羊飼いと白い外套の男
人は、何のために生きるのだろうか。
食べるためか。眠るためか。それとも、明日という日を迎えるためか。
エイト・デイガーは、そんなことを考えたことさえなかった。
彼にとって人生とは、朝になれば起き、羊を連れて丘へ向かい、日が沈むまで群れを見守り、帰宅したら夕食を食べて眠る。その繰り返しだった。
生まれ育った土地は、巨大な城壁に囲まれた人類の聖域だった。
遥か昔から、人間たちはこの地を楽園と呼んできた。外敵の侵入を許さず、肥沃な大地と豊富な水に恵まれ、幾多の王朝が入れ替わろうとも、人類の繁栄を支え続けてきた土地。
もっとも、エイトのような辺境の住民にとって、歴史とは教会の壁に描かれた絵画か、酒場で老人たちが語る昔話に過ぎなかった。
世界の外に何があるのか。
城壁の向こう側にどんな国が存在し、どのような人々が暮らしているのか。
そんなことを知る機会はなかったし、知りたいとも思わなかった。
エイトは孤児だった。
両親の顔は、ほとんど覚えていない。物心がついた頃には、すでに独りだった。幸いにも、近隣の農家が彼を引き取り、最低限の読み書きと計算を教えてくれた。その後、身体が成長すると同時に、彼は自分の食い扶持を自分で稼ぐようになった。
羊飼い。
それが、エイトの職業だった。
朝露に濡れた草を踏み、丘の斜面を歩き、羊の群れを追いかける。空が青ければそれだけで気分がよかったし、雨が降れば羊たちが風邪をひかないように気を配った。
退屈な日常だった。
しかし、不幸ではなかった。
少なくとも、彼は自分の人生を不幸だと考えたことはなかったのである。
ある日の午後。
いつものように丘の上で羊を見守っていたエイトのもとへ、一人の男がやってきた。
白い外套を着た男だった。
ただし、その外套はあまりにも古びていた。裾は擦り切れ、袖口には泥がこびりついている。旅人にしては荷物が少なく、商人にしては身なりが貧相だった。
男はエイトから少し離れた場所で立ち止まると、羊の群れを眺めた。
「いい景色だな」
「そうですね」
「君は、ここで毎日こうして過ごしているのか?」
「はい。朝から夕方まで」
「楽しいか?」
エイトは男を見た。
唐突な質問だった。
「……別に、普通です」
「普通か」
男は、何かを確かめるように頷いた。
「では、君は幸せなのか?」
今度こそ、エイトは答えられなかった。
幸せ。
その言葉の意味は知っていた。絵本の中では、王子と姫が結婚すれば幸せになる。教会の説教では、善良な人間は死後に神の国へ迎えられ、永遠の幸福を得るという。
しかし、自分自身が幸せなのかと問われれば、答えに困った。
「……わかりません」
「人生を楽しんでいるか?」
「さあ」
「今の生活で満足しているか?」
エイトは黙り込んだ。
風が丘を吹き抜け、草原が波のように揺れた。
羊たちは何も知らない顔で草を食み、遠くでは鳥が鳴いている。
何も変わらない。
昨日も今日も、おそらく明日も同じだろう。
それなのに、男の質問を聞いてからというもの、エイトは初めて自分の生活を意識していた。
どうして働いているのだろう。
食べるため。
では、食べて何をするのだろう。
生きるため。
では、生きて何をするのだろう。
「君は金を稼いでいるのだろう?」
男が尋ねた。
「はい」
「その金で食事を買い、服を買い、家賃を払い、余った金を貯める。そうして、また働く。違うか?」
「……違いません」
「ならば聞こう。君は、何のために金を稼いでいる?」
エイトは眉を寄せた。
「生きるためです」
「では、生きるのは何のためだ?」
その問いに、エイトは何も答えられなかった。
男は笑わなかった。
馬鹿にすることも、呆れることもなかった。
ただ、穏やかな声で言った。
「物事には原因と結果がある。火を起こせば熱が生まれ、種を蒔けば作物が育つ。人が働けば金を得る。しかし、得た金で生き延びることだけを目的にするなら、君の人生は生き延びることだけで終わってしまう」
「それは……悪いことなんですか?」
「悪いことではない。だが、君がそれで満足できないのなら、別の理由を探すべきだ」
男は丘の向こうを指さした。
城壁の内側に広がる町。その中心には、石造りの建物が幾重にも連なっている。
「君には家族がいるか?」
「いません」
「恋人は?」
「いません」
「ならば、誰かを愛してみるといい」
エイトは目を瞬かせた。
「……愛する?」
「そうだ。誰かと暮らし、食事を共にし、相手のために働き、帰りを待たれる人間になってみる。自分が生きていることを、自分以外の誰かが喜んでくれる。それは、悪くないものだ」
男は再び羊たちに目を向けた。
「君は今、何のために生きているのかと問われて答えられなかった。ならば、答えを探してみればいい。結婚でもしてみたらどうだ?」
「……随分と簡単に言いますね」
「人生のすべてが難しいわけではないさ」
男はそう言って歩き始めた。
エイトは、その背中を見つめていた。
「待ってください」
男が振り返る。
「あなたは、何のために生きているんですか?」
白い外套の男は、しばらく考えるような顔をした。
やがて、薄く笑った。
「私はね、自分が何者なのかを確かめるために生きている」
「何者なのか……?」
「そうだ。人間というものは、与えられた環境だけで決まるほど単純ではない。追い詰められたとき、何を選ぶのか。失ったとき、何を求めるのか。そして、何もかも手に入れたとき、何を捨てるのか。そういうところに、本当の姿が現れる」
男は外套の襟を直した。
「君も、いつか自分自身に驚く日が来るかもしれない」
その言葉を最後に、男は丘を下りていった。
エイトは追いかけなかった。
ただ、羊たちの鳴き声を聞きながら、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
その日、エイトは初めて、自分の人生について考えた。
そして数週間後。
彼は本当に結婚した。
相手は、町の向こう側にある冒険者ギルドの経営者だった。
名を、ヴィエスタ・デイガーという。
彼女は快活な女性だった。商談では抜け目がなく、冒険者たちからの信頼も厚かったが、エイトの前では時折、年相応の少女のような表情を見せた。
二人の出会いは、羊毛を売りに町へ出向いた際のことだった。
