第十二話 「ローズ湖にて」
婚約パーティーの翌日私は酷く塞ぎこみ、昼過ぎになってもベッドから起きあがる気力がなかった。
虚ろに天井を見つめて横たわりながら、次々襲ってくる衝撃の事実を思い、心がきしんで壊れそうだった。
ルーゼはベッドの傍らの椅子に座り、手を握ってずっと付き添ってくれていた。
「早く元気になって、レティア……」
献身的な義弟の美しい顔を見上げながら、私の心は絶望にささくれだつ。
なぜなら昨日の出来事で、私は重要な事実に気がついてしまったのだから。
そう、ルーゼがいないと駄目になっているこの自分が、未来で彼を失う可能性が高いという、より残酷な現実に……。
小説通りなら、彼はリーネが現れたら私の元から去ってしまうのだ。
そのあと私はどうなるのかと想像するだけで目の前が真っ暗になってくる。
終わらない死後の世界のような暗闇と悪夢に閉ざされた時、果たして自分はいつまで正気を保っていられるのだろうか?
あまりにも死が怖すぎると人は逆に死にたくなると、誰かも言っていた。
今なら小説の中でレティアが湖に入って行った絶望が分かるようだった。
考えているうちに、つーっと涙が目尻を伝っていく。
私はそろそろ心の準備をした方がいいのだろうか?
心が弱りすぎてそんな事までつらつらと考え始めていた。
自然に脳裏に浮かんでくるのは私が死に行く湖の映像……。
「……ルーゼ……」
「なにレティア?」
「……ローズ湖ってどんなところ?」
「どうしたの? 急に?」
「教えてくれる?」
「……そうだね、木々に囲まれていて、透明度が高く……底には木や藻がいっぱい沈んでいる。
沈んだ物は二度と浮かび上がらないと言われている、別名『死の湖』と呼ばれる不吉な湖だよ」
沈んだ物が二度と浮かび上がらない。
つまり遺体も底に沈んだまま。
小説の中のレティアが死に場所に選んだ理由はそのあたりにあるのだろうか。
永遠に湖の底に隠れてしまいたかった?
「ねえレティア、なんでローズ湖の事なんて訊くの?
お願いだからあんなところに行きたいとか言わないで、綺麗だけど、人気も無いし、不気味で寂しいところだよ。
それより、早く元気になって私と王都へ行こう。
色んな店で買い物して、観劇なんかも見に行って、楽しい事をすればきっと心も癒される。
何よりサジタリウスは名医だから、きっとあなたの精神の不調も治してくれるよ」
「……うん、そうね……」
頷いてはみるものの、どう考えても自分の病気が医者に治せる種類のものには思えない。
私を救えるのはたった一人、ルーゼだけなのに、彼はいつか私を投げ捨てて他の女性に走るのだ。
そんな運命を知っていながら、どうやって正気を保っていくというのだろう。
……めげない性格には自信があったんだけどな。
せめて残りの時間を楽しく過ごした方がいいのだろうか。
それとも小説の中のように、みっともなくルーゼに捨てられないようにあがこうか?
どちらの選択がより良いものなのかすら分からない。
正気を失いたくない一心で最期は、ルーゼにみっともなくすがるのかもしれない。
それがきっと彼の心離れを加速させ、止めることをできなくしたのかも。
ルーゼがたとえいなくなっても、この呪いのような発作から逃れる手段、それさえあれば精神状態を保てるのに……。
サジタリウスという名医に会ったら真っ先にその事を相談してみよう。
期待は薄くても少しでも希望があるなら、諦めないで縋っていかなくては……。
そうだ、まだ心折れるのは早い。
私は心を奮い起こすように、ベッドから身を起こして、ルーゼの手を取った。
「ねぇ、ルーゼ、出来るだけ長く私と一緒に居てくれる?
