麗しき魔物使い『歪んだ恋煩い』
あの人と出会ったのは、単なる偶然でしかなかった。魔物の使役に失敗し、比較的扱いやすいとされるブレードドッグの中型種に唸り声を向けられていた時、通行人が散歩する犬に目を止めるようにその場に通りがかったあの人はブレードドッグに向かっていった。
危ないから近付くなと警告する使役者を置いて、威嚇するブレードドッグの頭に手をのせたあの人は暢気に『君は魔物使いとしては未熟なようだね。』と言って犬を大人しくさせてしまった。
責めるでもなく、怒るでもなく制御不能の契約下の魔物を我が物のように扱って、あの人は勝手に私と魔物の契約を解いた。
それは通常ありえない事であって、驚く私にあの人はブレードドッグをけしかけた。
『お前が与えられてきたものを返すといい。』
そういってあの人はブレードドッグに魔力を流した。普通魔物の持つ魔力はそう多くない。優れた魔法を行使する変わりに多大な魔力を消費するのが常だ。私達魔物使いはそうした隙をついて魔力を餌に使役者として有利な契約する。
何がいいたいのかというと、魔力しか持たない無力な人間の前に、契約から解放するだけでなく危険な力を持たせた状態であの人は魔物を差し向けたのだ。
このブレードドッグは10才の時の誕生日に贈られた魔物だった。まだ子犬の状態で魔物の使役を学ぶよう魔物使いの子供に与えられた訓練用の犬。
私は幼いブレードドッグと契約を交わしたものの、この手から持て余していた。契約主が扱いに戸惑おうと幼犬は成長を待ってはくれない。
ブレードドッグがその名の由来となった片刃の剣を額から魔力で生やす。それからいつものようにじゃれついてきて、私の体は血塗れになっていった。ブレードドッグにとって遊びに過ぎない行為が人間にとって脅威なのだ。私はとうとうそれを幼犬のうちに教え込む事が出来なかった。
『君は魔物使いに向いてないね。』
血塗れの私を見て、少し考える風だったあの人はそういってブレードドッグに魔力を送るのをやめた。額から剣が消え、犬は私の手や足を強い力で甘噛みする。
『嫌い!消えてしまえ。』
魔力を使い果たした犬の頭を打ち、私はそう叫んだ。犬は怒鳴られても頭を殴りつけても懲りず飛び掛ってくる。尻尾を振って独りよがりに遊ぼうとしてくるのだ。
耐え切れなくなった私は荒く息をつきぺたりと座り込んだ。ブレードドッグがそんな弱った人間の傷口をべろりとなめて血を飲んだ。この悪癖も私の至らぬせいだった。この犬は人の血の味を覚えている。
『そう嫌うものではないよ。その子は君と仲良くしたがっている。』
あの人はそういって私を咎めた。冗談ではない。一歩間違えば、あるいは気紛れでブレードドッグは人の命を奪うことができるのだ。
『契約を結んであげなさい。今度は対等で、その子もそれを望んでいるようだ。』
元々私の家は魔物使いとしては三流で、使役者としての成功を求められているわけでもなかった。このブレードドッグが与えられたのも単なる形だけのもの。一方的な支配下でも振り回されているのに対等の契約など真っ平御免だ。
『さあ。』
それなのにあの人は犬と私の間を仲介し、契約を行った。ブレードドッグの刃の生えていた額に浅い傷をつけ血を採ると、嫌がる私を犬に抑え付けさせてそれを私の額に塗りつけた。
塗りつけられた箇所に熱い燃えるような痛みが生じてうめき声をあげた。血を媒介して魔力が勝手に犬と繋がるのを感じ、前の一方的に私が魔力を流し込む関係から双方の魔力を交換する相互の結びつきが強
い関係に変化したのが分かった。
それは法に触れる契約だった。魔物使いの身を守るためまた過失を犯さないために、定められた手順を本来踏まなければならない行為。そして、結んでしまえば一方的には破棄できない契約の形。
『こんな……人を殺すつもりですか?』
もはや無駄であっても、あの時の私は抗議の声をあげることしかできなかった。
『そのブレードドッグが受けてきたものを返させてあげようと思ってね。君の扱いが下手なだけで、その子自体は君に懐いているみたいだから良かったよ。』