ヴィエスタはギルドで使う毛布の調達先を探しており、エイトが持ち込んだ羊毛の品質を気に入ったのである。
最初は商談だけだった。
次は世間話。
その次は一緒に食事をするようになり、いつの間にか、エイトは彼女の店を訪れることが日課になっていた。
結婚は驚くほど早かった。
エイトには財産と呼べるものがほとんどなかったが、ヴィエスタは気にしなかった。
「あなたは、いつか立派な人になるわ」
結婚式の夜、彼女はそう言った。
「立派な人って?」
「さあ。あなた自身が見つけるんじゃない?」
その言葉に、エイトは笑った。
彼はまだ、何者でもなかった。
羊飼いであり、孤児であり、そしてヴィエスタの夫だった。
それだけで十分だと思っていた。
二人の生活は、幸福だった。
ヴィエスタは朝早く起きて弁当を作り、エイトは羊たちを連れて丘へ向かう。
昼になると、彼は木陰に腰を下ろして弁当を開いた。
焼いた肉。
香草を混ぜたパン。
野菜のスープを詰めた小さな容器。
そして、毎回違う短い手紙。
『ちゃんと食べること。夕方には帰ってくること。あなたがいないと、家が広く感じるから』
そんな他愛のない言葉を、エイトは何度も読み返した。
食事を終えると、彼は弁当箱を丁寧にしまい、羊たちを見守った。
風が吹く。
雲が流れる。
遠くで町の鐘が鳴る。
そのたびに、彼は帰宅したあとのことを考えた。
ヴィエスタの作る夕食。
暖炉のそばで交わす会話。
そして、いつか二人の間に子供が生まれたなら、どんな生活になるのだろうかという想像。
彼は初めて、自分の未来を楽しみにするようになった。
自分が稼ぐ金には、意味があった。
誰かと暮らすために働き、誰かと笑うために帰る。
昨日まで漠然としていた人生に、確かな目的が生まれていた。
エイト・デイガーは、幸福だった。
だからこそ。
その幸福が、どれほど脆いものであるかを、彼は知らなかった。
—聖域の命令—
異変が起きたのは、二人が結婚してから一年も経たない頃だった。
ある朝、町の中心にある鐘楼から、異例の鐘が鳴り響いた。
普段なら、時刻を知らせるために鳴らされる鐘である。
しかし、その日は違った。
短く、鋭く、何度も繰り返される音。
住民たちは仕事の手を止め、通りへ出た。
やがて、王国の兵士たちが広場へ集まり始めた。
王都から派遣された使者が、群衆の前に立った。
彼の手には、王印の押された命令書があった。
「聖域に住まうすべての民に告ぐ!」
使者の声が広場に響き渡った。
「近隣諸国が、我らの領土への侵攻を企てているとの情報が入った! 新たな国王陛下のご判断により、我が国は敵国の軍備が整う前に、これを討伐する!」
人々の間にざわめきが広がった。
「国境付近の防衛だけでは、将来の脅威を排除できない! よって、王国は遠征軍を編成する。各地区の成人男性には、軍務への参加が求められる!」
求められる。
その言葉が何を意味するのか。
広場にいた人々は、すぐに理解した。
「なお、各地区の責任者は、速やかに人員を報告すること。軍への参加に際しては、王国の定める補償金を支給する!」
使者が命令書を読み終えた。
だが、群衆の反応は鈍かった。
戦争。
その言葉は、彼らにとって遠い世界の出来事だった。
聖域の内側で生まれ育った者たちの多くは、外の世界を知らない。
国境を守る兵士がいることは知っていても、彼らが何と戦っているのか、詳しく知る者は少なかった。
ましてや、自分たちが武器を取って戦うことなど、想像すらしていなかったのである。
エイトも、その一人だった。
彼は広場の後方で、ただ話を聞いていた。
遠征。
軍務。
補償金。
聞き慣れない言葉が並んでいたが、彼の頭に浮かんだのは、別のことだった。
ヴィエスタは、どうするだろう。
一人でギルドを切り盛りしている彼女は、自分がいなくなれば困るに違いない。
それに、約束したばかりだった。
来年は少し遠くへ旅行しよう。
二人で、まだ見たことのない景色を見に行こう。
その約束は、どうなるのだろう。
「エイト?」
振り返ると、ヴィエスタがいた。
人混みの向こうから彼を探し、ようやく見つけたらしい。
彼女は不安そうに眉を寄せていた。
「帰りましょう」
その声には、いつもの明るさがなかった。
エイトは頷いた。
二人は手をつないで帰った。
家に着いても、どちらもすぐには口を開かなかった。
夕食の準備は進まなかった。
暖炉には火が入っていたが、鍋は空のままだった。
やがて、ヴィエスタが尋ねた。
「あなたは……行くの?」
エイトは彼女を見た。
「わからない」
「断れないの?」
「命令だと言っていた」
「でも、あなたは兵士じゃないわ」
「そうだね」
エイトは自分の手を見下ろした。
羊の世話をするための手だった。
剣を握ったこともない。
人を殴ったことさえ、ほとんどなかった。
そんな自分が戦場へ行く。
それは、あまりにも現実味のない話だった。
「……すぐに帰るよ」
彼は言った。
「戦争なんて、僕にはよくわからない。でも、僕はただの羊飼いだ。きっと、後方で物資を運ぶくらいの仕事になると思う」
ヴィエスタは何も答えなかった。
ただ、彼の手を強く握った。
「絶対に帰ってきて」
「うん」
「約束して」
「約束する」
その夜、二人は長い時間を一緒に過ごした。
翌朝、エイトは召集に応じた。
別れ際、ヴィエスタは彼の首に小さな布袋をかけた。
中には、二人が結婚した日に交換した指輪の片方が入っていた。
「なくさないでね」
「わかった」
「帰ってきたら、また二人で丘へ行きましょう」
エイトは笑った。
「今度は、君が弁当を作ってくれるんだろう?」
「当たり前でしょう」
ヴィエスタも笑った。
その笑顔を、エイトは目に焼きつけた。
そして、彼は歩き出した。
振り返れば、足が止まってしまう。
だから、振り返らなかった。
彼はまだ知らなかった。
その背中を見送った妻との約束が、どれほど残酷な意味を持つことになるのかを。
—バーサーカ—
徴兵された男たちは、王都の外縁にある訓練施設へ集められた。
そこには、農民、職人、商人、狩人、鉱夫など、さまざまな人間がいた。
誰もが不安を抱え、誰もが戦争を恐れていた。
もちろん、例外もいた。
幼い頃から剣術を習っていた者。
冒険者として魔物を討伐してきた者。
