第17章 丘淑惠(邱淑惠)の恋Ⅱ
相変わらず丘から電話やメールが届いていた。太郎は無視してほったらかしにしていたが、いつまでもそんな風にはしていられないので、週末に丘に電話を入れた。
「すっかり返事が遅れてしまって申し訳ありません」
「もうっ、芝山さんに振られたと思って落ち込んでました」
「それで、丘さんのご都合の良い日に一度お目にかかってお話をしたいことがあるんですが」
「いいですよ。あたしもこんな形で振られてしまったら悲しいですから」
どうやら丘は太郎が振ってしまったと思っている様子なので太郎は少し元気が出た。
週末に太郎は丘と逢う約束をして、渋谷駅近くのプール付きのガーデンカフェに誘った。
カフェと言ってもゴチャゴチャした雰囲気でなく、ゆったりとしていて穏やかに話をするには良いと思って逢う場所を選んだ。夕方四時の約束だが太郎は少し早めに来てコーヒーを啜っていた。しばらくすると、
「お待たせしました?」
と丘が以前通訳を頼んだ時と同じようなにこやかな顔で太郎の前に来た。丘は太郎が予期しない年配の上品そうな婦人と一緒だった。
「僕も今来たばかりです」
「こちらはあたしの伯母の邱佩玲です。今日渋谷に出ると言いましたら、お買い物を一緒にとお洋服探しを手伝わされてしまって、それで太郎さんとお逢いする話をしましたら是非太郎さんに会ってみたいと言うものですから」
デートに伯母を連れて来た言い訳をするのに丘は苦労をしている様子だ。
「初めまして。芝山太郎です。淑恵さんには先日大切なお客様の接待で通訳をお願いした時に初めてお会いして素敵な女性だと思いました。今日は淑恵さんにお話をしたいことがありまして逢って頂くことにしました」
太郎は席を勧め、店員を呼んでケーキと紅茶を注文した。
「芝山さん……」
と淑恵が言いかけたのを伯母が制して、
「隠しても仕方がないわね。実は淑恵が好きになった男性ってどんな方かお目にかかって見たくて一緒に来ましたのよ」
と佩玲は悪戯っぽい目で太郎を見た。太郎も目の前に座っている品のある魅力的な年配の女性を改めて見た。
「何となくそんなように思いました」
太郎は俎の上の鯉になった気分で苦笑した。
「あなた、なかなか感じの良い男性だわね。あなたなら淑恵の伴侶として合格よ」
伴侶と言ったところを見ると、どうやら淑恵との結婚を前提に品定めされているようだ。今日は淑恵に交際を断るつもりで来た太郎だが、その話を切り出す糸口を失ってしまった。
目の前の婦人は顔こそ中国人っぽい感じだが、日本語は流暢だ。
「あなた、淑恵のことをどう思っていらっしゃるの?」
太郎は交際の断り話を持ち出すなら今だと思ったがそれが口から出ずに、
「理知的で素敵な女性だと思います。お綺麗だし」
と答えてしまった。淑恵は少し顔を赤らめて、
「一目惚れしちゃいましたけど、お付き合いさせて頂いている間に本当の恋を見付けられると思います」
とフォローした。
「淑恵さんとご一緒の所に住んでいらっしゃるのですか?」
「私? 私は今たまたま日本に滞在していますが、普段は台湾で暮らしていますのよ。主人は日本でも有名な大きなエレクトロニクス会社の会長(董事長)をしておりますのよ。先日淑恵がお目にかかった谢建明は私の主人がやっている会社の幹部ですのよ。お仕事で必要なら主人から友人の会長(董事長)に口添えを頼むこともできますわ」
太郎は目の前の婦人の言葉に驚いた。一昔前はエレクトロニクスと言えば日本のN社やS社、F社などの大企業が世界の市場を席巻していたが、現在は台湾、韓国、中国の大企業にその座を明け渡してしまっているのだ。だから大きな会社だと言えば世界的にも名が通った大企業だ。その会長夫人が淑恵の伯母だと言う。
太郎の表情の変化を佩玲は見逃さなかった。
「もし、将来淑恵とご結婚なさってもあなたは今のお仕事をお続けになりますの?」
「はい。そのつもりでおります」
