第16章 丘淑惠(おかすみえ)(邱淑惠(キュウシューホエイ))の恋Ⅰ
淑恵は太郎と別れて横浜の家に帰ると、疲れが出てシャワーをしてから直ぐにベッドに潜り込んだ。だが、一目惚れに近い太郎の面影が次々と想い出されて眠れず、太郎に電話してしまった。太郎に好きだと告白するまでには軽率過ぎるとか断られたらどうしようとか雑念が頭の中で交錯していたが、いざ電話をしてみると自分でも信じられないくらいすらっと好きになったみたいと言えた。言ってしまってからなんだかドキドキしてしまって結局明け方近くまで眠れずにいた。
翌日太郎から、
「お客様を怒らせてしまったけど、ディナーショーを気に入ってもらって気持ちを直してもらったから大丈夫でした。もしかしてお気にされているかと思って、お礼をかねて電話しました。通訳については上司から良い方を見付けてくれたと褒められました。ありがとうございました」
かなり事務的な内容だったが、淑恵は嬉しかった。
その夜、淑恵はまた太郎に電話をかけてみた。だが、携帯の電源が切られているらしく電話はつながらなかった。太郎は会議が遅くまで長引いて、会議が終わってから帰宅するまで携帯の電源を入れるのを忘れていたのだ。携帯がつながらなかったことで淑恵はがっかりしたが、そうなると益々太郎の声が聞きたくなって三度も電話をかけてみたが、つながらなかった。
淑恵は、
「もう一度個人的に逢いたいです。お時間のある時にお茶に誘って下さい」
とメールを入れてから眠った。
太郎は垂井のことが気になっていた。垂井の紹介で知り合った丘と付き合うのはなんだかルールに違反するように思えた。それで、丘に会う前に一度垂井に会って丘のことを話しておきたいと思った。だが、仕事が次々押し寄せてきてなかなか時間が取れず、丘からの電話やメールを無視した。
あれから三日が過ぎてしまった。その間淑恵から何度も電話やメールが届いたが無視していた。ようやく気持ちが落ち着いたところだ、太郎は垂井に電話した。
「あれからお変わりはありませんか?」
「はい。元気にしてます」
「もしお時間が取れるようでしたらお茶でもしませんか?」
「あたしならいつでも大丈夫です。早めに言って頂けたらお仕事の時間中でも外出はできます」
「明日の日曜日はお時間の方どうですか?」
「午前中はお掃除、お洗濯がありますので午後ならずっと時間を空けられます」
「じゃ、午後三時に横浜まで行きます」
「そんなぁ、あたしの方から出向いてもいいですのに」
太郎は待ち合わせ時刻と場所を決めて垂井と会うことにした。
日曜日は生憎雨模様だったが、お昼を過ぎてから雨はあがった。特に持ち物はないので、太郎はカジュアルな出で立ちでズボンの後ろポケットに財布を押し込んで品川にあるワンルームマンションを出て横浜に向かった。垂井とは午後三時に横浜ベイホテル東急二階のラウンジにあるソマーハウスで待ち合わせだ。
ラウンジには少し早めに着いた。垂井を待つ間コーヒーを注文してスマホでゲームをして時間を潰した。丁度三時に、
「お待たせしまして?」
と声がして、上を向くと笑顔の垂井が立っていた。相変わらず笑顔が魅力的で可愛い。
「ちょっと早めに着いたから」
多分ゲームに夢中になっている姿を垂井に見られてしまいちょっとばつが悪かったが、笑って誤魔化した。
「どうぞ、ティーセットでいいですか?」
「はい」
太郎はウエイトレスを呼んでティーセットを二つ注文した。
「先日は素敵な通訳を紹介して下さってありがとう。社でもお客さんにもすごく評判が良くて助かりました」
「あたしが提案したプログラムで何か困ったことはありませんでした?」
「そうだなぁ、気を悪くされると困りますが、少し時間が足りなくて後半はばたばたしました。ランチクルーと三渓園とディナーショーの三つで丁度良かったような気がしました」
「そうねぇ、距離的に近いから大丈夫だと思ったんですけど、やっぱり。済みませんでした」
「謝られるようなことじゃないですよ。それと一つ気付いたことがあります。ご参考になるかどうか」
「是非お聞きしたいわ」
「実は、丘さんから聞いておられるかも知れませんが、山手111番館の見学をしていた時ですが、丘さんの説明を聞いて、突然瀋陽の工場から来られた徐俊賢と言う方が突然怒り出してしまって、ちょっと大変でした。後で丘さんから聞きましたら丘さんが建物の歴史的背景を説明していましたら、徐俊賢が『そんな勝者の歴史なんか聞きたくない』と怒ったそうです」
「そんなことがあったんですか。丘さんの通訳に問題があったのですか?」
