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静寂を破ったのは、ゼノスが折れた斧の破片を拾い上げる音だった。
彼はそれを一瞥すると、背後の魔族軍に向かって大きく腕を掲げた。
「全軍、撤退だ! 約束通り、この地から矛を収める!」
魔族たちが静かに、しかし統制された動きで北の空へと引き返していく。その光景を呆然と見送っていたバルトとエリックに、ケンジが歩み寄った。
「閣下、説明します。私は昨夜、独断でゼノスと接触しました。彼らに魔素減少を抑制し、状況を改善させる準備があることを伝え、一時撤退と和平交渉の場を設けるよう求めたのです。この一騎打ちは、その『誠意』を確認するための儀式でした」
「……何だと!? 貴様、勝手な真似を!」
エリックが真っ赤になって怒鳴り散らす。「魔族と交渉だと? 汚らわしい! 我らカレンベルクの誇りを泥に塗る気か!」
「エリック、控えろ」
バルトが重々しく制した。彼はリィザが守り抜いた城壁と、傷つきながらも命を拾った騎士たちを見つめ、ケンジに向き直った。
「……方法はどうあれ、我が街から敵を退かせた。その事実は認めよう。礼を言う。ケンジよ」
「礼には及びません。……ですが、閣下。報告すべきことがあります」
ケンジは表情を曇らせ、ノアの解析結果を脳内で反芻しながら告げた。
「この地から魔素が消え始めた時期と、私がこの国に来た時期が一致しています。……仮説ですが、私のスキルが周囲の魔素を過剰に消費し、魔族領の資源を枯渇させている可能性があります」
「何……? ならば話は早いではないか!」
エリックが勝ち誇ったように笑った。
「貴様のスキルを使い続ければ、魔族の国は干からびて滅びるということだろう? そのまま枯渇させればいい。奴らが死に絶えれば、真の平和が訪れる!」
「それは違います、エリック様」
ケンジの声は冷徹だった。
「資源が枯渇すれば魔族は死に物狂いで攻めてくるでしょう。そうなれば、この街にも今以上の犠牲が出ます。……それでは、争いは終わりません」
広間に沈黙が流れる。ケンジはバルトの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺が魔族の国へ行きます。この目で原因を確認し、根本的な対策案を提示して、和平を成立させてみせます」
「狂っている! こいつは魔族のスパイだ。父上、これは罠だ!」
反対するエリックを無視し、バルトは静かに頷いた。
「……魔族がこれほどまでに必死に戦う理由が、もしお前の言う通り『飢え』にあるのなら、剣では解決できんのかもしれんな。リィザ、お前はどうする」
「……決まってるわ、父様」
リィザは剣を握り直し、ケンジの隣に立った。
「彼が私を強くしてくれた。おかげで大事な街も守ることができた。私も一緒に行く。」
バルトは一瞬、寂しげに、しかし誇らしげに目を細めた。
「……許可する。カレンベルクの名において、交渉の全権をお前に託そう。リィザ、その男を守ってやれ」
こうして、かつて「落ちこぼれ」と呼ばれた令嬢と「転生した事務屋」は、人類未踏の魔族領へとその一歩を踏み出すことになった。




