受けていた。
別に王宮専属の御典医がいるにも関わらず、王にも呼ばれるような名医なのだと。
そこまでの医師なら、元の貧乏男爵令嬢だった自分なら、予約自体を断わられていたかもしれない。
そう考えると改めてルーゼに感謝したくなる。
呼び鈴を鳴らすと、扉を開けたのは薄茶の髪と水色の瞳をした線の細い青年だった。
なぜか彼は私達を見たとたん、劇的に瞳を見開き、とても驚いたような表情で固まった。
「予約していたルーゼ・ミュールだ」
ルーゼが声をかけると、我に返ったようにようやく彼は口を開く。
「お待ちしておりました、どうぞ中へお入り下さい」
建物内に入ると先に立って廊下を歩きながら、青年は振り返って自己紹介する。
「私はサジタリウス様の助手のクィンベルと申します。さあ、こちらの部屋へどうぞ」
通されたのは玄関からほど近い、診療室然とした部屋だった。
壁際には医療器具や分厚い本が並んだ棚が複数あって、中央に木のテーブルと茶色の革張りのソファーが置かれている。
「そこに座ってお待ち下さい」
言われた通りにルーゼと並んで待っていると、ほどなく部屋の扉が開いて、サジタリウス医師と思われる人物が入ってきた。
「やあ、久しぶりですねミュール卿、この前会った時はあなたが11歳かそのあたりの頃でしたね」
私は彼の姿を目で捉えた瞬間、思わずびくっとしてしまう。
「……!?」
銀色の髪に紫色の瞳の長身の男性――その姿が、一瞬ヒメネス公爵に見えたからだ。
しかしすぐにその顔立ちと雰囲気の差異に気がつき、すんでで名前を呼びそうになるのを、堪える事ができた。
「そちらがあなたの婚約者ですか?」
「はい、母のライザが再婚したミルゼ男爵の一人娘のレティアです」
「は、はじめまして、よろしくお願いします!」
サジタリウス医師はヒメネス公爵より多少色が薄い紫の瞳で、私をじっと見つめた。
切れ長の鋭い刃物のような目元で、面差しはヒメネス公爵に似た整ったものを、さらに冷たくした印象だった。
「これは……この世の者とは思えないような美しい婚約者殿だ」
観察するような冷たい視線からは想像できないような称賛の言葉がその口から漏れた。
「ええ、レティアは人並外れたこの美しさのおかげで災難にあってしまって……それ以来、とても調子が悪いんだ。
ぜひあなたのお力を貸していただけないだろうか?」
サジタリウス医師は私達とテーブルを挟んだ位置にある椅子に座ると、顎を撫でながら、頷いた。
「精神的な打撃を受けてできた心の傷が原因かもしれないな……それならばまずはじっくり話を聞く必要がある。
できれば二人きりでじっくりと長い時間をかけて……」
「レティアは、私と離れると不安がるんです」
「だが、ミュール卿、あなたの前では言いにくい事も色々あるだろう。
私を信用して今日は彼女を預けてくれないか?
後でミュール伯爵邸へと必ず送り届けるから。
精神的な病は肉体的なものより、診るのに時間がかかるんだ」
え? ルーゼに私を置いて帰れと、この人は言ってるの?
そんなのまた発作が起きてしまうかもしれないから困るんですけど!
「私、ルーゼが傍にいないと駄目なんです!」
「どう駄目なのか、そこの部分も観察する必要がある。
ミュール卿、もしも私を信用できないようなら、他を当たって貰うしかない」
ルーゼはしばし考え込むように無言でサジタリウス医師の顔を見てから、私の方へ切なげな眼差しを向けた。
「レティア……ここは従うしかない……私は屋敷で待っているから」
「待って……ルーゼ、置いて行かないで」
あわててルーゼを引き止める為に腕にしがみつく。
「あなたの為なんだ、レティア、ごめんね」
しかしルーゼは謝罪しながら私の腕を強引に引き剥がすと、椅子から立ち上がって出口へと向かっていった。
後を追おうとした腰を上げた私の肩を、向かい側からサジタリウス医師の長い腕ががしっと掴む。
「クィンベル、ミュール卿を玄関までお送りして。
レティア、座りなさい」
有無を言わせない厳しい口調だった。
ルーゼはいったん私を振り返った後、廊下へと消えていき、続いて退出したクィンベルが扉を閉じる。
残された私は不安な気持ちで椅子に座る。
静かな部屋に鼓動だけがやけにうるさく鳴り響いた。
「顔色が悪いな」
サジタリウス医師は私の顔をじっと見つめて呟いた。
相変わらず刃物みたいに鋭く冷たい観察者のような視線だ。
「最初は症状の話から聞こうか?」
まずはカウセリングから入るみたい。
私はなるべく今まで起こった発作の症状と幻覚の話を詳しく説明した。
その上で期待を込めて質問する。
「こういう幻覚を見ないようにする方法って何かあるんでしょうか?」
「それが起こる原因によるとしか言えない……まずはそこを探らないと」
次に身体を診察される事になった。
「やけに白い肌だな……」
今日は診察しやすいように前開きのドレスを着ている。
彼は乳房が見えるギリギリまで私の胸元を開くと、直接耳を当てて音を確認した。
