枯れない花
頬を撫でた風のやわらかさに、私は懐かしいと思った。僅か一ヶ月のことなのに、妙な感覚だ。
多忙な人が一ヶ月前のことを懐かしむなら分かる。しかし、私は一ヶ月の間ずっと、病院の中で過ごしていた。この一月に流れた時間の長さは、他の人のそれと違うと思う。それでも、今私の触れ、感じる世界は、記憶の中にある一ヶ月前の世界とは、何もかも少しずつ違って見えていた。時間の経過とは違う、その変化が世界ではなく、私自身によるものであることは、ちゃんと理解している。
今の私は、前の私とは違う。今はまだそれに慣れていないだけなのだ。私は深呼吸をすると、心の中で私自身にそう言い聞かせた。
今日は久しぶりの外でくたびれたから休むとしても、明日からは元通りの、そして新しい私の生活を過ごしていこう。彼との約束もあるのだ。彼のことだ、一ヶ月の間で気持ちに変化があるとは思えないが、私の不在の間に行動に移しているとも思えない。挙句、いざ妹に会うとなって、何と言い訳をして先延ばしにしようとするかわからない。私はそんな彼の姿を想像して、思わず笑ってしまった。私の奇妙な行動に、わざわざ今朝東京からやってきた母は眉を寄せた。私は笑ったままそれを誤魔化し、久しぶりの別荘のドアを開いた。
私は幼い頃から心臓に重い病を患っていた。外もあまり出ずに一日を家の中で過ごし、食も細かった為、細身の体に白い肌、そして黒い長く真っ直ぐに伸びた髪と、良家の箱入りの美少女を絵に描いた様な容姿をしてた。そんな私を、周囲の友達は羨ましがったが、私にとっては彼女達の外で遊んでいる姿の方が、美しく、そして羨ましかった。
私の病を治す方法は、心臓を移植するしかないらしい。つまり、脳死状態になったドナーから心臓を提供してもらうしかないのだ。心臓を心や魂、命なんかに代名して呼ぶことがしばしばあるけれど、私の場合、まさに命を提供してもらうことでしか生きる道はないのだ。
半年前までは、会社の社長をしながら一人で私を育ててきた母のいる東京で暮らしていた。しかし、私の命があまり長くないかもしれないという診察結果と、次のドナーで心臓移植が受けられる可能性があると分かり、患者である私の体調が少しでも良い状態であることがその可能性を高めると同時に、私の命を少しでも長く保たせるという理由で、半年前から私は東京から遠く離れた海辺の町にある別荘で過ごしている。
別荘は、白い砂浜の前に建てられたコテージで、私が幼い時から大好きな場所だ。本当は母もずっと一緒に暮らす予定であったが、突然会社で大きな問題が起きてしまい、暮らし始めて一月と経たない内に母は東京へ帰ることになってしまった。
それから別荘には私一人が暮らし、身の回りの世話は、別荘の管理をお願いしていた老婦にお願いすることになった。彼女は、元々良家の女中を勤めていた、謂わば家事のスペシャリストで、病人の私のことも快く引き受けてくれた。
彼女は、ただの世話好きな老婦ではなかったのは、私にとってもとてもよかった。病人とはいえ、私は未成年の少女と云われる年齢だ。何かと一人で過ごしたいと思うことは多く、他人の干渉を煩わしいとさえ思うこともあった。その点、彼女は十二分に私を理解していた。私が必要な世話事、食事や掃除、洗濯に買い物などを必要な時に、必要な事だけ私に求め、それに応えてくれた。何度かわがままな注文をしたこともあったが、彼女は嫌な顔一つせずに、すぐにそれに応えてくれた。実に丁度いい距離を取ってくれていたのだ。
彼女の存在もあり、私は一日の殆どを浜辺に面したサロンで、安楽椅子に座って本を読んで過ごしていた。一面がガラスの窓になっているサロンは、それらを開く事で風が中を流れる構造になっていた。私の最高のひと時は、晴天の日に窓を全開にして、安楽椅子に揺られて、昼寝をすることだ。
別荘暮らしが始まって四ヶ月が経ったあの日も晴天で、私は昼寝を満喫していた。
雲がかかったのか、瞼の上に感じていた日の光がなくなった。私はそのまま夢うつつに昼寝を楽しもうと思ったのだが、何かが変だ。
私は、薄く目を開いた。
「可愛い寝顔だね」
丸みのある声と、端整な顔立ちの青年の笑顔が、私の眼前に現れた。
その顔の距離があまりに近いことか、この顔が世にいうイケメンであることか、それともこの声も顔も一切私に覚えのないことか、どれに対して驚けばいいのか一瞬で判断することができなかった私は、とりあえず目を瞬かせた。
一方、彼は笑顔を一層にくしゃくしゃにして頷いた。
「うん、やっぱり可愛い」
それが、彼との出会いだった。
彼は旅に出ている途中で、数日前からこの近くに居ついているのだと語った。
容姿が良いこと以外は、怪しい不審人物そのものであったが、私は何故か彼と昔からの友達とする様に、世間話をしていた。