「今お勤めの会社の重役まで目指していらっしゃるの?」
「重役なんてとんでもありません。せいぜい部長まで行けばいいかなと思っています」
「あら、随分欲がないことね。あなたのお気持ち次第では将来主人が経営している会社の日本にある連結子会社を一つくらいお任せする可能性は充分ありますのよ。会社経営にご興味はないのですか?」
太郎の心は突然の話に揺れた。
「そりゃ会社経営のチャンスがあればやってみたいですが、突然のお話に驚いてしまって」
「そうよね。でも私の話はいい加減なものじゃありませんよ。可愛い淑恵の旦那様になる方ですものウソや誇張なんか必要ありませんもの」
飲み物がすっかり冷めてしまったのに気付いて、
「奥様、あっ伯母様とお呼びしてもいいですか? 何か注文しましょうか?」
「いいえ、私はそろそろ退散しますので淑恵をどこか楽しい所に連れて行ってあげて下さいな。淑恵ちゃん、伯母さんは一足先に帰ります。芝山さんを大切になさいよ」
先ほどから二人の話を聞いていた淑恵は、
「伯母さん、気を付けて帰ってね。お母さんに少し遅くなりますと言っておいてね。あたしはもう少し芝山さんとご一緒します」
と伯母に別れを告げた。
「夕食、ご一緒しませんか? 何か食べたいものがあれば、何を食べたい?」
太郎は淑恵にここを出て場所を変えようと言った。
「あたしが今食べたいもの? そうねぇ、あたし芝山さんを食べてしまいたいな」
淑恵は言い終わるとチョット舌を出して笑った。
「こら、真面目に答えないと僕帰っちゃうぞ」
太郎はくだけた言い方をした。
「そうねぇ、お寿司にしようかな」
「分かった。じゃ出よう」
太郎は店を出てタクシーを拾った。運転手にメモ用紙を渡して、
「この店に行って下さい」
と言うと運転手はナビをセットした。太郎は以前部長のお供で行ったことがある店で、その店は渋谷駅隣の京王井の頭線神泉駅の近くで松濤坂本と言う。松濤は渋谷でも高級住宅街で有名な場所だ。客単価はかなり高い寿司屋だが、太郎は先ほど彼女の伯母の話を聞いたのでレベルアップしたのだ。
ナビをセットしたのに運転手は近くまで行ってから通行中の人を呼び止めて場所を聞いている。どうやら番地は合っているが良く分からないらしい。運転席に戻ると、この先三軒目ですと言って料金を示した。
行って見ると確かに知る人ぞ知ると言うような感じの分かりにくい店構えでそばに行ってから以前の記憶を思い出した。
以前と変わらず寿司はと言うよりネタは良かった。
「美味しかったわ。太郎さんありがとう」
淑恵は太郎さんと言った。やはり芝山さんと苗字で呼ばれるより名前で呼ばれた方が親密感が湧く。
「横浜まで送るよ」
「いいの?」
「いいさ、家に帰ったら寝るだけだから」
駅までは近い。太郎は駅に向かって歩き始めると自然に淑恵が腕を絡ませてきた。太郎の鼻孔をほんのりとしたフレグランスの香りが刺激した。神泉から渋谷に出て、東急東横線に乗り換えて元町・中華街駅で降りた。昔は横浜駅止まりだったが今はみなとみらい線に相乗りしているから渋谷から乗り換えなしで行ける。
元町・中華街駅で降りると、太郎は淑恵と揃って改札を出た。大分遅くなったが、まだ営業中の店は多かった。
「あたしのお家はここではなくて三春台なんです。まだ母がお店の方に居ると思いますので寄って行きます。もう遅いですし、ここで結構ですのでお帰りになって。今日はありがとうございました」
「じゃ、僕はここで失礼するよ。お休みなさい」
丘淑恵と別れて太郎は駅に向かった。今日はすっかり淑恵に引っ張られて別れ話を持ち出すどころか返って淑恵の方に近付いてしまった。今度は垂井萠にどう言い訳をするのか自分でも頭の中が混乱してと言うか心が揺れてしまって、もうどうにでもなれなんて考えてしまうのだ。そんなことを考えている内に駅に着いてしまった。丁度ホームに入って来た電車に乗って横浜でJRに乗り換えて品川駅に戻った。