いつかあなたが私を嫌いになっても、同情でもいいから傍にいてくれる?」
「なぜそんな事を言うのか分からないけど、あなたがどこかへ行けと追い払っても、とても去る事など出来ないよ」
「お願いルーゼ……私のこの手を離さないで、ずっとずっと傍にいると誓って……」
必死の思いで懇願する私に、固く手を握り返してルーゼが言う。
「勿論だ。この魂にかけて一生傍にいると誓う。
……私達はずっと一緒だから、安心して」
「一生……? 本当に? 約束よ……」
今はその言葉を信じて心を落ち着かせるしかない。
自分の手と一緒にルーゼの手を引き寄せて、願をかけるように強く頬に押し当てる。
そんな私の行為に刺激され、ルーゼが椅子から腰をあげて、ベッドの上に身を乗り出してきた。
顔を寄せて来る彼を、最早、拒む気などは起きなかった。
「愛している……レティア……」
自分に愛が無い事実を告白する事もなく、私は目を閉じ、彼の唇もその舌も受け入れる。
熱い呼吸が何度も顔に降りかかり、ルーゼが私の肩を抱いて、ずっと夢中で口づけをするのを許し続けた。
むしろそうして求められる事で安心できる自分がいた。
夜になり、いつもと同じように彼がベットへと入ってきた。
手を握ったまま眠ってくれるように頼むと、彼は嬉しそうに笑って、また私の唇を奪い、むさぼった。
「……ああ……レティア……愛している。
あなたの唇は本当に甘くて……たまらない気持ちになる……。
これ以上キスしていたら、止まらなくなりそうだ……やはり早く結婚しなくては……」
熱く切ないため息とともに唇を離し、甘い言葉をささやいてくる。
今となってはそれもいいのかもしれない。
ルーゼを縛りつける為に結婚するのも。
本気でそう考え始めるほどに、私は追い詰められていた。
ルーゼが傍にいさえすればこうして普通に過ごしていられるのだから。
少なくとも運命を変える一つの契機になるかもしれない。
小説の中では婚約をしていても私達はまだ実際の婚姻にまでは到っていなかった。
妻がいるルーゼとはリーネも親密にならないのではないか、という甘い希望を抱いてしまう。
リーネが現れるまであと一年半。
それまでに結婚すれば……あるいは……。
祈るように強く握ったルーゼの手は温かいのにサラサラしていた。
繊細なその白く長い美しい指を頬に当てて、私は眠りの底へと沈んでいった……。
その夜、とても不思議な夢を見た。
ルーゼと一緒に寝ている時は全く悪夢を見なかったので、その日も穏やかな夢だった。
夢の中の私は丘の上に一人佇み、ひたすら誰かが来るのを待っていた。
――やがて人が近づいてくる気配がして、顔を向けたとたん、胸の中にたまらない愛しさが溢れてくるのだ。
ずっと待っていた恋人を迎えるような気持ち。
なぜか相手の顔はよく見えない。
そして丘の上で私達は抱き合って口づけを交わす。
「ずっとあなたを愛して待っていたの……!」
切ない愛しみと喜びにこの胸は打ち震え、私は泣きながら目を覚ます。
それはとても幸せな未来の映像に見えた。
本物の未来の出来事である事を願わずにはいられないほどに。
その夢の効力もあったのか、次の日になると私の気分はかなり上向いていた。
それに天気も良かったので、朝食後、ルーゼにお願いして、馬に乗って近くを散策させて貰う事にする。
「まだ自分で歩いたり、走ったりするのは早いからね……」
背後から私の身を抱くように手綱を操りルーゼが声をかけてくる。
「そろそろ私、一人で馬に乗れるかしら?」
「……レティア……それは出来たらやめて欲しいな……私はとても心配症なんだ。
自分の命よりも大切なあなたが馬から落ちて怪我でもしたらと思うと、不安でたまらない。
そのかわり、私がどこでも連れて行ってあげる。
あなたの望むところならどこへでもね」
「本当?」
「本当だよ」
「ローズ湖でも?」
「……ローズ湖?」
「うん、行ってみたいの」
まだ近くで見た事が無いから、最期に自分が沈みゆくかもしれないその場所を、一度確認してみたかった。
後ろで溜め息する気配がして、今したばかりの約束を破れないルーゼが、馬を回して湖の方向へと向かい始めた。
到着して実際に目のあたりにしてみると、ローズ湖は不吉な場所なのに、全く嫌な印象は受けなかった。
むしろその青緑色の美しい湖面を眺めていると、眠りに落ちる前のような心穏やかな気持ちになるほどだ。
目の前に横たわるその美しさが何かに似ていると思い、ふと気づく。
それは鏡の中で見た自分の姿だと……。
「とても美しく寂しい場所ね」
周りを取り囲む木々の幹は白く、葉の少ないものが多かった。
静寂が満ちた空気に鏡面のような湖。
私達は馬から降りて、水際近くを歩いていた。
ふと屈みこんで冷たい水の中に手を浸していると、急に強く背後から身体を抱きしめられる。
振り返って見れば、しがみつくようにルーゼが私の身体を捕まえていた。
「どうしたの?」
「あなたがまるでどこかに連れて行かれそうで、急に怖くなったんだ」
「私が一体どこに行くというの? あなたのそば以外の」
「それは私に分からない。だけど、とにかくここにいるととても不安な気持ちになる。
もう行こう、レティア……あまり長居をしたくない。
不安で心臓が変になってくる」
懇願されて、ふと、気がつく。
未来の私の墓になるかもしれないこの場所に、ルーゼは何か感じるものがあるのだと。
考えながら手を解いて向き直り、改めて、ルーゼの蜂蜜色の髪やエメラルドの瞳、象牙色の肌と、天使のように美しい相貌をまじまじと眺める。
あなたは私とって一体何なの? 天使なの? 死神なの?
私の身が自分よりも大切だと言い、生に引き止める一方で、激情で殺したくなるという。
愛していると散々言った後に私を見捨てて去っていくかもしれない人。
もたらすのは救いなのか破滅なのか……ただ一つだけ分かるのは、私の運命が、今は彼の愛にのみにかかっているというあやうさ。
自身の運命を他人に委ねる、その事が何よりもの悲劇に感じた。
――名医であるというサジタリウス、彼なら、この状況を変えるヒントをくれるのだろうか?
それからは再び穏やかな日々が続いて、私の精神も体調も時とともにその健やかさを取り戻していった。
秋の刈り入れ時はルーゼも領地の管理で忙しいらしく、私は地所のあちこちを彼について出かけ回り、伯爵らしく使用人に指示を下すルーゼの采配ぶりを間近で見る事になった。
それはまさに13歳で全ての学問を終えたというのが真実だと分かる仕事ぶりだった。
――そして秋が過ぎ、冬が来て、私が16歳になって四ヶ月過ぎた頃、いよいよ私達は王都へと旅立つ事になった。