あるいは、戦場で名を上げることを夢見ていた者。
しかし、エイトはそのどれでもなかった。
彼は剣の握り方すら知らなかったのである。
「おい、そこの羊飼い!」
訓練場の教官が怒鳴った。
「剣を持て!」
エイトは渡された剣を見下ろした。
金属の塊。
重く、冷たく、無機質な道具。
彼は柄を握り、教官の指示どおりに構えた。
「腰が引けている! 敵を斬るつもりで振れ!」
エイトは剣を振った。
空気が鳴った。
「遅い! もう一度!」
再び剣を振る。
「力が入りすぎだ! 腕だけで振るな!」
何度も、何度も繰り返した。
最初はぎこちなかった。
剣の重さに振り回され、足元が崩れ、何度も姿勢を直された。
しかし、数時間後には変化が現れた。
エイトは教官の動きをよく観察していた。
剣を振る際の重心。
足を踏み出す角度。
相手の攻撃を受け流すときの手首の使い方。
それらを見て、自分の動きに取り入れていく。
教官が一度見せた動きを、エイトは次の試行で再現した。
完璧ではない。
だが、明らかに習得が早かった。
「……お前、本当に剣を握ったことがないのか?」
「はい」
「嘘をつくな」
「本当です」
教官は彼を睨んだ。
しかし、それ以上追及することはなかった。
エイトの適応力は、確かに優れていた。
羊の群れを管理する仕事は、単純なようでいて観察力を必要とする。
羊がどの方向へ動きたがっているのか。
群れの中で何が起きているのか。
天候が変わる前兆は何か。
そうした細かな変化を見逃さず、状況に合わせて行動する。
エイトは長年の仕事を通じて、その能力を身につけていた。
ただし、彼自身は自分の才能を特別なものだとは思っていなかった。
「次は適性検査だ!」
数日後、訓練兵たちは施設の奥へ集められた。
そこには、魔法陣の刻まれた台座が置かれていた。
王国軍では、兵士として採用された者に対して、固有クラスの有無を調べることになっていた。
クラスとは、生まれ持った資質と魔力の性質が結びついて現れる、戦闘適性の一種である。
剣士。
騎士。
弓兵。
魔術師。
治癒術師。
そして、ごく稀に、通常の兵科では分類できない特殊なクラスが現れる。
検査官が水晶球に手をかざした。
淡い光が広がり、彼の前に文字が浮かび上がった。
「次!」
一人ずつ検査が進み、やがてエイトの番が来た。
彼は台座に手を置いた。
水晶球が光った。
最初は弱い光だった。
しかし、次の瞬間。
魔法陣全体が赤黒い輝きを放った。
検査官の顔色が変わった。
「これは……」
文字が浮かび上がる。
《固有クラス:バーサーカー》
その場にいた兵士たちがざわめいた。
「バーサーカーだと?」
「戦闘狂のクラスじゃないか」
「本当に存在したのか……」
検査官は慎重に記録を確認した。
バーサーカー。
受けた損傷や戦闘状況に応じて攻撃能力が変化する、極めて特殊な戦闘クラス。
一般的な兵士のように、決められた技術や魔法を使用するわけではない。
その本質は、戦闘の激化に応じて能力を増幅させることにあった。
ただし、制御を失えば味方すら巻き込む危険がある。
そのため、王国軍では扱いの難しいクラスとして知られていた。
「お前は、戦闘経験があるのか?」
「ありません」
「魔物を討伐したことは?」
「ありません」
「では、なぜバーサーカーが……」
検査官は困惑した。
だが、結果は結果だった。
エイトはバーサーカーとして登録された。
それから数週間後。
彼の能力が、誰の目にも明らかな形で現れることになる。
訓練の最終段階。
五人の兵士が、訓練場の中央に立つエイトを取り囲んでいた。
彼らは全員、実戦経験のある兵士だった。
手には刃を潰した訓練用の鉄剣。
一方のエイトが持っているのは、木製の大剣だった。
通常の訓練用武器よりも長く、幅も広い。
重さも相当なものだった。
さらに、彼の両足には重りのついた鎖が巻かれていた。
「これから、お前には五人を相手にしてもらう」
教官が告げた。
「逃げても構わん。だが、勝利条件は全員を戦闘不能にすることだ」
周囲の兵士たちが息を呑んだ。
五対一。
しかも、相手は経験豊富な兵士たちだ。
エイトには不利な条件が揃っていた。
「始め!」
号令と同時に、五人が動いた。
左右から二人。
正面から一人。
背後へ回り込もうとする者が二人。
エイトは、最初の攻撃を大剣で受け止めた。
木製の剣と鉄剣が衝突し、乾いた音が響く。
衝撃で腕が痺れた。
その隙に、右側から剣が振り下ろされる。
エイトは身体を捻り、ぎりぎりで回避した。
足に巻かれた鎖が鳴った。
重りが地面を擦り、彼の動きを鈍らせる。
「遅い!」
兵士の一人が叫び、剣を振るった。
刃がエイトの肩を掠めた。
訓練着が裂け、皮膚に浅い傷ができる。
血が滲んだ。
その瞬間だった。
エイトの視界が、わずかに変わった。
痛みが消えたわけではない。
むしろ、傷の存在がはっきりと意識に刻み込まれた。
しかし、それと同時に、身体の奥底で何かが目覚めたような感覚があった。
呼吸が深くなる。
心拍が上がる。
握っている大剣の重さが、先ほどよりも明確に感じられた。
エイトは正面の兵士を見た。
相手が剣を引き戻す。
その動きを、彼は正確に読み取った。
一歩踏み込む。
木製の大剣が横薙ぎに振るわれた。
鈍い衝撃音。
兵士の身体が横へ弾き飛ばされ、地面を転がった。
「なっ……!」
二人目が反応するより早く、エイトは剣を引き戻した。
下段からの振り上げ。
木製の刃が相手の武器を弾き、手から剣を叩き落とす。
続けて、肩口へ一撃。
兵士は呻き声を上げて倒れた。
「全員でかかれ!」
残る三人が同時に襲いかかった。
エイトは後退しなかった。
左から来る剣を柄で受け流し、右の兵士へ身体を向ける。
その瞬間、背後から一撃が飛んだ。
今度は避けきれなかった。
鈍い痛みが背中に走る。
しかし、エイトの動きは止まらなかった。
大剣が振るわれる。
一人が地面へ倒れた。
次の一撃で、もう一人の剣が弾き飛ばされた。
最後の兵士は、明らかに怯えていた。
「待て、もう――」
エイトは剣を止めた。
相手の顔を見つめる。
そして、ゆっくりと大剣を下ろした。
訓練場が静まり返った。
戦闘開始から、わずか数十秒。
五人全員が戦闘不能、あるいは継続困難な状態になっていた。
教官が駆け寄った。