あまりに勝手で、ぼろぼろと情けなく涙をこぼし、その原因となった犬に頬をなめられ慰められる始末。
『そうだ、私が君に魔物の扱い方を教えてあげよう。』
誰にも相談できず人の目を恐れ、私はあの人と短くはない時間を付き合うことになった。
ブレードドッグに私は名を与えていなかった。本来この犬は使い捨てに近い扱いを受ける下級の魔物だった。ある程度の命令を聞くことのできる特攻や待ち伏せに便利な駒、だからこその訓練用の犬だ。名がある必要はなかった。
「マカイラ。」名を呼ぶと、犬は尻尾を振って駆け寄ってくる。対等な契約をした以上、契約を早い内に破棄するか受け入れて結びつきを強固にしていくかの二択しかなかった。マカイラは契約の破棄の申し出を受けつけず、関係の改善をしていくしか道は残っていなかった。
あの人はマカイラに手を焼く私のもとにふらりと現れては、魔物の話を好きなだけしていくとまた姿を何処かへと消すといった事を繰り返した。きっとこのマカイラと私の関係に出しゃばってきたのも何か考えがあってのものではないのだろう。目を付けられたのが運のつきであった。
「魔物の中でも高等なものは人と変わらない知識や、それ以上の頭脳を持つ者がいる。そして低級から高級までいえることだが、彼らは世間一般の人を脅威に晒す力を持っていた。本来魔物の力は人の手で扱っていいものではないんだ。」
あの人は大抵話をする時はマカイラを撫でている。あの人の魔物を見る目は優しく、どこか陰湿だった。
「ティア。」あの人が魔物を呼ぶ。それは魔物の中でも位の高い種であった。薄く透明がかった人と水鳥が混ざった水の精の姿。呼びだされた魔物はあの人の肩に手を掛けた。
「彼女は水の精の中でも人と関わりが深い。人語を解することもできるし人に対しての理解もある。」
私は親密な魔物と人の様子を観察し、あることを確信してぞっとした。
「あなたは……、魔物に支配権を譲渡したんですか?」サインとか証拠があるわけでもなく、いうなれば魔物使いの直感のようなものが私にその言葉を吐き出させた。
あの人は肯定も否定もせず、肩に寄りかかる水の精へその手を重ねた。水の精がクスクスと笑い泡の弾けるような音を口で鳴らすと私の体に水を被せた。体が濡れて不快になると共に、水の精の造る魔力の領域に取り込まれた事を意識させられた。
「貴き方に三の森より下った人の子の末裔、高森凜祢がご挨拶申し上げる。」我が家に伝わる口上を述べる。位の高い魔物にあった時には必ずこの言葉を口にするように言われていた。そうすれば三の森に住まう古き神魔が魔物の害意を挫くと伝えられていた。言い伝えは自体は気休めに過ぎないが特に強い害意がない場合、高位の魔物は敵意を収めたりちょっかいを出すのをやめてくれる。礼を尽くしている事は伝わるようだった。
「リンネ。」水の精が私の名を復唱した。縮こまっていたマカイラが調子を取り戻す。きっと水の精の魔力の圧力を受けていたのだろう。
「三の森のか。」あの人が反応を返す。そういえば互いに名前も素性も知らないままであった。
「遠い先祖が三の森で魔物と契約を結んだとか何とか。私がマカイラを扱っているのもその名残です。」
「今でもあそこの森の奥にひどい邪気を纏う魔物がいるそうだね。君もその年に見合わない邪気を負っているようにみえるが、そいつの影響だろうね。」
事も無げに聞き捨てならないことを言った。
「その魔物の邪気とやらは払ったほうがいいでしょうか?」
「いいや、きっと払おうとすると良くないことが起きるよ。君はその口上を使い続けてきたわけだろ。それをいきなり邪だとして穢れを落とそうとしたなら怒るだろうね、三の森の魔物は。」
知らぬ内に三の森の神魔との繋がりを持続させていたらしい。親は知っているのだろうか?三森家の傍流にあたり本家はいまや断絶し、こんなの軽いおまじないのようなものと母が笑っていっていた。水の精がぼそぼそとあの人に話しかけている。濡れた瞳でちらりとこちらを見ると、姿をぼんやりとさせて消えた。
