ヤンデレから逃れる為の十箇条
ふと浮かんだ話です。
主人公の口が悪いのでお気を付けください。
主人公以下誰の名前も出てきません。
「離してくださって結構です」
真っ直ぐ射抜くような眼差し。危機的状況に置かれているというのに、その瞳に怯えの色はない。冗談を言っているのではないことは、彼女の全身から発せられるはっきりとした拒絶の意思が物語っている。
こんなのはただの強がりだ。少女の瞳に気圧されたのは一瞬、男の脳裏で誰かが囁く。そうだ、もう少し脅してやればあっさりと態度を変え、許しを請おうと縋ってくるに違いない。少女のその表情が恐怖で歪む様を想像し、男の口元に歪んだ笑みが上る。
彼女の方から堕ちて来たら、もう遠慮はいらない。小さな檻に閉じ込めて、思う様愛でてやれば良い。己が手で壊す瞬間は、どんなものにも代え難い快感を与えてくれるだろう。男の中で、暗くどろりとした感情が首を擡げる。
抗い難い欲求を叶える為に、男は努めて冷静に、だが込み上げる喜びを口の端に上らせながら酷く残念そうに息を吐き、
「どうしても嫌なら仕方ない、ね」
一瞬、腕を掴んでいた手の力を緩めた。すると、不安定な状態で支えられていた少女の身体が大きく後ろに仰け反り、そのまま重力に従って落ちていこうとする。
無論それは単なる脅しで、本気で手を離すつもりなどなかった男はすぐにもう一度少女の腕を掴み直そうとした。だが、
「なっ!?」
少女は男が手を緩めた瞬間、その腕を己の方に引き戻すともう片方の手で抱き込んだ。結果、男の手は空を掴み、少女の身体は空中に放り出された。そして次の瞬間には、その身体は重力に従い落ちていく。
まさか少女がそんな行動に出るとは思っていなかった男が我に返り、目一杯手を伸ばした時にはすでに遅く、今や少女は完全に男の支配下から抜け出していた。少女に触れることすら叶わなかった手は、空しく中を掻く。
少女の長い黒髪が視界一杯に広がり、窓から差し込んだ日の光を受けてキラキラと輝く様がやけに眩しく、同時に男の胸に突き刺さる絶望。呆然と目を見開く男が最後に見た少女の顔は、酷く満足気に微笑んでいた。
ゆっくりとした時間の流れの中で、重力に従い落ちていく身体。咄嗟に受け身を取ろうとするも、恐らく足掻いても結果は同じだろうと思えば抵抗する気力は途中で萎えてしまう。もう少し生きたかったと思わなくもないが、己の心を曲げてまであの男に従う気がないのだからしょうがない。
どこか他人事のように己の運命を受け入れ目を閉じる少女。その時、ふと脳裏をかすめた記憶に少女の口から漏れたのは、安堵とも落胆とも取れる溜め息。
(やっぱり駄目だった……か)
薄れ行く視界に呆然と立ちつくす男の姿を入れながら、微かに動いた唇。最期の時にあるまじき平坦なそれを、聞く者はいなかった。
◆+◆+◆
ふと生じた気配に、執事然とした男性は驚くことなく綺麗な仕種で頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「今度こそ上手くはぐらかせたと思ったのに!」
誰にともなく文句を言いながら苛立たしげに前髪をかき上げた気配の主は、荒い足取りで男性の方へやって来ると、その傍らにあった繊細な作りの椅子に勢いよく腰を下ろした。するとすかさず、湯気の立つ茶器と菓子の並べられた皿が置かれる。香りから判断するに、紅茶のようだ。そうされるのも最早慣れたものというように、供された側である人物、少女は遠慮なく紅茶を煽り皿の上からプチシューを取り上げると、作法を気にすることなくぽいっと口に放り込む。
モゴモゴと咀嚼する間、考えているのは次なる一手のこと。あらゆる変装を試してみたが、結果は惨敗。ものの見事にリセットボタンを連打している状態だ。こうなったら最早意地というもの。何としてでも奴の鼻を明かし、ついでに元凶ともいえる存在に結果を叩きつけて、上乗せで特典を毟りとってやる。
「それにしても何で気付くかな」
口の中の物を飲み込んだ途端、口をついて出る盛大な溜息。だがその程度でこの苛立ちは解消される筈もなく。何とも腹立たしい思いに駆られながら新たに注がれた紅茶に口を付け、僅かに目を見張る。
少女は基本的に紅茶はストレートで飲む派で、いつも淹れてくれる方もそれは承知の上だ。それなのに、何故かほんのりとした甘さを感じた。
そこに紛れもない意図を感じた少女が顔を上げれば、何も言わず佇む男性の鉄面皮と視線がかち合う。その表情は通常通りぴくりとも動くことはなく、少女は彼の考えを聞き出そうとするかのように小首を傾げた。
「随分とお疲れのように見えましたので」
少女の何気ない仕種に答えを求められていると感じた男性はにこりともせず事実を淡々と述べるのみで。だが、その台詞と行為は間違いなく少女を気遣ってのもので。少女の口元がふにゃりと弛む。余計あちらでは気を張って必要以上の他人との交流を絶っている分、こんな些細な優しさが嬉しいと思った。
「ありがとう」
「いえ、私は己の役目を全うしているだけですので」
いっそ素っ気無いほどの返答も最早慣れたもの、彼らしいと思えば弛む頬はそのままで。少女は再び優しい味のする紅茶を求めて卓上の茶器に手を伸ばすのだった。
せめて今だけは、この穏やかな時間を堪能させて欲しいと、この瞬間だけは自分は自分だけのものなのだからなどと思いながら。
お読みいただきましてありがとうございました。