「おい! 医療班を呼べ!」
倒れた兵士たちが運ばれていく。
エイトは、その光景をぼんやりと見つめていた。
自分が何をしたのか、完全には理解できていなかった。
ただ、身体の奥に残る熱と、剣を握る手の感触だけが鮮明だった。
「エイト・デイガー」
教官が彼の名を呼んだ。
「お前は、今の戦闘でクラス能力を使ったのか?」
「……わかりません」
「わからないだと?」
「ただ、攻撃を受けたあと、身体が動きやすくなったような気がしました」
教官は黙り込んだ。
その後、複数の検査が行われた。
結果は明白だった。
エイトのバーサーカーとしての能力は、実際に発動していた。
彼が負傷するほど、あるいは戦闘が激しくなるほど、攻撃能力が増幅される傾向が確認されたのである。
ただし、厳密な能力上昇の限界はわからなかった。
そもそも、限界を調べるために彼を危険へ追い込むこと自体、問題があった。
それから数日後。
エイトには、正式な戦闘部隊への配属命令が下された。
そして彼は、遠征軍の前衛部隊へ組み込まれた。
羊飼いとしての生活は、終わった。
だが、彼の人生は、まだ始まったばかりだった。
—戦場の適応者—
最初の戦争は、エイトにとって現実感のないものだった。
彼が配属された遠征軍は、聖域の外にある小国を目標としていた。
敵国の城壁は低く、兵士の数も少なかった。
王国軍の将軍たちは、これを短期間で制圧できると考えていた。
実際、戦闘は数日で終わった。
エイトは初めて人間を斬った。
初めて、敵の武器が自分の身体へ向けられる恐怖を知った。
そして初めて、自分が生き残るためには、相手を倒さなければならない場合があると理解した。
最初の敵兵を倒したとき、彼はしばらく動けなかった。
剣を握る手が震えていた。
戦闘が終わったあと、吐いた。
その夜は眠れなかった。
だが、翌朝には起きた。
生きているからだ。
食事をし、装備を整え、命令に従って行動した。
二度目の戦闘では、最初ほど動揺しなかった。
三度目には、敵の攻撃を受ける前に動けるようになった。
十度目には、戦場の混乱を観察し、敵の動きから次の展開を予測するようになった。
そして、二十度目。
エイトは、自分が戦争という環境に適応し始めていることを自覚した。
彼は恐怖を感じなくなったわけではない。
恐怖があっても、必要な行動を取れるようになったのだ。
敵の動き。
味方の配置。
地形。
武器の重量。
攻撃の間合い。
すべてを観察し、最適な行動を選ぶ。
その能力は、羊飼いとして培ってきたものと同じだった。
ただし、対象が羊から人間に変わっただけである。
戦争が終わるたび、エイトは手紙を書いた。
『無事です。怪我はしましたが、もう治りました』
『次の目的地へ向かいます。落ち着いたら、また手紙を送ります』
『丘のことを思い出しました。君が作ってくれた弁当が食べたいです』
彼は自分の状況を詳しく書かなかった。
書けなかった、と言うべきかもしれない。
何を書けばいいのか、わからなかったのである。
自分が初めて人を殺したこと。
仲間が目の前で倒れたこと。
夜になると、戦場の光景が頭から離れなくなること。
そんなことを書けば、ヴィエスタを不安にさせるだろう。
だから、彼はいつも最後にこう書いた。
『必ず帰ります』
その言葉を信じていた。
自分も、彼女も。
少なくとも、最初のうちは。
第二の国は、最初の国よりも強かった。
しかし、エイトたちの遠征軍は勝利した。
第三の国も陥落した。
第四の国は、降伏を選んだ。
王国軍は戦果を重ね、占領地を拡大していった。
そのたびに、聖域から新たな兵士が補充された。
だが、戦争が長引くにつれて、遠征軍の内部では変化が起きていた。
最初に出征した兵士たちは、次々と命を落としていた。
補充兵の多くは、実戦経験のない若者だった。
彼らは戦場の現実を知らなかった。
一方、エイトは知っていた。
戦場では、勇気だけでは生き残れない。
剣の腕だけでも足りない。
どれほど強い兵士でも、包囲されれば死ぬ。
どれほど賢い指揮官でも、味方の裏切りによって敗れることがある。
そして、勝利した側でさえ、帰る場所を失うことがある。
そうした現実を知るたびに、エイトは自分の戦い方を変えていった。
彼は武器の扱いを磨き、鎧の構造を学び、戦場で使える道具を工夫した。
その中でも、特に大きな変化をもたらしたのが、左腕に装備する特殊な盾だった。
発想のきっかけは、鳥の翼だった。
ある夜、野営地の近くで、エイトは一羽の鳥が羽を広げる様子を見ていた。
風を受ける羽根。
重なり合う羽根。
互いを支えながら、柔軟に動く羽根。
彼はそこから、盾の構造を考えた。
一枚の分厚い金属板で攻撃を受け止めるのではなく、複数の金属片を重ねる。
それぞれの金属片が、鳥の羽根のように配置されている。
衝撃を一点に集中させず、重なり合った金属片によって分散させる。
さらに、外側の金属片が破損しても、内側の層が防御を維持できるようにする。
完成した盾は、通常のものよりも複雑な形状をしていた。
翼を模した、巨大な左腕用の防御装備。
それは、後に敵国の兵士たちから恐れられることになる。
翼盾。
エイトは、そう名づけた。
もちろん、欠点もあった。
重量が大きく、長時間の使用には腕力が必要だった。
しかし、エイトはその重さに適応した。
戦場で使い続けるうちに、盾の扱いは彼の身体の一部のようになっていった。
左腕で敵の攻撃を受け止め、右手で大剣を振るう。
翼盾が攻撃を防ぎ、敵の動きを制限する。
その隙に、大剣が敵を打ち倒す。
彼の戦闘スタイルは、次第に独自のものへと変わっていった。
やがて、エイトの名前は遠征軍の内部で知られるようになった。
一度の戦闘で敵陣を突破した兵士。
少数の部隊で敵の防衛線を崩した兵士。
劣勢の戦場から、部隊の生存者を連れ戻した兵士。
そのすべてが、同じ男の功績だった。
エイト・デイガー。
羊飼いとして出征した青年は、いつしか前衛部隊の中心人物となっていた。
—魔術王国—
第五の戦争は、それまでの戦争とは違っていた。
相手は、魔術を国家の基盤とする大国だった。
その王国では、兵士の多くが魔法を使う。
城壁には防護結界が張られ、城門には魔力を利用した防衛装置が備えられていた。
空を飛ぶ魔術師。
炎を操る術者。