「彼女が呼んでくるそうだよ。三の森の水霊を、三の森の魔物がどうしているか聞くといい。」あの人はにこにこと笑って余計なことをしてくれた。こちらから関わらなければ今まで通りに済む問題なのだ。水霊と三の森の神魔に交流がある場合余計な刺激を与えるかもしれない。
「私達はもっと彼らの事を知るべきだ。」あの人はそういって、私が逃げないようマカイラを足元に寄せた。マカイラは私よりもあの人の方を立場が上だと見ている。危急の命令でもない限り、私よりあの人に従うのは明白だった。
犬を置いていく事ができず、私は水の精が帰ってくるのを待つしかない。それは、非常に屈辱的な時間だった。
「魔物は道具じゃない。そればかりか人より優れた点をいくつも持っている……、私達魔物使いはそれを利用するだけでなくもっと、互いが助け合う形になっていくべきなんだ。」
水の精が帰ってこない間、あの人は魔物に向かいながら私に独り言のように話す。もしかしたらいって聞かせている自覚がないのかもしれない。ブレードドッグの頭に手を往復させて、ぶつぶつと語り続ける姿はまるで何か頭がおかしくなっているようにも見えた。いや、今までの私への仕打ちを考えるにそもそもあの人はまともな人間ではない。
「君はどう思う?」あの人が顔を不意にあげて聞いてきた。そんな事知ったことじゃなかった。せいぜいマカイラを普通の犬のように躾けることができるかが、私の中の問題だった。
「そうですね。彼らの立場で考えるなら、持った能力に対して不遇といえる扱いを受けているのはよく分かります。」本音はそうでも、あの人の不興を買いたくはない。当たり障りのない回答が口から出る。
「そうか、君もそう思うか。」あの人の明るい声は私を不安にさせた。本当に未熟な魔物使いにちょっかいを出しているだけなのだろうか?私を何かに利用しようとでも考えているのではないか?ふっと湧く不信感が顔に出ないように気を取り直す。私が何に利用できるというのか……、自嘲しながら否定した。
「来たようだね。」
地面がぬかるみ、泥が盛り上がる。来たのは下級の水霊、しかも土と混じる不純なものだった。泥でできた体を持ち上げ、私の体に触れてくる。気持ち悪くて押し返そうとするも逆に泥の中に手を取られた。
「ティアが橋渡しをしてくれる。話すといい。」
泥がコポコポと汚い泡を立てる。
「オナジ、オナジ。ニオイスル。チガウ。オマエニンゲン。」
水霊の代わりに水の精が拙い言葉で話す。水霊から丸い黒い石の塊が飛び出て、目玉のようにこちらをぎょろりと見た。
「イヤナヤツ。アイツ。オマエ、イヤナヤツ。アイツマッテル、コナイアバレル。メイワク、メイワク。オマエ、ハヤクコイ。」
手に力を入れ泥から抜き取る。泡立つ泥の臭気が鼻をつく。三の森の魔物は性質が悪いようだった。
「行き方も分からないし会うつもりもない。迷惑でしょうけど、我慢して。」こびりつく泥を手から落とす。ちょっとした好奇心から調べた三の森に纏わる話の一つでは、荒ぶる魔物に人柱を差し出したと聞いていた。供物にでもなれというのか、この泥の塊。
「ナラ、アイツニイカセル。」
バシャン、と音を立てて盛り上がっていた泥が地面に落ちた。心が冷えていく。
「きっとすぐに来るよ、その三の森の魔物は。君にとても会いたがっているようだからね。」
「あなたがっ!!」あの人に突っかかろうとする私の行く手を水の精が塞ぐ。
「僕じゃない、ティアの好意だよ。あの水霊はティアの知り合いだからね。そもそも、君が言ったんだろ?三の森のものだと。むしろ喜ぶべきだ、君が魔物使いになる由縁と会えるのだから。」
マカイラが尾を垂れ下げて私の足元に寄る。耳をぺたりと伏せて怯えていた。
空が陰る。それと激しい何かがぶつかり合う音。
「やれやれ、邪魔が入っているようだね。無粋な奴らだ。」
人を乗せた蝙蝠の翼をつけた牛と、緑色の毛を生やした細長い大きな獣が遠い空の上で対峙していた。牛が火炎を吐き出し緑の獣を焼こうとするが全く効いていないようだった。
