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翌朝、リィザは実家での久しぶりの朝を終えて、足取りも軽く戻ってきた。
「ケンジ、おはよう! ……昨日の晩餐、本当にありがとう。父様やエリック兄様とは少しぎこちなかったけど、お母様や弟のレオも、あんなに美味しい料理は初めてだって喜んでくれたわ。久しぶりの家族水入らずで、本当に楽しかった」
「それはよかった。数年ぶりだったんだろ。……領主の機嫌が良ければ、こちらの予算案も通りやすくなるしな」
「もう、相変わらずね……。でも、本当に感謝してる」
リィザの晴れやかな笑顔とは対照的に、ケンジは昨夜ノアから報告された「市街地のデータ」をまとめた書類を睨んでいた。
「リィザ、悪いが休む暇はないぞ。出島の成功の裏で、街の温度差が無視できないレベルになっている」
二人はカレンベルクの中央市場へと向かった。
市場では、出島から仕入れた「魔境のスパイス」を使った温かいシチューの炊き出しが行われていた。厳しい冬が近づくこの時期、安価で栄養価の高い食事は住民の救いになるはずだった。
だが、一角から激しい罵声が響く。
「誰が食うかよ、こんな呪われたもん!」
一人の青年が、配られたばかりのシチューの器を地面に叩きつけた。泥にまみれる白いスープ。周囲の住民がぎょっとして足を止める。
「俺の親父は魔族に殺されたんだ! その魔族が持ってきた草を食えってのか? 街を裏切るのもいい加減にしろ!」
青年の瞳には、燃えるような憎悪が宿っていた。炊き出しをしていた係員が困惑し、周囲には同調するように頷く住民の姿も少なくない。
「……リィザ、手出しは無用だ」
ケンジは一歩前に出ると、地面のシチューを一瞥してから青年に目を向けた。
「君。名前は?」
「……ハンスだ。魔族に取り入ってる奴が何の用だ? 俺を捕まえるのか?」
「いや、捕まえはしない。……ハンス君、君の言い分は正論だ。親の仇の食品を口にするのは、感情として納得できないだろう」
予想外の肯定に、ハンスが言葉を詰まらせる。ケンジは事務的な口調で続けた。
「だが、考えてみてほしい。以前のようにいつ魔族が攻めてくるか分からない状況よりマシだと思わないか?争いが続けば食料も不足してくる。実際、停戦前の食事は粗末なものだったろう?」
「それがどうした! 飢えて死ぬ方が、魔族に媚びるよりマシだ!」
「そうか。では、君には別の選択肢を提示しよう。『魔族由来の物資を拒否する者』向けに、王都から割高な物資を運ばせるルートを確保する。ただし、輸送費と護衛費はすべて君たちの全額負担だ。今の君の稼ぎだと、一日二十時間働けば、パン一個は買える計算になる。……どうする?」
「な……っ」
ハンスの顔が赤から青に変わる。あまりに冷徹な「数字」の突きつけ方に、周囲の住民たちも静まり返った。
「みんなも聞いてくれ。俺は皆に魔族を許せとは言わない。家族を失った者もいるからだ。ただ、あなたたちが生き残ることが、亡くなった方々の望むことだったんじゃないのか? ……悔しければ、このシチューを食って体力をつけ、いつか魔族に頼らなくてもいいような大きな商売でも始めてみせろ。それが本当の意味での『報復』だ」
ケンジはそれだけ言うと、落ちていた器を拾い上げ、リィザに目配せをした。
「……行こう、リィザ。次の巡回だ」
市場を離れた後、リィザが複雑な表情でケンジに話しかけた。
「ケンジ……。さっきの少し厳しすぎたんじゃないかしら」
「魔族という敵がいなくなったんだ。今は皆が団結するために共通の敵が必要だ。俺が憎まれ役になるさ」
ケンジは歩きながら、ふと足を止めた。
「ハンスの目は死んでいなかった。ただ悲しんでいる奴より、怒っている奴の方が見込みがある。あいつはきっと大丈夫さ」
その顔に昨夜の晩餐のような穏やかさはなかった。出島という「光」が強くなるほど、その影にある憎しみもまた、濃くなっていく。