「それで今はここで暮らしているんだね」
彼はその手に砂浜から取り上げたヤドカリを触りながら言った。私よりも幾つも年上であろう彼だが、日向ぼっこをしている猫の欠伸の様におっとりとした口調は、同い年か年下と話している様な錯覚になる。
それから私と彼は色々な話をした。内容は空に浮かぶ雲の形のことなど、どれも他愛もない話だった。しかし、その時間はとても楽しかった。
「そろそろ行くね」
彼は無邪気な笑顔を向けて白い砂浜に降りた。そして、手に持っていたヤドカリを砂浜に放す。
「明日も来てくれる?」
気が付いた時には、すでにそれを口に出した後であった。一瞬にして頬が熱くなるのがわかる。
しかし、彼はまた幼い子どものするような笑顔で頷いた。
「うん、また明日も来るよ」
彼は、そのやわらかい声を私の耳に余韻となって残し、私の視界から去った。
その日から、彼は本当に毎日私の前に現れた。彼は昼過ぎかの私がサロンで昼寝をしているところを見計らいやって来ているようであった。
はじめの一週間は晴れが続いていたが、次の週になると雨になった。流石に今日は来ないと思っていたのだが、窓を叩く音が聞こえ、見ると傘を差した彼が立っていた。
そうして、一日一日と、私と彼の時間は流れていき、同時にその距離は近づいていった。
ある晴れた日のことだ。いつものように彼が来て、手すりの上に止まった小鳥とじゃれついている彼に、私はお願いをした。
「写真? いいよ」
彼は特に嫌がることもなく頷いた。私はすぐに老婦にカメラを持ってくるように頼んだ。
「とっても素敵なお客様なの。だから、ツーショットで撮ってね」
私は老婦にこっそりと言った。彼女ははじめ、私が何を言っているのか分からない様子だったが、カメラを持って私と彼の所に来ると、すぐに察したようだ
「はじめまして」
「まぁ、本当に素敵なお客様ですね」
彼がいつもの丸くやわらかい声で挨拶をすると、老婦は少し茶化した様な言い方をした。
「ささ、早く撮りましょう。お嬢様、もっと近づいて」
ムッとした私を、彼女は急き立て、私は言われるがままに彼の横に並んだ。
老婦は写真を現像に出しておくと言い残し、その場から立ち去った。気を遣ってくれたのかもしれない。
「私、生きていた証を残したかったのかもしれない」
「ん?」
不意に語った私の言葉に、彼はトロンとした微笑みを向けた。
「写真があれば、私とあなたがここにいたって事実が残るし、あなたの心にも私が生きていたことが残るかもしれない」
「僕は君を忘れたりしない。それに、君は生きるよ」
彼は優しく私の頭を撫でて言った。そして、一呼吸置いて、ポツリと言った。
「それに、僕は証を残せずにいる人間だ」
「え?」
顔を上げた私に、彼は笑って誤魔化した。
「じゃあ、僕は行くね。また明日」
妙なモヤモヤ感を私に残し、彼は風の様にサロンから去ってしまった。
翌日、いつも通りやってきた彼に、私は問いただした。少しの間、彼は色々と話題を変えようとしたが、私が折れないと分かると観念したのか、彼はゆっくりと話し始めた。
「僕には、妹がいるんだ」
初めて明かされることに私は少なからず驚いた。そして、彼と会って早くも一ヶ月が経とうとしているのに、まだ彼のことを一切知らないことに気がついた。
彼は続ける。
「僕はここに似た景色の海辺の町で妹と二人で暮らしていたんだ。両親を亡くしててね。あまり仲の良い兄妹とは言えなかったけど、二人で暮らしていたんだ。……その日、妹の誕生日だったんだ。僕はうっかりそれを忘れてしまった。それがケンカのキッカケだった。多分、そのキッカケは何でもよかったんだと思う。結果、僕はそのまま外へと出て行った。元々、家に稼ぎを持ってきていたのは僕より妹だったから、いい厄介払いだったのだと、僕は思った」
「本当にそう思うの?」
「実は、君と会ってから、ちょっと自信がなくなってきているんだ。もしかしたら、妹は僕の帰りをずっと待っているんじゃないかって」
「それは当然よ。だって、二人きりの家族なんでしょ?」
私は床に腰を下ろして話していた彼の顔を覗きこんだ。彼は私と視線を合わせようとしない。
「今更どうやって帰ればいいのか、わからないんでしょう?」
「それは……」
「図星」
私が彼の額に指を突き立てて言うと、彼は悪戯をした子どもの様に、小さい声で、うんとだけ言った。
「じゃあ、こんなのはどう? 妹さんに渡す予定だったプレゼントを持っていくの。手ぶらで帰るよりもいいでしょう?」
「うん。だけど……」
「じゃあ、私も一緒に行ってあげるわ。どう? これなら心細くないでしょう?」
「だけど、君の体が……」
「他人の心配よりも自分の心配をして。何をプレゼントするつもりだったの?」