「ティア、手助けしてあげなさい。」あの人の言葉に従い水の精が体を浮かび上がらせる。
牛が緑の獣に足を打ちつけようとしたが、突如出現した水球に横に吹っ飛ばされ姿が見えなくなる。緑の獣が頭を下に向ける。何かを探すような仕草。
私の居る場所は人気のない林道、空の上からでは見通しが悪いはずだった。緑の獣が頭をこちらに向ける。一陣の風が吹き木々が激しく枝を揺らす。通り抜けていく風と重なるようにその緑の獣が林の中に分け入ってきた。器用に木を傷つけることもなく蛇のように巨体を潜り込ませ、眼前で緑の獣がぬるい息を吹きつけてくる。
「きれいなものだ、身に染み付いた邪気とは裏腹に神聖ささえ感じることができる。」
緑の獣は美しい姿をしていた。緑の光沢のある毛を風も無いのに波打たせ、尖った耳をピンと頭の上に立てている。細い狐のような頭部にぞろりと生える白い牙がわずかに開く口腔から見え、短い四肢は鼬のようで黒い鉤爪を持っていた。
ただ真っ暗に塗りつぶされた目が私をじっと見ていた。
「あなたとは契約できない。」全身の毛を逆立たせ、緑の獣がうわんと鳴いた。黒い目から涙を零し叫びながら飛び去る。
「これでいいんでしょう?」あの人と会って以来の不快な気分だった。
「さて、君がそれでいいというなら僕から言うことはないよ。」
あの人の傍に水の精が帰ってきていた。緑の獣が去った方を見る。あの牛が数を増やして出てきていた。緑の獣が追い立てられていく。
「けど、あれを帰してしまって良かったのかい?随分見詰め合っていたようだけれど。」
あの人には珍しいからかいを含んだ言葉だった。
「マカイラ、行くわよ。」別れの挨拶もせずその場を後にする。緑の獣など知ったことではなかった。
マカイラがあの日から従順になった。それは私が成長したのではなくあの緑の獣を怖れてのものだろう。最近、交流のある魔物使いから向けられる目も刺々しくなった気がする。
「怖がるのよね、あんたの事。前はあんなに懐いていたのに。」
家に遊びに来た、同じブレードドッグを扱う比野市子に言われる。
「鉄。」市子がマカイラと遊んでいた自分の犬を呼ぶ。くるりと私を避けるようにして鉄は市子の元に駆け寄った。鉄はブレードドッグの小型種だ。ほとんど愛玩動物と変わらない。保有する魔力も無きに等しいので、契約者のいない場合そこらの犬と一緒だ。はっきりいって羨ましい。
「ほら、撫でてみて。」市子が鉄を抱きかかえ差し出す。私が鉄の方へ手を伸ばすと、スピーと鼻から情けない音を出した。哀れを誘う音に手を引っ込める。
「体質が変化したのかもね、ほら、たまにいるって聞くじゃん。退魔の性質とか……。」
「それなら、そもそも契約できないじゃない。」
彼女の言葉に呆れた声を返す。考えられる理由としてはあの人の言う邪気が濃ゆくなっているのかもしれない。穢れの元に先日会ったばかりだ。早く薄まればいい。
「そうだねー、あはは。」市子が鉄とマカイラで遊ぶ。ボールのおもちゃを投げて競わせていた。
「マカイラっていい名前だね。どうして名前つけようと思ったの?」
市子の何気ない言葉にぎくりとする。付き合いもそれなりにあり、彼女から聞かれてもおかしくない質問だった。
「……いい加減不便だと思って。」
「不便って……、そんな初めから分かりきってること。」
今度は彼女が呆れた。今更な理由だが、理由足りえたらしい。
「お前のご主人様ひどいねー?」市子が鉄とマカイラの頭を撫でる。ひどい主人なのは分かっている。私は魔物使いなのだから。
「使役するだけがお前たちのいる理由じゃないよ。」市子が犬たちを抱きしめた。その顔は楽しそうだが、犬達は身動きできず迷惑そうだった。
「あなたにとってはね。」彼女に聞かれないようぼそりと呟いた言葉、なのに彼女は少しだけ目を細めて私をみた。
「何かいった?」
「犬達が迷惑そうねって。」
「ええー?」
窓の外が赤くなり、市子が帰っていった。彼女とは魔物使いの繋がりで友人になった。彼女はブレードドッグだけでなく、鳥を扱う。むしろ鳥の魔物が彼女の得意とするところで犬の方が専門外だった。