遠距離から敵を攻撃する魔導兵。
彼らは、これまでエイトが戦ってきた敵とは比較にならないほど厄介な相手だった。
遠征軍が国境へ到着したとき、指揮官たちは慎重に作戦を立てた。
しかし、開戦から数時間で、その計画は崩れた。
敵の魔術師たちは、地形そのものを武器にした。
地面が盛り上がり、岩壁が現れ、炎が陣地を包み込む。
味方の兵士たちは混乱した。
「退却しろ!」
誰かが叫んだ。
「陣形を立て直せ!」
別の声が響く。
だが、伝令が届く前に、部隊同士の連携は断ち切られていた。
エイトの所属する前衛部隊も、敵の攻撃を受けて分断された。
周囲には負傷兵が倒れ、魔術によって生じた煙が視界を覆っていた。
空から火球が降り注ぐ。
大地が揺れた。
彼は翼盾を左腕に固定し、頭部を覆うように構えた。
重なり合った金属片が、次々と衝撃を受け止める。
盾の表面が赤く焼け、金属が歪んだ。
それでも、エイトは前進した。
立ち止まれば、周囲の兵士たちが逃げ道を失う。
彼は盾を構えたまま走り、進路を塞ぐ敵兵を大剣で退けた。
魔術師が詠唱を始める。
エイトは、その口の動きを見た。
次の攻撃が来る。
彼は足を踏み込み、翼盾を斜めに構えた。
直後、強烈な光が視界を覆った。
衝撃が全身を襲った。
盾の外側にあった金属片が何枚も吹き飛び、左腕に激痛が走った。
それでも、エイトは倒れなかった。
彼は歯を食いしばり、煙の中から姿を現した。
敵の魔術師が目を見開いた。
「なぜ、まだ立っている……!」
エイトは答えなかった。
代わりに、大剣を振るった。
魔術師の防御が崩れ、周囲の敵兵が後退した。
その隙に、彼は敵陣の内部へ踏み込んだ。
一人。
二人。
三人。
戦闘が続くほど、バーサーカーの能力が強くなる。
負傷によって増幅された攻撃能力は、彼の大剣を通常の武器とは思えないほどの破壊力へ変えていった。
だが、エイトはただ力任せに暴れていたわけではない。
彼は敵の魔法陣を見つけ、詠唱のタイミングを観察し、攻撃の届かない場所へ逃げ込む術を覚えていた。
強力な魔術にも、発動までの時間がある。
複雑な術式ほど、準備に手間がかかる。
そして、どれほど優秀な魔術師でも、接近戦が得意とは限らない。
エイトは、その弱点を突いた。
敵が詠唱を始める前に距離を詰める。
詠唱が始まったら、発動の妨害を狙う。
魔法を受けるしかない場合は、翼盾で防御し、次の攻撃へ移る。
その繰り返しだった。
戦場の中央にたどり着いた頃には、彼の鎧は大きく歪み、身体のあちこちに傷ができていた。
翼盾も、原型を保っているのが不思議なほど損傷していた。
それでも、彼は進んだ。
敵の指揮官が倒れ、魔術師たちの連携が崩れた。
やがて、王国軍は総崩れとなった。
その日の夕方。
魔術王国の王都は、遠征軍によって包囲された。
翌朝、王は降伏を宣言した。
戦争は終わった。
エイトは、崩れた城壁の上に腰を下ろし、遠くの空を眺めていた。
彼の周囲では、兵士たちが勝利を喜んでいた。
だが、彼は笑わなかった。
戦場には、帰らなかった仲間たちが残っていた。
自分と同じように、家族のもとへ帰ることを望んでいた人々。
妻を残した者。
子供を残した者。
故郷に恋人がいた者。
そして、帰る場所そのものを持たなかった者。
エイトは、彼らの名前を覚えていた。
できる限り、忘れないようにしていた。
その夜、彼はヴィエスタへ手紙を書いた。
『僕は無事です。大きな戦争がありましたが、勝ちました』
『もう少ししたら、また次の土地へ向かうそうです』
『翼盾というものを作りました。鳥の羽根のような形をしているんです。今度、帰ったら見せます』
最後に、彼は少し迷ってから、一文を加えた。
『君が作ってくれた弁当を、もう一度食べたいです』
手紙を封じる。
伝令に預ける。
それで、彼の仕事は終わりだった。
彼は知らなかった。
自分が送った手紙が、どのような場所に届き、どのような暮らしを支えているのか。
いや、正確には、疑う理由がなかったのだ。
ヴィエスタは彼の妻だった。
彼を送り出し、帰りを待つと約束した人だった。
だから、彼は信じていた。
自分が戦っている間も、彼女はあの家で暮らしているのだと。
自分が帰る日を待っているのだと。
その信頼は、彼にとって戦場を生き延びるための支えだった。
だからこそ、それが失われたとき。
彼の中で何が起きるのか。
そのことを、まだ誰も知らなかった。
—戦神—
それから、幾つもの季節が過ぎた。
遠征軍は勝利を重ねた。
国境を越え、山脈を越え、海を渡り、さらに遠い土地へ進んでいった。
戦争の規模は、当初の想定を大きく超えていた。
数百人規模の小競り合いは、数万の兵士が参加する会戦へと変わった。
一つの王国を制圧するたびに、新たな敵が現れた。
同盟国が裏切り、従属国が反乱を起こし、遠征軍の補給線が断たれることもあった。
そのたびに、兵士たちは死んでいった。
出征時に数十万いた兵士たちは、少しずつ減っていった。
補充された兵士たちも、やがて戦場で倒れた。
初めて剣を握った日のことを覚えている者は、ほとんど残っていなかった。
その中で、エイトだけは戦い続けていた。
彼は前衛部隊の指揮を任されるようになった。
その判断は、彼自身の希望によるものではなかった。
戦場における彼の生存率。
部隊の突破力。
敵の指揮官を討ち取った回数。
劣勢から戦況を覆した記録。
それらが積み重なり、彼は自然と前線の中心に立つことになったのである。
エイトは、兵士たちに無謀な突撃を命じなかった。
必要がなければ、退却を選んだ。
勝てる見込みのない戦いでは、敵を引きつける役割を引き受け、味方が撤退する時間を稼いだ。
彼の部隊は、他の部隊よりも多くの兵士を生き残らせた。
そのため、彼を慕う兵士も増えた。
しかし、敵からの評価は違った。
彼らはエイトを恐れた。
翼盾を構え、巨大な剣を振るう男。
どれほど攻撃を受けても倒れず、傷を負うほど強くなる男。
陣形を崩され、味方が倒れていく中でも、前へ進み続ける男。
ある国の兵士たちは、彼の姿を見ただけで退却した。
別の国では、彼の所属する部隊の進路を予測し、わざと戦場を放棄する作戦まで立てられた。
それでも、エイトは戦い続けた。
彼の鎧には、無数の傷が刻まれていた。