「いえ、違うんです。実は山手111番館が出来た一九二六年前後は中国では辛亥革命が起こって、清王朝が衰退して共和制の中華民国が勃興して中国国内は混乱の中にあった時代です。ご存じだと思いますが袁世凱が国内の反乱を治めて大統領になった時に世界の列強から多額の借金をして軍備を増強して経済の立て直しを図ったのです。でもそんな混乱に乗じて、世界の列強は中国に進出、中国を半植民地化してしまったのです。第一次世界大戦後日本も列強の一つだったわけで、中国の方から見ると暗い過去なんでしょうね。今中国や韓国と日本の間で歴史問題がネックになってますが、国を挙げて海外の観光客を誘致する運動が盛んになっている今、相手国の国民感情に配慮して観光スポットを選定したり、説明する時に歴史的背景に配慮した内容で説明するとかそんな大切なことが欠けていることに気付かされました。日本人は日本の歴史を中心に観光スポットを考えがちですが、大昔は別として明治時代以降の歴史的建造物の説明にはその時代に敗者であった国の人たちにはそんな思い遣りも大切だと思いました」
垂井は太郎の話を聞いて、一応観光業に身を置いている自分に大事なものが足りなかったと反省させられた。問題の山手111番館をプログラムに入れた時にはそんなことを全く考えていなかったからだ。
「あたし、今のお話し、すごく参考になりました」
垂井は太郎が以外に博識だったので改めて尊敬する気持ちになった。
「ところで、実は丘さんのことですが……」
太郎はどう説明すれば良いか迷った。
「丘さんがどうかなさったんですか?」
「いえ彼女、僕のことが好きらしいんです」
「えっ、彼女が? 急にどうして?」
垂井は思いの他動揺した。実は垂井も太郎が好きになってしまっていて、今日太郎と逢う前までドキドキしていたのだ。それで、丘が太郎に好意を寄せていると聞かされて、垂井の太郎を想う気持ちは一気に確信に近いものに代わってしまった。
「丘さんがはっきりとおっしゃったんですか?」
「はい。好きだとはっきり言われました。それで、彼女と付き合う前に一応垂井さんのご意見を聞きたくて」
「お付き合いされるってことは、将来ご結婚も視野に入れてですよね」
「僕もいい年ですから、当然そうです。いい加減な気持ちでは丘さんに失礼ですよね」
垂井は困った。この場で自分の気持ちを告白してしまおうか迷ってしまった。急に無口になった垂井に、
「済みません、こんなこと垂井さんには関係の無い話でご迷惑だったですよね」
と太郎が言うと、垂井は突然太郎の顔を見て、
「関係ありますっ」
と言うではないか。これには逆に太郎が動揺した。太郎は垂井に初めて会った時からなんとなく垂井のことが気がかりになっていたのだ。それでどう言えば良いか分からなくなって、
「嫌でなかったらこれからお酒に付き合ってくれませんか?」
と聞いて見た。正直に言えば太郎は素面ではこの後の話を垂井と続ける勇気がなかった。
垂井は、太郎の予想に反して、
「いいですよ」
と答えた。
「こんなところじゃなくて居酒屋でもいいですか?」
と言うと、
「あたしも肩が凝らない居酒屋みたいなとこの方がいいです。あっ、横浜駅界隈は会社の人と会ってしまう可能性あるからこの近くの方がいいな」
と同意してくれた。垂井は少し馴れ馴れしい言葉遣いになった。
太郎は歩くのは面倒だからホテルのエントランスでタクシーを拾って、
「桜木町の横浜すきずきと言う居酒屋へ」
と運転手に行く先を告げた。ほんの五分も走ると居酒屋の前に着いた。時間が少し早いせいか店内は空いていた。
「こっちの方が落ち着くなぁ」
と太郎が呟くと、
「実はあたしも」
と垂井は笑った。突き出しが出たところで料理と酒を注文して、
「さっきの関係ありますって、やっぱ関係があるの?」
太郎もくだけた話しぶりで聞いた。
「はい。三角関係」
「ぇっ?」
「つまりぃ、あたしも芝山さんを好きです」
垂井は顔を赤らめて恥ずかしがっている様子だ。
「参ったなぁ。僕女性とこんな風になったの、と言うか女性を好きになったのは初めてだから」
「と言うと芝山さんは淑恵を好きになったの?」
「そうじゃなくて、僕が好きなのはあなたですよ」
垂井はぱっと明るい顔になって、
「じゃ、あたしと付き合って下さい。勿論結婚を前提に」
なんだか話が急展開して太郎は戸惑ってしまった。こんな話を成り行きで決めてしまっていいんだろうかとも思った。
「丘さんとのことだけど、どうやって話をするかなぁ」
太郎は独り言のように呟いた。
「あたしが芝山さんを好きで、お付き合いしているからと淑恵にはっきりお話された方が彼女もスッキリすると思いますけど」
結局太郎は垂井と夜遅くまで飲んで品川に戻った。丘さんにどんな風に話を切り出したらいいのか、その夜は悩んでしまって明け方まで眠れなかった。