「マカイラ。」びくびくと犬が寄ってくる。あの人を挟み契約しなおしてから、盛んに干渉しあっていた魔力の回路が途切れている。
「契約を解消しましょう。」
マカイラがキューンと鳴いたが、私の申し出を受けた。契約者としての特別な魔力の回路が閉じていく。これでもう犬は私の魔力への干渉ができなくなった。私もマカイラの魔力を感じ取ることができない。
机の上の紙袋から首輪を取り出す。魔力封じの石を縫い付けてある特別製だ。マカイラの首輪を付け替える。マカイラの魔力は低い、私にも手が出る値段でよかった。
これでマカイラの魔物としての危険性はほぼ無い。私は、これを普通の犬として扱うことに決めたのだ。
「おや、契約を切ってしまったのか?」
林でマカイラとボールで遊んでいると、あの人がやってきた。
「もう中途半端なことをするのは止めようと思ったの。どうせうまく扱うことはできないから。」
「ふぅん?」
あの人が切り株に腰を降ろす。
「でも、その子は魔物だよ。」
あの人がマカイラを指す。
「マカイラは最後まで面倒をみます。ブレードドッグではなく、犬としてですが。」
喜び勇んでボールを追いかけ、私の方へ持ってくるときはシュンとうな垂れる。楽しんでいるのか疑問に思わないでもないが、多分楽しんでいるのだろう尻尾を下げるマカイラを撫でる。
「そうか、それもその子の幸せの一つの形かもね。」
何か言いたげなあの人の言葉。契約の破棄はマカイラの同意あってのものだ。あの人の口の挟む余地は無い。
「三の森、待ってたよ。」
手が止まる。キューンとマカイラが鳴いて私から離れた。
「あの森には結界が張られていてね、あの魔物は閉じ込められていたようだ。」
関係ない。私はもう魔物使いをやめるのだ。
「それでも、水の精についていた匂いを辿って、守番に追われながら君に会いに来たんだねぇ。」
あの人がじっと私の顔を見ていた。じっくりと、観察するように。
「脱走したこの機会にあの魔物を退治してしまおうかと話が出ているけれど、君は……どうする?」
「どうするって、どうしようもないですよ。出てきたのが悪いんです。」
目を逸らしてマカイラの姿を探す。
「僕はあの魔物を解き放つつもりだ。」
「あなたの目的は何なんですか、そんな話を聞かせてどういうつもり?」
「魔物の解放だよ。」
あの人に目を戻すと、マカイラがじゃれついているのが見えた。
「三の森の魔物を助けたいなら君も僕と来るべきだ。」
なぜ頷いてしまったのだろう。あの緑の獣が何だというのだろう。こんなちっぽけな人間を、三の森の神魔は待っているというのか?そして、封じられた挙句に殺されてしまうのだ。
「黒虎、黄虎。」魔物を呼ぶために召喚陣が開く。あの人が魔物の名を呼ぶと、翼のある虎柄の狼が飛び出てきた。
「乗れるね?」あの人は黒い狼に乗った。黄色の狼が伏せて、私が乗るのを待っている。
「マカイラ。」犬を呼んで体を抱くと、黄色い狼の上に乗った。
「バランスを崩さないように気をつけなさい。」羽ばたきで体が浮かぶ。魔力を狼に伸ばすと、狼が回路を繋げてくれた。不安が減る。
地上が遠くなり、強い風で耳がおかしくなりそうだった。飛ぶ鳥を狼が追い抜かしていく。この狼もどうやら高等種のようだった。あの人はなんで扱いの難しい魔物といくつも契約を結んでいるのかと疑念が湧き起る。魔物の解放とやらに関係するのだろうか?そもそも、この狼とあの人は契約を結んでいるのか?その答えに行き当たった時、狼が横目で私を見た。見透かされているような目つきで、気味が悪い。
空を飛んでいくにしても、三の森は遠い。時間が経つにつれ体が冷えて、気分が悪くなった。空の上で怯えてがたがた震えるマカイラの体を抱きしめ暖を取る。私は助かったが、マカイラの為には置いてきた方が良かったかもしれない。
前を行く狼が下降していく。下を見れば家屋がまばらな田園地帯。更に先を見ると、柵で囲まれた丈の高い木が生い茂る森が見えた。森の入り口とおぼしき場所にあの牛や使役者の姿も何人かある。