この世界に聴診器はないらしい。
羞恥心で自分の顔がかーっと熱くなるのを感じる。
それからサジタリウスは私の頬に手を添え、もう一方の手の指で瞼を大きく開かせ、眼球を観察した。
その後は身体中を触診されることになった。
サジタリウスの手はひんやりと冷たく、白く長い指の大きな手で身体のあちこち撫で回されるたびに、肌がぞわぞわと粟だっていく。
まさに拷問に近いような時間だった。
やがて一通りの診察を終えると、彼は満足にそうに微笑んだ。
「いまの段階では原因は複数考えられ、断定するには至らないが、とりあえずこれで精神と身体、両方の基本的な情報は確認できた。
――ところで、今の気分はどうかな?」
そういえば今のところ発作は起こっていない。
「大丈夫です」
サジタリウス医師は「そうか」と呟き、考えこむような間のあと、口を開く。
「君が発作を起こした状況なんだが、そのライナス・デリアという男性といる時が一番多く起こっているという事だね?」
「はい……」
「たぶんだが、彼の外見的な特徴が君を害した従兄弟に似ていたりはしていないか?」
「あ……」
確かに二人は従兄弟なだけあって、ライナスが際立って高身長で体格差はあったが、黒髪に青い瞳のそっくりな容姿をしていた。
「次にヒメネス公爵、彼といた時の発作だが、やはりその前に、君はライナス・デリアに会ったりしなかったか?」
言われてみれば直前に彼の手を取って慰めていた。
「それらを総合すると、君の不調の原因に彼が大きく関わっているような印象を受ける」
――今までそんな風に考えたことすらなかった。
ロウルとライナスの顔は確かに似ているけれど、私には全く違って見えていたからだ。
「それとルーゼといると身体の調子が良くなる事についてだが、そのような現象はたまにある。
たとえば自分自身で暗示をかけている場合などだ」
「暗示?」
「思い込みの力というのはとても強いからね」
たしかに私にはルーゼを選ぶのが唯一の生き残る道だという思い込みがある。
「その暗示はどうやったら解除出来るんですか?」
「とにかく、君の根っこのストレス原因を取り除かなければ……さてと、今日はもういい時間だから、また後日改めて診よう。
精神が安定するハーブ茶を出しておくから、気分が悪い時は飲みなさい」
「ありがとうございます」
サジタリウス医師は再び顎を撫で、考え込むような仕草をしたのち、鋭すぎる指摘をした。
「しかし、君のその暗示を解除できて、もしもミュール卿がいなくても平気になったとすると、彼との婚約はどうするんだ?
君がそれを理由に彼と婚約したというのは私の考えすぎかな?」
「あ……」
ルーゼが必要なくなった場合……?
核心を突かれ、考え出したとたん、なぜか急に頭が重くなり、ズキズキと波打つように痛み出した。
「どうした?」
異常に気がついたサジタリウス医師が問いかけてくる。
「頭が……割れそうで……なんだか吐きそうなんです……」
「分かった。クィンベル!」
サジタリウス医師が大声で呼ぶと、助手のクィンベルがルーゼを伴って部屋に入ってきた。
「ルーゼ!」
屋敷に帰っていなかったんだ!
ルーゼは入室するとすぐさま私の傍に駆け寄り、両腕でしっかりと身体を抱きしめてくれた。
――とたんに心が安堵感に包まれる。
「レティア……大丈夫?」
「少し離れた部屋で待機して貰っていたんだ。
彼が遠くにいると君に思い込んで欲しかったからね。
……どうやら、君は本当に彼がいないと不調になるようだね……頭痛はどうだい?」
「はい、引きました」
「そうか……分かった。
また改めて経過などを見たいから、定期的にここに通ってもらう。
ミュール卿、それでいいだろうか?」
「わかりました。ありがとうございます」
「なるべく長く経過をみたいが、王都にはどれぐらいいるんだい?」
「春まではいようと思っています」
ルーゼが答える。
「そうか、ではそれまでは通って貰おう」
――帰りの馬車内。
診察ですっかり疲れ果てた私は、ルーゼの肩にもたれてぐったりしていた。
「診察はどうだった?」
ルーゼが私の肩を抱いて天使のように美しい顔を寄せながら訊いてくる。
「うん……あのね…」
私はかいつまんでサジタリウス医師と話したことをルーゼに説明した。
「そうか……実は私も、ライナスの事に関してそうかもしれないと思っていた。
だからあの婚約パーティーの時にも、二度とあなたには近づかないように固く言い含めておいたんだ。
ロウルとライナスはとても顔が似ているから、あなたの精神に悪いのは当前だもの」
……そうだったんだ。
私はあのあと意識が朦朧としていたから、ルーゼがライナスにそんな事を言っていたなんて全然知らなかった。
しかしサジタリウス医師は原因は複数考えられと言っていたけど、もしも精神的外傷が原因のノイローゼで、全てが私の思い込みや自己暗示よるものだとしたら……。
治療しているうちに症状が治まって、ルーゼなしでいられるようになるんだろうか?
