第九話 空席の日
朝、机の上をからっぽにした。
小さな紙片を一枚取り、昨日の印のならびに細い点をひとつ付け足す。
「市名(仮)◎/候補3」その横に、ごく薄い字で「待つ」。
濃くしすぎない。濃くすると、動き方まで固まってしまう。
——
受付のカウンターには、いつもの白札と並んで、インクの新しい案内が一枚。
名札の三浦さんが穏やかに言う。
「本日もいつものお時間でお取りしています。今回は途中残り十分前と、最後に残り五分前のご案内を入れます。このあと短い点検が入るため、少し早めの合図を足しています。」
「わかりました。お願いします」
手首のバンドが軽く震え、額のパッドが額にやさしく吸いつく。
ブランケットは、紙袋一枚ぶんくらいの重さにまで薄まる。
深く息を吸わず、肩だけを一度上下させる。私にとっての“準備”は、それで足りる。
——
窓から入る明るさは、薄い板のようにカウンターの端へ伸びていた。
窓際の列、内側から三席目。シュガーポットは中央線から指一本ぶん右に寄っている。
「こんにちは」
返事は、まだない。
取っ手を半ばまで回し、元の角度に戻す。
紙ナプキンは細長く折って、カップの脚の下へそっと差し入れる。温度の立つ気配はひとつだけ。
となりの椅子は空のままで、生地が日差しを浅く返す。
奥で、拓海が氷水のピッチャーをわずかに傾けた。砕けた氷がガラスの内側で小さな角音を立てる。
「同じのを二杯のご予定でしたけど、今日は一杯で?」
「うん。今日は、それで」
「承りました」
拓海は言い足さない。代わりに、律の前の受け皿の位置を線一本ぶんだけ整える。その動きに、言葉の外側の気遣いがある。
新聞紙の束が離れた席で一度だけ音を返し、また静かになる。
表の通りで、自転車のブレーキが短く擦れて止む。
律はコースターの角をほんの少しずらし、すぐ元に戻した。ずらすと空白が広がる。戻すと、間が落ち着く。
十分、二十分。壁の時計の秒針は布を縫うみたいに進む。
ポケットでスマホの丸い録音ボタンに指が触れる。押さない。押してしまうと、捕まえた音に引きずられてしまう気がする。
かわりに紙片の端に小さな点を打つ。句点みたいな、呼吸の印。
「お水、少し足しましょう」
拓海が声を落として言う。
「お願いします」
水面が持ち上がり、グラスの縁が一度だけかすかに鳴る。
「——席はこのままで大丈夫ですよ」
何に向けられた言葉か、互いに確かめない。確かめないほうが、静けさが保たれる。
半分を越えたころ、ドアが開いて閉じた。短い二つの合図ではない。
別の客の靴が数歩、奥へ抜ける。
律は湯の気配の高さを目でなぞり、息の長さを合わせ直す。ここでは息切れは起きない——それでも、胸の糸だけが少し張る。
カウンターの端から、控えめな案内が届く。
「残り十分です」
その声とほぼ同時に、背後の椅子の脚が床をかすめ、わずかな擦過音。
葵が座る前の仕草で鞄の持ち手を一度つまみ、髪を耳にかけた。
「——遅くなっちゃった」
湯の気配がもうひと筋立ち、すぐ私のそれと釣り合う。
「今日は来られない日かもしれないって、思ってた」
律が言うと、葵は目尻に柔らかいしわを寄せる。
「わたしも。途中まで、うまく舟が出なかった」
「からだの具合は」
「深いところに沈んでた。今は、水面のほう」
軽く言っているが、軽さの奥に芯がある。
笑みは形を崩さず、声の高さだけがいつもより半音ほど低い。
スプーンの先で湯気を混ぜ——ずに、そっと止める。
「外のほうが、今日は音が多かった」
「こっちは席を空けて、時間をそのまま置いてた」
「ありがとう」
その一語で、空いていた時間にページが生まれる。音のない章だが、確かにめくられた感じがする。
カウンターの端から、もう一度案内。
「残り五分です」
二つのカップの上で、上昇する白がひと呼吸ぶん形を変え、また整う。
「そろそろ」
「うん。戻らなきゃ」
椅子を引くと、床の木目が軽く鳴る。スプーンが受け皿に触れ、薄い音をひとつ置く。
「次も、同じ時刻に」
「うん、ここで」
この合図を、いったい何度重ねてきたのだろう。
数えられなくなったことが、少しうれしい。毎回、わずかに違う息で、毎回、同じ場所へ届く。
——
ブランケットの縁が指の下に戻り、布の皺が落ち着く。
いつものようにカーテンの隙間から三浦さんが顔をのぞかせる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「体調はいかがですか」
「問題ありません」
「次回も同じお時間でお取りしますね」
「はい」
受付の脇で鉛筆を借り、紙片に短く記す。
——空席のあいだ/合図のない扉/最後の十分。
書き足しすぎない。文字が増えると、紙が重くなる。
自動ドアの前に立つ。光が床に一本の線を作る。
ポケットの中で鍵の角を確かめ、線をまたぐ。
帰り道があるうちに、帰る。
道の途中で、さっきの空席の時間を思い返す。
もう空ではないが、空であった時間は次の午後のための余白として、胸の中に残ってくれる。