肩当ては何度も交換され、胸部の装甲は歪み、兜には魔術によって生じた亀裂が走っていた。
身体には、消えない傷跡が増えていった。
かつて羊を追いかけていた脚には、戦場で受けた傷が残っていた。
細かった腕は、巨大な剣と盾を扱うために鍛えられた。
そして、その瞳からは、かつての無邪気さが少しずつ失われていった。
だが、彼はまだ自分を特別な人間だとは考えていなかった。
自分はただ、生き残っただけだ。
他の人間が死んだ場所で、偶然生き残った。
そう考えていた。
あるとき、若い兵士が彼に尋ねた。
「隊長は、怖くないんですか?」
エイトは少し考えた。
「怖いよ」
「でも、あんなに前へ出るじゃないですか」
「前に出なければ、誰かが死ぬからだ」
兵士は黙り込んだ。
エイトは、彼の肩を叩いた。
「それに、帰る場所があるんだ」
「故郷ですか?」
「……ああ」
彼はそう答えた。
ヴィエスタの顔が浮かんだ。
最後に受け取った手紙は、ずいぶん前のものだった。
遠征軍の移動が激しくなり、伝令が行き来することも難しくなっていた。
それでも、エイトは何度も手紙を送った。
彼女が返事を書いてくれていると信じていた。
ただ、届かないだけなのだと。
だから、彼は戦い続けた。
いつか帰るために。
ヴィエスタのもとへ帰るために。
やがて、遠征軍は世界の果てと呼ばれる大陸へ到達した。
そこは、地図に記された文明圏の外側。
人間の王国がほとんど存在しない、荒涼とした土地だった。
現地の人間たちは、その地をこう呼んでいた。
虚無大陸。
そこには、魔族の国家が存在していた。
長い年月をかけて勢力を拡大し、人間の領土へ侵攻してきたとされる者たち。
遠征軍がこれまで戦ってきた国々とは、まったく異なる文化と軍事力を持っていた。
彼らの兵士は強かった。
魔術にも優れ、身体能力も高かった。
そして、何より、戦争に慣れていた。
人間側の連合軍は、これまでにない規模の戦いを強いられた。
数日間にわたる攻防。
昼夜を問わない突撃。
補給路の寸断。
将軍たちの相次ぐ戦死。
エイトの部隊も、壊滅的な被害を受けた。
彼とともに戦ってきた兵士たちは、次々と倒れていった。
ある者は魔術に焼かれた。
ある者は敵の剣に倒れた。
ある者は、撤退する味方を守るために戦場へ残った。
最後まで生き残った兵士たちも、傷を負い、疲弊し、やがて動けなくなった。
戦場が静かになったとき、エイトは一人だった。
彼の周囲には、数えきれないほどの遺体が積み重なっていた。
味方も、敵も。
かつて同じ食卓を囲んだ兵士も、名前を知らない敵兵も。
すべてが、冷たい大地の上に横たわっていた。
エイトは、遺体の山に腰を下ろした。
左腕には、翼盾が装着されていた。
表面は大きく歪み、金属片の多くが欠けていた。
右手には、大剣が握られていた。
彼は、鉄の手甲に覆われた自分の拳を見つめた。
何も言わなかった。
泣くこともなかった。
怒りを叫ぶこともなかった。
ただ、見つめていた。
この手で、何人の敵を倒したのだろう。
この手で、何人の仲間を救えなかったのだろう。
考えても、答えは出なかった。
エイトはゆっくりと立ち上がった。
そして、遺体の山から飛び降りた。
足が地面に着く。
身体が痛んだ。
それでも、歩いた。
彼の前には、魔族の王が住まう城があった。
巨大な城門。
黒い石材で造られた塔。
空を覆うように広がる雲。
エイトは、誰にも同行を求めなかった。
残された兵士たちは、すでに戦える状態ではなかった。
彼らを連れていけば、全員が死ぬ。
ならば、一人で進むしかない。
彼は大剣を引きずりながら、城へ向かった。
その背中を見送る者は、もういなかった。
—魔王の玉座—
魔王城の最上階へ至るまで、エイトは何度も敵と遭遇した。
しかし、彼を止められる者はいなかった。
戦闘は短かった。
大剣が振るわれるたび、敵の防御が崩れた。
翼盾が攻撃を受け止め、彼の身体を守った。
負傷するたび、バーサーカーの能力が高まった。
そして、彼は進んだ。
階段を上り、廊下を抜け、崩れた扉を越えた。
やがて、最上階の大広間へたどり着いた。
そこには、魔王がいた。
黒い鎧をまとった巨躯の男。
頭部には、角のような突起が伸びていた。
その眼差しには、長い年月を生きた者だけが持つ、底知れない疲労が宿っていた。
「……人間か」
魔王が呟いた。
エイトは答えなかった。
魔王は彼を観察した。
傷だらけの鎧。
血に汚れた外套。
左腕に装着された翼盾。
そして、巨大な剣。
「よくここまで来たものだ」
魔王は立ち上がった。
「だが、お前一人で何ができる?」
エイトは、剣を構えた。
「……終わらせに来た」
それが、彼の答えだった。
次の瞬間、魔王が動いた。
空気が震えた。
圧倒的な魔力が広間を満たし、石床が砕けた。
エイトは翼盾を構えた。
衝撃。
身体が後方へ吹き飛ばされる。
床を転がり、壁に激突した。
視界が揺れた。
呼吸が乱れた。
だが、彼は立ち上がった。
魔王は驚いたように目を細めた。
「まだ立つか」
エイトは答えなかった。
大剣を握り直す。
魔王が再び攻撃した。
エイトは盾を斜めに構え、衝撃を受け流そうとした。
しかし、魔王の力は想像を超えていた。
翼盾の金属片が砕け、左腕に激痛が走った。
骨が軋むような音がした。
それでも、彼は前進した。
魔王の攻撃を受けながら、距離を詰める。
一歩。
もう一歩。
大剣を振るう。
刃が魔王の鎧を切り裂いた。
魔王が後退した。
エイトは、その隙を逃さなかった。
剣を引き戻し、再び踏み込む。
戦闘は長く続いた。
広間の柱が砕け、壁が崩れ、天井の一部が落下した。
二人の力が衝突するたび、城全体が揺れた。
エイトの身体は限界に近づいていた。
左腕は、ほとんど感覚を失っていた。
翼盾は原形を留めていなかった。
だが、彼は盾を外さなかった。
それがなければ、魔王の攻撃を防ぎきれない。
彼は最後まで、左腕を前に出し続けた。
やがて。
魔王の動きが鈍った。
エイトは、その一瞬を見逃さなかった。
大剣を振り上げ、全身の力を込めて振り下ろした。
魔王の防御が崩れた。
巨体が床へ倒れた。
静寂が訪れた。
エイトは、荒い呼吸を繰り返しながら立っていた。
右手の大剣が震えていた。
左腕は、もはや動かなかった。
翼盾の下で、腕の感覚は完全に失われていた。