もしそうなら、リーネが現れてルーゼが私から解放された時、私はまた別の人と恋を始めたりできるのかも。
そう考えた時に真っ先に思い浮かぶのはやはりライナスの顔だった。
その可能性がある限り、早まってルーゼと結婚しない方がいい。
治療の効果を見てから慎重に判断しなければ……。
幸い、この前の晩みたいにルーゼが身体を触ってきたりする事はもう無いだろうし。
のんびり王都での日々を楽しみながら治療を受け続けよう。
診察後、サジタリウス医師は二週間に一度、定期的に診てくれると言っていた。
王都は広く、色んなお店や娯楽施設、名所があるので、その間いくらでも時間を潰す事ができる。
運動好きの私の趣味を兼ね、王都の中央に位置する広大な公園を散歩するのが私達の日課になっていた。
公縁の中央の池にはたくさんの水鳥がいて、餌をあげるのが毎日楽しみだった。
「王都の暮らしはあなたに合うようだね。顔色がとてもいい」
「うん……」
ある日の夕食時、すっかり体調も精神状態も良い私を見てルーゼが笑顔で言った。
「今夜は観劇に行こう。ボックス席を取ってあるからね」
「うん、凄く楽しみ!」
その晩久しぶりに正装した私達は、劇場前で馬車から降りると、仲良く腕を組んで大きな建物の入り口へと入っていった。
劇場内は薄暗く、近くに寄らないと人の顔を判別できないほど。
ルーゼは顔見知りが多いらしく、知り合いとすれ違うたびに短く挨拶を交わした。
そうやって移動しているうちに結構な時間がかかってしまい、ボックス席に入るとほぼ同時に歌劇の幕が上がった。
「ギリギリ開始に間に合ったね」
「うん」
舞台を観る今の私の瞳はきっと輝いていると思う。
劇場に来たことは複数回あったが、こんな良い席で観覧するのは初めてなので嬉しくてたまらなかった。
舞台前には生演奏の楽団が並び、美しく華やかな衣装をまとった登場人物たちが次々舞台に現れ、台詞を歌に乗せていく。
演目は身分違いの二人の悲恋の物語で、合間に大胆なラブシーンが挿入されている。
その影響か、始まって少し経った頃、隣で私の腰に腕を回し劇を観ていたルーゼの身体がもぞもぞと動き出した。
「レティア……あなたに今凄くキスがしたいんだけど……いいだろうか?」
舞台を夢中で観ていた私は、少し迷ってから、頷いた。
「うん……」
同意を得ると、ルーゼは片腕を私の頭の後ろ側に回して抱えるようにシートに押し倒し、性急に唇を重ねてきた。
――そうして奏でられる演奏を背景に、彼に抱かれて、ひたすら口づけを受けている途中。
長すぎるキスに舞台の続きが気になって仕方がなく、私がこっそり薄目を開いた時、ボックス席と通路を隔てている緋色のカーテンがいつの間にか開いた状態になっていることに気がついた。
飛び上がらんばかりに驚いた私は、とっさにルーゼと自分の顔の間に手を挟めて、キスを遮る。
続けてシートから身を起こそうとしたが、ルーゼがの身体が重くて無理だった。
横になったまま瞳をこらせば、カーテンの隙間から暗い通路に立つ長身の人物の像がぼーっと見える。
どれぐらい自分達のキスシーンを見られていたのだろうかと思い、カーッと顔が熱くなった。
「また邪魔してしまったようだね」
――と、静かに話しかけてくる、その低く澄んだ声には聞き覚えがあった。
「……ヒメネス公爵様!」
「やあ、久しぶりだな。レティア」
挨拶しながらカーテンを割るようにして中へ入ってきたのは、銀髪にアメジストの瞳の端麗な顔をした、優雅な雰囲気の男性。
間違いなく私の初恋の人、フェルナン・ヒメネス様だった。