私は彼の顔を見つめた。しばらくキョロキョロとしていた目は、やがて私の目と合わせた。
「妹と約束をしていたんだ。誕生日プレゼントに、枯れない花を贈るって」
「枯れない花? 造花かしら?」
「ううん。プリザーブドフラワーというもので、花を綺麗な状態のまま保存できるものなんだ。それで、妹の好きなトルコキキョウを贈ろうと決めていたんだ」
彼は少し照れつつも言った。聞き終えた私は両手をパンと合わせた。
「うん。じゃあ、それを用意してきて。私が用意しても意味がないでしょう? あなたが買ってくるの。そうしたら、私と一緒に妹さんのところに行きましょう?」
「……うん。わかった。買ってくるよ」
彼はまだ少し渋っている様子だが、結果的には買ってくることになった。そして、彼はいつも通り、砂浜へ去っていった。
その日の夜、病院から連絡が来て、急遽心臓移植を受けることになった。ドナーが見つかったのだ。
ドアを開き、私を一ヶ月ぶりの別荘が迎えた。床も壁の色も、香りも全て変わらない。半年ですっかりここは私の居場所となっていた。
「お嬢様、今日はお疲れでしょう? ゆっくりお休み下さい」
奥から私を迎えに出てきた老婦が私に言った。私は頷いた。
「そうさせてもらうわ。……あ、彼は心配していたかしら?」
寝室へ向いながら、私は彼女に聞いた。心配は、してほしいという私の願望だが、突然いなくなったのだ、少なからず戸惑ったことだろう。
「彼?」
しかし、予想外に彼女は手を頬に当てて、首をかしげた。
「ほら、前に会ったでしょう? サロンに来ていた若い男の人よ。……ほら、写真を撮ってもらった時の」
私は彼女が思い出せるように説明をした。しかし、彼女は不思議な顔をした。
「あの時のことは覚えていますよ。素敵な小鳥が来たので、お嬢様に写真を撮ってほしいとお願いされました。でも、あの時、サロンに男の人なんていませんでしたよ? いたのは、私とお嬢様と、その小鳥だけでしたが……」
その時、私には何を老婦が言っているのかわからなかった。
「ああ。そういえば、あの時の写真が出来上がっていますわ」
彼女は一度奥に戻ると、写真を持ってきた。
私はその写真を受け取ると、恐る恐る写真を見た。写真には、サロンの手すりに止まる小鳥と、その横でピースをする私の姿だけであった。彼は、いなかった。
「お嬢様は大きな手術を受けて、まだ色々と混乱されているのですよ。ゆっくりとお休み下さい」
状況が理解できずに戸惑う私に、老婦は優しく言った。母も優しい目で微笑み、眠りにつく私を見届けた。
翌日、私はサロンにいた。その翌日も、そのまた翌日も、私はサロンで彼が現れるのを待った。しかし、彼はついに現れなかった。
そうして、一ヶ月が過ぎ、私は彼が存在しない、私の空想が生み出した人間であると理解し、それを受け入れた。
そして、彼に続いて、私もこの別荘から去る日が来た。母の住む東京へ帰ることになったのだ。
荷物をまとめた私は、サロンに立った。
「さようなら」
一言、別れを告げ、私は帽子を被ると、サロンの扉を閉めた。
東京に帰った私は、高校に通い始めた。周りが皆年下の環境に苦労しつつも、少しずつ馴染み、次第に私は彼のことを忘れ始めていた。しかし、どうしても彼とした妹の所へ行くという約束が気になっていた。
そんなある日、図書館の本で、臓器移植をして、ドナーの記憶を引き継いだという話を見つけた。
彼はドナーだった。私は思った。そして、決心した。彼の心を引き継ごうと。
数週間後の日曜日、私は知らない海辺の町にいた。初めて来た町であったが、その景色は別荘の周りと似ていた。
ドナーの身元は、患者に知らされない。だから、私は様々な方法で探した。そして、やっと見つけた住所がこの町であった。
ドナーは成人男性で、妹と二人で暮らしていたらしい。移植の決った日は、彼女の誕生日だったそうだ。
「……ここだ」
私は一軒の家の前で足を止めた。メモに書かれている住所に間違いなかった。
私は、片手に抱えていたトルコキキョウのプリザーブドフラワーの花束をギュッと握り直すと、チャイムを鳴らした。
【FIN】
どうも、宇多瀬です。
皆様も、記憶と事実が違うって経験があると思います。多くの場合、事実に真実があって、思い違いだという事で終わるのですが。
もしかしたら、事実にはなかった。記憶が作り出した幻に、何かの真実があるかもしれない。本作はそれを描いてみました。
あまり多くは語らない方がいい作品だと思うので、作品についてはこの辺にしますが、一つだけ書いておきましょう。
トルコキキョウの花言葉は、「優美」「変わらぬ美しさ」「よい語らい」、そして「希望」です。
明るい内容ではないだけに、希望のある作品に仕上がっていれば幸いです。
ではでは、ご意見、ご感想がありましたら、ご連絡下さい☆