魔王は、床に横たわったまま彼を見上げた。
「……勝ったつもりか」
エイトは答えなかった。
剣を持ち上げた。
魔王の胸へ向ける。
ここで終わらせれば、戦争は終わる。
魔族の軍勢は指導者を失い、人間側は勝利を宣言できるだろう。
何百もの国々を巻き込んだ戦争。
数えきれないほどの犠牲。
そのすべてに、終止符が打たれる。
エイトは、剣先を魔王の胸へ向けた。
あと少しだった。
そのとき。
彼の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
丘の上。
草原を吹き抜ける風。
木陰に置かれた弁当箱。
そして、笑顔で手を振る女性。
『必ず帰ってきて』
ヴィエスタの声だった。
エイトの手が止まった。
続いて、戦場で死んでいった仲間たちの顔が浮かんだ。
故郷に妻を残した兵士。
幼い子供の絵を大切に持っていた兵士。
戦争が終わったら、故郷で店を開くと言っていた兵士。
彼らは、何のために戦っていたのだろう。
勝利のためか。
名誉のためか。
国のためか。
それとも。
帰るためだったのではないか。
ただ、家へ帰りたかったのではないか。
愛する人のもとへ帰りたかったのではないか。
エイトは、魔王を見下ろした。
この男を殺せば、すべてが報われるのだろうか。
死んだ仲間たちは戻ってくるのか。
失われた時間は戻るのか。
自分が過ごせなかった一年間は、取り戻せるのか。
答えは、わかっていた。
何も戻らない。
どれだけ多くの敵を倒しても。
どれだけ多くの国を制圧しても。
失われたものは、戻らないのだ。
エイトは、ゆっくりと剣を下ろした。
魔王は、目を見開いた。
「……なぜ、殺さない?」
エイトは答えなかった。
魔王を殺す理由なら、いくらでもあった。
だが、今の彼には、殺さない理由もあった。
これ以上、戦争を続けたくなかった。
これ以上、誰かを殺したくなかった。
そして。
自分も、帰りたかった。
エイトは魔王に背を向けた。
大剣を引きずり、崩れた広間を歩いていく。
魔王は何も言わなかった。
エイトは玉座の前で足を止めた。
そこは、戦闘によって大きく損傷していた。
石材が崩れ、装飾が砕け、背もたれの一部が失われている。
彼は、疲れ切った身体をそこへ沈めた。
大剣を床へ置く。
左腕は動かない。
鎧は歪み、身体には無数の傷が刻まれていた。
彼は天井を見上げた。
崩れた天井の隙間から、夜空が見えた。
月が浮かんでいた。
故郷で見たものと、同じ月だった。
エイトは、しばらくそれを眺めていた。
そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……もう、一年以上経ったのか」
目を閉じる。
思い出すのは、ヴィエスタの笑顔だった。
「僕も……帰りたいな」
その言葉を最後に、彼は立ち上がった。
大剣を背負う。
壊れた翼盾を左腕に残したまま、魔王城を後にする。
彼は勝利を宣言しなかった。
魔王の首を掲げることもしなかった。
ただ、帰ることにした。
長い戦争を終わらせた男は、誰にも見送られることなく、故郷へ向かって歩き始めた。
—帰郷—
聖域へ帰る道のりは、長かった。
かつて遠征軍が進軍した道は、すでに荒れ果てていた。
焼け落ちた町。
崩れた橋。
放棄された砦。
戦争によって破壊された土地には、かつての繁栄の面影がほとんど残っていなかった。
エイトは、それらを横目に見ながら歩いた。
何度も休息を取り、身体を休めた。
左腕は、最後まで動かなかった。
翼盾は重く、歩くたびに鎧が軋んだ。
それでも、彼は進んだ。
故郷へ。
妻のもとへ。
彼が最後に受け取った手紙は、出征から数か月後に届いたものだった。
そこには、日常の出来事が書かれていた。
ギルドの仕事が忙しいこと。
町で新しい店が開いたこと。
家の暖炉が壊れたので、修理を頼んだこと。
そして、最後に。
『あなたが帰ってきたら、一緒に丘へ行きましょう』
エイトは、その一文を何度も読み返した。
帰ったら、まず家へ行こう。
ヴィエスタに会おう。
それから、二人で丘へ行こう。
以前のように、弁当を食べよう。
そうすれば、すべてが元に戻るような気がした。
戦争で失ったものは多い。
だが、帰る場所だけは残っている。
そう信じていた。
聖域の巨大な城壁が見えたのは、帰還の数日前だった。
エイトは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
見慣れた石壁。
遠くにそびえる塔。
城門へ続く道。
何もかもが、懐かしかった。
彼は、ゆっくりと歩き出した。
城門を通過したとき、衛兵たちは彼の姿を見て驚いた。
傷だらけの鎧。
巨大な剣。
左腕に装着された、破損した翼盾。
身体中に残る無数の傷跡。
その姿は、帰還した兵士というより、戦場から現れた怪物に近かった。
しかし、エイトは気にしなかった。
彼が考えていたのは、ただ一つ。
ヴィエスタに会いたい。
それだけだった。
町へ入ると、人々が彼を見つめた。
誰もが、その異様な姿に目を奪われた。
だが、彼は彼らの視線に気づかなかった。
いや、気に留める余裕がなかった。
彼はギルドへ向かった。
かつて、ヴィエスタと出会った場所。
彼女が経営していた冒険者ギルド。
そこへ行けば、きっと会える。
扉の前に立つ。
懐かしい木製の扉。
その向こうから、音楽が聞こえた。
弦楽器の旋律。
人々の笑い声。
食器の触れ合う音。
エイトは、不思議に思った。
こんな時間に、何の集まりだろう。
彼は扉に手をかけた。
そして、ゆっくりと押し開けた。
—ヴィエスタ・デイガー—
ギルドの内部は、華やかに飾られていた。
天井からは色とりどりの布が吊るされ、壁には花が飾られていた。
長いテーブルには料理と酒が並び、冒険者たちが楽しそうに談笑している。
中央では、音楽に合わせて男女が踊っていた。
それは、まるで結婚式のような光景だった。
エイトは、扉を開けたまま立ち止まった。
何かがおかしい。
そう思った。
自分が帰ってきたことを、ヴィエスタは知らないはずだ。
だから、驚くのは当然だろう。
しかし、彼女なら、きっと喜んでくれる。
そう考えながら、視線を巡らせた。
そして。
彼は、見つけた。
人々の輪の向こう側。
一人の女性が、男性と踊っていた。
