第一話 「初恋の味」
息が吸えない。ゴボゴボと水の中で泡を吹き出しながら、暗い水底に沈んでいく。
嫌だ、嫌っ、死にたくない。
助けて、お母さん、お父さん、お兄ちゃん!
――と、前触れも無く突然ぐるんと周りの景色が変わる。
今度は青白い月の光に染め抜かれたような景色を背景に、黒髪と青い瞳の恐ろしい形相の男の顔が見えた。
溺れている時と同じように、やはり息が吸えない。
凄い力で自分の首がぐいぐいと締め上げられていく。
「あなたが悪いんだ……私の気持ちを受け入れてくれない……!
こんなに愛しているのにレティア!!」
その時、男が急に横に吹っ飛んで、肺の中に空気が流れ込んできた。
ゲホゲホと唾液を吐きながら、床につっぷし、私はやっと呼吸する事が出来た。
「姉さん、大丈夫!!」
誰かの腕が肩と腰に回されて、身をひっくり返すように上体を起こされる。
蜂蜜色の髪にエメラルド色の瞳、酷く美しい少年の不安そうな顔が、霞がかった視界に映った。
「……ルーゼ……」
その名前を呼んだ瞬間、閃きのように、天啓のように、私はこの世界の正体に気がついてしまった。
そう、ここが以前読んだ事がある小説「リーネとルーゼ」の中で、自分はルーゼの美しすぎる義姉の悪役令嬢、レティア・ミルゼであるという事実に……。
今まで何の疑いも無くレティアとして生きてきたけれど、前世の記憶を思い出したと同時に、この世の真実の姿が見えてきた。
「リーネとルーゼ」は少しお耽美な、西洋風ファンタジーのライトノベル。
ヒロインのリーネは人を癒す手を持った不思議な少女で、ルーゼはその恋人役。
それでもって私の役どころなのだが……。
貧乏貴族であったレティアの父親は裕福な未亡人であったルーゼの母親と再婚する。
義姉弟になった二人は惹かれあい、いつしか恋仲になる。
しかし、破滅願望がある神経質なレティアと居てもルーゼの気は休まらない
そんな、ある日出会ったのが素朴な癒し系の少女リーネだった。彼女との心の触れ合いでルーゼの心は癒され、急速に二人の距離は近づいていく。
義弟の心変わりが許せないレティアはリーネに嫌がらせの限りを尽くし、最後にあてつけの為に湖に投身自殺するのだ。
あまりにもレティアの人生内容が悲惨過ぎる!
前世の私は神経質とは反対のがさつな性格だったので、あてつけに入水自殺をするという行為からして理解出来無い。
そこで私は鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめる。
腰まで覆う月の光を編み上げたような白金ブロンドにサファイアのような瞳、透き通った白い肌、芸術的に配置された愛らしい目鼻立ち。
これだけ美しく生まれついたんだから、未来の私も、気を取り直して次にいけばいいのに。
大体、溺れて死ぬのって、凄く苦しいんだから!
レティアに生まれ変わる前の私は日本に住む19歳のスポーツ大好きでテニスサークルに所属する短大生だった。
夏休みに友達と遊泳禁止区域の岩場に海水浴に行き、泳ぎが得意なのもあり沖の方まで出過ぎて、波に流され溺死してしまったのだ。
我ながらちょっとまぬけな死因。
ひょっとして同じ19歳での溺死繋がりでレティアに生まれ変わったのかな……。
とにかく、幸いな事にまだ父が再婚したてで、私とルーゼの間に色恋が生まれていない。
もう溺死したくない私の選択肢はたった一つ、
絶対にルーゼとは恋仲にならない!
美しすぎる魔性のレティアは周りにいる男を本人にその気が無くても息を吸うように虜にするという特徴があった。
昨夜、私の首を締め上げていた男性もその被害者で、ストーカー化した挙句に思いつめて凶行にいたったらしい。
夜会の最中、テラスで涼んでいるところで、いきなり殺されかけてしまった。
私が会場にいないのに気がついてルーゼが探しに来なければ、本気で絞殺されるところだったのだ。
危ない、危ない、まだ16歳になったばかりだというのに、あやうく前世の自分より早く死ぬところだった。
そしてこの鏡の中の自分の、血の気の薄い蒼白な顔、いかにも死に近そうな儚げな容貌。
これもいけない気がする。
運動して、もっと健康になろう!
長生きしよう!
「姉さん、まだ寝てないと駄目でしょう?」
部屋の中でストレッチしていると声がして、見ると戸口に目を丸くしたルーゼが立っていた。
「寝ているより、動いた方が、早く元気になれると思うから。
そうだ、ちょっと外を走ってこようかしら?」
「ええーーっ?」
「そうだ、ルーゼ丁度良かった。貴方の服貸してくれない?
ドレスじゃ動きにくくて」
「服を? 姉さん、一体、どうしてしまったの?」
どうやら正気を疑われているようだった。
それでもなんとか服を貸してもらって外に出ると、空は青く晴れわたり、気持ちのいい風が吹いていた。
まさに運動日和!