黒い狼が吠える。
体を切るよう風が過ぎ、落下するように狼が体を傾けた。マカイラの体を押し潰すように抑え付け、狼の体から離れないようバランスを取る。
牛や使役者が驚いた顔をしていた。2頭の狼が森の入り口の直前で体を止め勢いのまま大きく翼を開いた。纏っていた風がゴウと唸りを立て、不可視の刃となって使役者と牛を襲う。
細かな鋭い傷がぱっくりと牛と使役者の体に開いていく。
「音叉!」
あの人に命じられ、狼達が高い音で喉を震わし共振させる。頭が割れるような、全身に響く音。それを真っ向から受けた使役者と牛が倒れる。
あの人が狼から降りる。黄色い狼が伏せて、降りるよう私を促した。魔力の回路を切って降りた。
「さぁ、あと少しだ。黒虎、黄虎、見張っててくれ。」
入り口に張ってある注連縄を切り、あの人が森に入っていく。
「マカイラも待ってて。」マカイラは尻尾を丸めて地面に伏せた。黒虎と黄虎が近付いてきて何やらちょっかいを出そうとしている。クーンと助けを求めて泣いた。
「あまり怖がらせないでね。」一応声掛けはしてみた。黄虎が羽を分かったとでもいう風に揺らしたから大丈夫だろう。
森の中へ足を踏み入れる。
「古い時代に封印されて、忘れ去られていたんだね。あの入り口に居た守番は、この土地に回された国の魔物使いだ。三の森のことを何も知らない。私のようにね。」
私も知らない。水の精が余計な事をしなければ、一生知らなかっただろう。懐かしい気がするのは錯覚だ。あの緑の獣がいる古い森。黒い靄が漂い、虫の声もしない静かな場所。
「ティア、道案内をお願いできるかい?」
水の精が現れる。続いて地面から泥が盛り上がり水霊も姿を見せた。コポコポと泡立つ。
「よろしくお願いするよ。」ズズズと音を立て水霊が先導する。すると、その先を木々が動き道を開けた。この森は魔に浸り過ぎている。緑の獣が出てきた以上、この森も焼かれてしまうだろう。
前の方が明るくなる。木が途切れ、ぽっかりと草花に覆われた場所に出た。半分に折れた巨大な大木に巻きつき、全身に傷を負った緑の獣が首をもたげていた。
陽光は穢れを纏うその身を輝かせていた。あの人が私の前から避ける。水霊がバシャンと音を立てて姿を消した。一歩、前に進むと、緑の獣がしゅるりと動いた。輝く緑の毛に赤が混じる。
あの時の様に、緑の獣は待っていた。
「私は貴方が待っている人とは違う。」
きっと、勘違いしているだろう神魔にいう。
「だから契約はできない。」
魔力を神魔に伸ばす。回路が繋がり、魔力を送り出す。
「三の森より下った人の子の末裔、高森凜祢が申し上げる。この魔力を貴方の糧にすると。」
手助けするだけだ。この緑の獣が自由になるのを。
緑の獣に欠けていた魔力が満ちるのが、回路を通じて感じ取れた。緑の獣の中は外見に相応しくなくボロボロになっていた。底の抜けたバケツのように緑の魔物自身の魔力が抜けているのを感じる。魔物使いの端くれである私はそれを多少緩和する方法を知っている。
肉の器に魔力を宿す。これは身体強化系の魔術で、使い方を誤ると逆に体を壊す原因になる。しかし、こうした弱った個体に負担にならないよう魔力をかけ続けるなら別だ。術者の負担が大きくなるが、ここにきたのはこの為だといってもいいので、全力で魔力を操作する。
「時間があるなら、それはいい手だと言えるだろう。」
集中する私にあの人の声が掛かる。あまり気を乱したくない。緑の獣は草の絨毯に腹這いになり、深い呼吸をして私の魔力を受け入れている。
「ウォーーーーーン。」高く響く声が静けさを裂く。狼の警告。
「けど、守番は待ってはくれないようだ。」
バキバキと木が折れる音。段々と近づいてくる。続いて鼻腔をつく焦げた臭い。
緑の獣が体を持ち上げる。二頭の狼がこちらへ飛び出してきた。黄虎がマカイラの首を咥えている。黒虎がキンと音叉を放った。ブオッと重音が森の方から放たれ相殺される。