明るい髪。
見慣れた横顔。
楽しそうに笑う表情。
エイトが、何度も夢に見た女性。
ヴィエスタだった。
彼女は、男性の手を取り、音楽に合わせて踊っていた。
その表情には、何の迷いもなかった。
何の不安もなかった。
彼女は笑っていた。
まるで、今この瞬間が人生で最も幸せな時間であるかのように。
エイトは、瞬きをした。
目を疑った。
もう一度、彼女を見た。
間違いではなかった。
ヴィエスタだった。
そして、彼女の隣にいる男は、エイトの知らない人物だった。
身なりのよい男。
整った服装。
自信に満ちた表情。
男は、親しげにヴィエスタの腰へ手を回していた。
ヴィエスタも、それを拒まなかった。
むしろ、自然な動作で男へ身体を寄せていた。
その光景を見た瞬間。
エイトの胸の奥で、何かが止まった。
音楽が聞こえなくなった。
人々の笑い声も、食器の音も、すべてが遠ざかった。
彼は、ただ立っていた。
何も考えられなかった。
なぜ。
その言葉だけが、頭の中に浮かんでいた。
なぜ、彼女がそこにいるのか。
なぜ、知らない男と踊っているのか。
なぜ、自分が帰ってきたことを喜んでくれないのか。
いや。
まだ、喜んでいないと決まったわけではない。
彼女は、自分が帰ってきたことを知らないのだ。
そうだ。
知らないだけだ。
エイトは、そう考えた。
彼は、もう一度ヴィエスタを見た。
そのとき。
彼女の隣にいた男が、近くにいた子供を抱き上げた。
幼い子供だった。
男の顔を見上げ、楽しそうに笑っている。
男は子供の頭を撫でた。
ヴィエスタが、子供へ手を伸ばした。
そして、優しく頬を撫でた。
その表情は、エイトが見たことのないものだった。
彼女は、子供を抱き寄せた。
男が二人を包み込むように腕を回した。
三人は、家族のように見えた。
いや。
家族だった。
エイトは、ゆっくりと息を吸った。
彼の脳裏に、出征前の記憶が浮かんだ。
『絶対に帰ってきて』
『約束する』
あの日、彼女は泣きそうな顔をしていた。
だから、彼は約束した。
必ず帰ると。
生きて帰ると。
そのために、彼は戦った。
剣を握り、人を斬り、傷を負い、何度も死にかけた。
仲間が死んでいく中でも、前へ進んだ。
魔術によって身体を焼かれても、立ち上がった。
左腕が動かなくなっても、剣を捨てなかった。
すべては、帰るためだった。
帰れば、彼女がいる。
帰れば、弁当を作ってくれる。
帰れば、二人で丘へ行ける。
そう信じていた。
しかし。
彼女は、別の男と暮らしていた。
子供までいた。
エイトは、何も言えなかった。
手紙。
そうだ。
手紙を送った。
何度も送った。
戦場から、遠い土地から。
自分が生きていることを伝えるために。
帰る意思を伝えるために。
彼女は、手紙を受け取っていたのだろうか。
いや。
受け取っていたのなら、なぜ。
彼は、ふと自分の懐へ手を入れた。
そこには、古びた布袋があった。
出征の日に、ヴィエスタから渡されたもの。
中には、結婚した日に交換した指輪の片方が入っていた。
彼は、それを握りしめた。
金属の冷たさが、手のひらに伝わった。
そして、ようやく理解した。
自分が戦場で生き延びるために送った金。
彼女が暮らしていけるようにと、遠征軍から支給された報酬の一部を送り続けた金。
それは、今では別の男と、その男との間に生まれた子供の生活を支えていたのだろう。
自分は、何のために戦っていたのだろう。
何のために、生き延びたのだろう。
何のために、帰ってきたのだろう。
エイトは、ゆっくりと顔を上げた。
ヴィエスタは、まだ彼に気づいていなかった。
彼女は男と踊り、子供に笑いかけていた。
彼が帰ってきたことなど、知らない。
いや。
知る必要もなかったのかもしれない。
彼女には、もう別の生活がある。
別の家族がある。
別の幸福がある。
エイトは、笑った。
最初は、小さな笑いだった。
喉の奥から、かすかな音が漏れた。
それは、驚きに近いものだった。
次第に、笑い声が大きくなった。
彼は肩を震わせた。
笑いが止まらなかった。
「……は」
誰かが、扉の方を見た。
「……あは」
近くにいた冒険者が、不審そうに眉を寄せた。
「何だ、あいつ……?」
エイトは、笑い続けた。
あまりにも長く。
あまりにも大きく。
そして、あまりにも不自然に。
彼の笑い声は、音楽をかき消した。
踊っていた男女が動きを止めた。
談笑していた冒険者たちが、次々と振り返った。
ヴィエスタも、ようやく音の発生源に気づいた。
彼女は、扉の前に立つ男を見た。
最初は、誰だかわからなかったのだろう。
無理もなかった。
かつてのエイトは、穏やかな顔をした羊飼いだった。
身体には、ほとんど傷がなかった。
武器も持たず、朝になれば羊を連れて丘へ向かう。
しかし、今そこに立っている男は違った。
全身を覆う鎧は歪み、無数の傷が刻まれていた。
左腕には、巨大な翼盾が装着されている。
背中には、通常の兵士が扱うものとは比較にならないほど大きな剣があった。
顔には古傷が走り、身体からは、長い戦争を生き抜いた者だけが持つ異様な気配が漂っていた。
彼は、かつてのエイトではなかった。
数百もの戦場を渡り歩き、幾つもの国を屈服させ、魔王を討つ寸前まで追い詰めた男。
人々が畏怖を込めて語る、戦神。
その男が、今。
冒険者ギルドの入口に立っていた。
ヴィエスタの顔から、笑みが消えた。
男も、子供を抱いたまま固まっていた。
音楽が止まった。
誰もが、エイトを見つめていた。
「……エイト?」
ヴィエスタが、かすれた声で呟いた。
その声を聞いた瞬間。
エイトの笑い声が、さらに大きくなった。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははha…**
(As the laughter continued, the room grew silent.)
「……何だ、あいつは?」
「誰なんだ?」
「まさか、あの男……」
「戦神……?」
「嘘だろ……」
ざわめきが広がりかけた、その瞬間。
エイトは、笑うのをやめた。
そして、静かに言った。
「もういい……」
彼は背中へ手を伸ばし、巨大な剣の柄を握った。
ゆっくりと、剣を引き抜く。
刃を覆っていた布が、床へ落ちた。