「待って下さい、お嬢様!」
さっそく走り始めると、後ろから追ってくる、侍女のフランの声がした。
そっかこの世界の貴族の令嬢って付き添い無しの一人歩きが駄目なんだっけ。
ふふふ、でも、私のスピードに着いてこれるかな?
私はトップスピードにあげて一気に振り切るように走ってゆく。
振り返りつつ、確認すると、背後のフランはどんどん小さくなり、やがて見えなくなった。
ふー、これで心置きなく一人で運動できる。
……と、しばらく走っていると、道の向こう側から馬に乗って、21歳の若き公爵、フェルナン・ヒメネス様がやってくるのが見えた。
胸にこみ上げてくるこの愛しさ。
そうだ私はこの若き公爵様にずっと片想いしていたのだ。
レティアが幼い頃から思ってきた相手こそがこのフェルナン様だった。
「レティア!!」
騎上からフェルナン様が驚きの声を上げる。
「フェルナン様!」
答えて立ち止まり、近くまで来たところで彼を見上る。
「そんな格好で何をしているんですか? しかもこんな人気の無い道を一人で」
「運動をしているのです」
「運動? どうしてそんな」
「健康になって長生きする為です!」
健全な精神は健全な肉体に宿るんです。
――それにしてもいつお会いしてもフェルナン様は素敵だわ。
引き締まった長身の体躯と銀髪にアメジストの瞳の端麗なお顔……思わずぼーっと見とれてしまう。
でもヒメネス公爵はもうすぐ婚約してしまうのよね。
物語りの中ではその傷心の傷を埋めるようにルーゼの愛を求めていくのよ私。
「とにかく、後ろに乗るんだ。
こんなところに一人でいては危険だ」
フェルナン様の手が、こちらの方へ差し出されてきた。
「いえいえ、ご心配には及びませんわ、フェルナン様。
お会い出来て嬉しかったです」
「乗りなさいと言っている」
有無を言わせぬその口調に、私は諦めて手を差し出し、馬の上に引っ張りあげられる。
あ、でも、後ろに乗せられたので、掴まっているふりをして抱きつく事が出来るからかなりラッキーかも。
「しかし、貴方はなんという格好をしているのだ?」
「義弟のルーゼに借りたのです」
「そういえば新しく義弟が出来たのだったね。
あなたは今15歳だっただろうか?」
「いえ、先日16歳になりました」
「それはいけない。何か贈り物を差し上げなくては。
何でも欲しい物があれば言って欲しい」
ヒメネス公爵と亡くなった母とは親戚関係にあり、貧しかった時代は公爵家には何かと援助もして貰っていたので、幼い頃より顔を合わせる機会が多かった。
贈り物と言われても既に父の再婚で裕福になっていた今の私には特に欲しいものなどない。
ただこの叶わない事がわかっている初恋の痛みを少しでも癒すことが出来たらと思う気持ちだけがある。
そうだ、それだ。
私が今一番欲しいものは!
「……それなら、キ、キスをして欲しいです!」
緊張しながら、思い切って言ってみる。
甘酸っぱい初恋の思い出に、大好きな人とのキスの思い出が欲しい。
我ながら乙女な自分。
「キスといったのか?」
フェルナン様はとても驚いた声をあげた。
「そ、そうです。唇に……嫌ですか?」
「嫌ではないが……しかし……」
嫌じゃないって事はしてもらえるかも、胸をどきどきさせながら、続きの言葉を待つ。
彼は答えるかわりに、馬の手綱を操り、道を外れて丘の方へ向かっていった。
丘の上に馬を止めると、フェルナン様が地面に降りて、こちらに手を差し出してきた。
抱き下ろされ、木の下に二人で向かい合って立つ。
「目をつぶってくれるか?」
ささやくような声が降ってくる。
答えるように、目を瞑り、ドキドキしながら待っていると、やがて、柔らかい感触が、唇の上に降りてくる。
ううっ、幸せ。
初恋の味だけではなく、これから婚約予定の人だと思うと背徳の味もする。
フェルナン様……ヒメネス公爵からはとてもいい匂いがする。
唇の感触を確かめるような軽いキスから、じょじょに深く味わい、奪うような激しいくちづけになっていく。
「んっ」
やがて唇が離れ、たっぷり注がれた大人のキスの味に、私がぽーっとなっていると、改めてヒメネス公爵が顔を傾けながら近づけてきた。
またキスされる。
と、思った時にはまた熱い口づけが再開されていた。
「レティア……君は美しすぎる……」
なんという甘美な言葉とキス……。
そこで遠くから私の名を呼ぶ、ルーゼの声が聞こえた。
「レティア姉さん! どこー?」
声の方向からして繋いである馬は見えても、ちょうど太い木の幹の陰になっていて私たちの姿はルーゼから見えない筈。
私はうっとりアメジストの瞳を見返し、ルーゼに返事をする前に、もう一度だけヒメネス公爵と、背徳の甘い口づけを交わした。