牛とその使役者が三頭と三人。あの人が水の精と一緒に立ちはだかる。
「どうしたもんかね。逃がすにしても三の森の魔物がそれじゃ、すぐに追いつかれてしまう。」
「あなたが契約すればいいじゃないですか。」
緑の獣が私の前に立ち低い唸り声をだした。マカイラの魔力の回路を探り、こっちの方へ来るよう断続的に魔力を送ってサインを出す。マカイラが耳を伏せてこちらに駆け寄ってくる。
「できるならしてるよ。けどね、どうも僕の魔力は嫌いみたいで、君じゃなきゃ受け付けてくれないようだ。だから、もし本当に君がその魔物を助けたいというなら、僕じゃなくて、君がどうにかしないといけないだろうねぇ。」
牛が翼膜を広げる。魔力が集中し赤くなり熱で大気が揺らいだ。
「ティア。」水の精が手を掲げ半円の水のシールドを張った。牛の放った熱源がぶつかりジュッと音がして熱い蒸気がもうもうと立ち込める。
牛の一頭が突進する。黒虎がいち早く反応し正面からぶつかる。牛を受け止め、その気勢を削ぐがぐらりとふらつき黄虎が変わりに牛に追い討ちをかけようとした。
「火反、さがれ!」牛の契約者が察知して他の牛の魔物が援護できる場所まで戻す。黒虎、黄虎も追撃せず距離を空けた。
「できれば、見逃してほしいけれど、無理かな。」あの人が無茶な事をいう。
「ふざけるな。場をこんなに荒らしといて、厳罰は免れないぞ!」守番の一人が荒々しい声をあの人に向けた。
「そうはいっても、僕はこの魔物を助けたいだけなんだがね。」牛達がまた翼膜を広げる。消耗戦だ。
緑の獣が体を動かす。するりするりと這って、守番に向かっていった。
「それは人を食らう魔物だ。じきに処分が下されるだろう。」
「くわん!」緑の獣が緑の魔力弾を投げ打つ。
「炎障!」守番の号令に従い三頭の牛が揃って翼膜から火炎を幅広に開いて壁のようにつなげた。緑弾が弾け礫のように砕ける。
「どうするんだい?このままでは三の森の魔物は助からないよ。」
あの人が私を見る。私は泣きたい気分で魔力を緑の獣に伸ばした。今ので折角流した魔力がおじゃんになった。回路をつなげる。激しく動き出した緑の魔物に魔力は途切れ途切れになる。
あの人の魔物は緑の獣のフォローをしない。突進した牛の角が、緑の獣の腹を裂く。くわんと鳴いて、突進してきた牛の首に噛み付きその体を放り投げる。目を回した牛が森の木にぶつかった。
緑の獣の全身から傷が開いて血が流れる。緑に輝く毛が、赤茶に汚く染まっていく。
回路を繋げた。深い場所に魔力を流す。マカイラと同じように。
「くわん!」一際大きな声で緑の獣が鳴いた。緑の獣が戦闘を止めこちらへ這ってくる。あの人が、追いかけようとしていた牛達を水の精のシールドで阻んだ。
視界一杯に緑の獣が近づく。
「サンノモリノアルジガツゲル。サンノモリヨリクダッタヒトノコノマツエイ、タカモリリンネニ。フルキヤクソクハハタサレ、イマイチドケイヤクガナサレルコトヲ。」
緑の獣と魔力の回路が繋がった。
「くわん!」音と共に三の森の主から衝撃波が繰り出される。あの人の魔物諸共守番達が吹っ飛ぶ。
「手加減してほしいなぁ。空中散歩といこう。」駆け寄っていった黒虎にあの人が乗る。黄虎がマカイラを咥え体当たりを私にかまして空に攫った。緑の獣がくわんと怒って後を追ってくる。魔力がきついくらいに吸い取られるのを感じた。
「新しい、魔物使いの門出だ。思わぬ拾い物になったねぇ。」
あの人が笑う。意識が薄らいでいく。視界の端に緑の獣が見えた。私の魔力を遠慮なしに吸って、緑の毛並みを波打たせていた。黄虎に背負われる私をその顔が覗き込む。手を伸ばすと目を細め、くわんと鳴いた。緑の獣はやはり美しく、ざらついた舌が頬をなめる。
体から力が抜けて、黄虎から滑り落ちる。緑の獣がその背に私を受け止めた。緑の獣の魔力の回路から断続的なサインが送られ続けていた。私の家に古くから伝えられてきたサインと同じだった。
マッテイタ
緑の獣の体を抱きしめる。
サインを返す。
くわんと緑の獣が鳴いた。
私は、獣に恋をした。