第八話 山をひとつ
最初に地図をひらく前から、行き先はだいたい決まっていた。
ここまでの午後に重なってきた断片――緑の板の色、短い坂の角度、入口で続く二つの短い合図――それらを机の隅で並べ直すと、画面の上に薄い円がひとつ浮かぶ。誰かに道順を教わった覚えはないのに、いくつかの会話が、指先の向きをそっと決めていた。
古いスマホを起こす。操作の仕方はまだ覚えきれないが、地図は出せる。
円の周りを指で少しだけ広げて、すぐ戻す。広げすぎると、現在地が消えやすい。
鍵をポケットに入れ、靴紐の結び目をつまんで確かめる。
玄関を出て、横断の白に爪先をそろえる。朝の空気は乾いていて、金属の角が指に触れる。
最寄りの停留所からバスに乗り、町の駅へ。
窓口でスマホの地図をひらく。
「この印のあたりに行きたいんですが、山をひとつ越えた先で……」
窓口の人は眉を少し寄せ、カウンターの下から紙の路線図を引き出した。
「少々お待ちください」
隣の窓口の人を呼んで、二人で指で線をたどる。壁の運行表と見比べ、しばらく黙る。
「おおまかには——在来線で隣町まで、そこで速い列車に乗り換え。降りた先はバスか徒歩ですね」
「時刻は?」
「ここで全部追うより、向こうの駅の案内所で聞くのが確実です。乗り継ぎの間隔が日によって変わるので」
紙に矢印を描いて渡してくれる。
「この順番なら、迷いにくいはずです」
「助かります、ありがとうございます」
各駅の車内には、朝の湿りがまだ少し残っている。
山際の手前でトンネルに入り、ガラスがこちらをうっすら映す。抜けた先の屋根の色は濃く、黒い瓦が増える。
道路の端の丸い鉄板には等間隔の穴。冬にはそこから水が出る、と以前のやりとりが耳の奥でたわむ。今日は乾いて、黒い点の列だけが揃っている。
スマホを取り出し、その鉄板を一枚撮る。中央に入らない。撮り直す。あとで照らし合わせるために。
乗り換えの駅は、風除けの戸が二重になっている。戸と戸の間の空気が一枚、静かに挟まる。
ホームで白く長い列車を待つ。鼻先の光が近づき、音の襟が翻る。
座席に半分だけ腰を預け、膝の上で地図をひらく。視線は短く上下する。
列車は山の壁に沿って走り、ところどころ雪除けの覆いが続いて視界を短く切る。
降りるとき、階段の踊り場でひと呼吸。手すりの冷たさが皺に沿って入ってくる。深呼吸はしない。ゆっくり数を数える。
改札外の案内所で、もう一度地図。
「この丸印の近くへ行きたいのですが、歩けますか?」
係の人は指で画面をなぞり、「駅前通りをまっすぐ。緑の案内板で左に折れるとセンター、右に行くと病院。先にホール。どれもスロープがあります」と言う。
「ありがとうございます。短いスロープはどちらでしょう」
「おそらくですが、ここは短くて少し急、こちらは緩いと思いますね」
印の上に小さな星を足して礼を言う。
駅前のベンチでひと口だけ水を飲む。日陰は薄く、靴の裏にたまった熱がほどけていく。
角を曲がると、手すりの低いスロープが見えた。入口は二枚の自動ドア。
前を通り過ぎるだけにして、耳に集中する。
低音と高音が、短く続く。
スマホで、看板の緑とスロープの傾きを撮る。傾いて写っても構わない。歪みごと保存しておく。
昼近く、パン屋。ガラスに丸いパン。
「この印のあたりに病院はありますか」
地図を見せると、店員はトングを持つ手を止めて頷く。
「そこと、通り沿いにもう一つ。バスなら二つ目で降りると近いです」
「助かります」
同じのを二つ紙袋へ。外の軒下でひと口だけかじって、また包む。次の次に回せるものは回す。
影で数分休む。足の中の音が静かになるのを待つ。
午後は川沿いへ。欄干に指を置き、とん、と二度叩いて離れる。
観光のバスがゆっくり通る。側面の文字は読まない。読まなくても、ここを通る理由は足音の数でわかる。
対岸の角にも緑の案内板。ズームは苦手だ。うまくいかないので、広いまま写す。端まで入っていれば、あとで拡大できる。
次の角で、バス停の前に立つ人に地図を向ける。
「すみません、この印のほうに病院はありますか?」
「あります。一本手前で降りて坂を上がるのが早いですよ」
「ありがとうございます」
「ところでその印、どれも入口で音が鳴る?」
不意の言葉に、短い沈黙が落ちる。
「短い合図があるところを探しています」
「ん…?ああ、もしかして自動ドアの音のことですか?あっちは鳴るはずです」
指さす先を一枚。礼を言って足を向ける。
三つ目の候補は、緑の板が入口の真横に立っていた。矢印が近い。
前を通り過ぎる。低→高の二つ。
ここも当てはまる。
付せんに、また小さな丸。丸は三つになった。
ベンチで靴紐を結び直し、肩を軽く回す。
スマホの画面には、今日の三か所が並ぶ。写真は傾き、光がときどき白く跳ねる。それでも用は足りる。
さらに通りを抜ける。黒い瓦の並ぶ路地、茅の屋根が遠くにひとつ、ゆっくり通る観光バス。
角の八百屋で、地図を見せて尋ねる。
「この印の市のあたりまで来たかったんです。ここは境目でしょうか」
店の人は空を見て、地図を見て、ゆっくり頷く。
「そうだね、この辺り一帯が、その市のはじっこだよ」
「ありがとうございます」
私はスマホの地図に薄い円を足す。円の中に、市の名前がひとつ残った。
今日は、ここまで。建物の前で立ち止まらないことにする。町並みを見て帰る。
角を三つ曲がり、二重戸の駅へ戻る。ホームの影で二分だけ座る。水をひと口。脈が短く整う。
帰りは、乗ってきた道順をそのまま辿らない。
各駅を一本、速い列車を一本。車窓の山は、さっきより近く、さっきより遠い。
トンネルに入る手前で、外の白が薄くなり、ガラスがこちらを少し近く映す。
乗換の合間、柱の影でもう一度だけ腰を下ろす。座ると、足の中の音が静かになる。
最寄りの駅からバス。
停留所のアナウンスは単音で、二音ではない。
玄関の前で爪先をそろえ、鍵を回す。
テーブルに紙袋を置き、丸いパンを一つ皿に出す。もう一つは冷凍庫へ――次の次のため。
付せんを取り出し、朝の文字の横に印を足す。
「緑の看板●/短いスロープ●/二音●(候補3)/市名(仮)◎」
黒い点はスマホの地図に薄い円を足す。円の中に、市の名前がひとつ残った。点の列は、冬の穴みたいに揃う。そこから水は出ないけれど、輪郭がひとつ濃くなった。
水を一杯。コップの縁は丸い。
スマホの写真を三度めくり、地図の円を三度なぞる。
ラジオはつけない。音が増えると、今日の小さな合図が埋もれる。
椅子に腰を置くと、背中が自分の重さを思い出す。窓の向こうで、雲がほどける。
――
ガラス越しの白は、いつもと同じ角度で落ちていた。
三つ目のハイチェア。砂糖壺は中央より、すこし右。
「こんにちは」
「こんにちは」
葵は座る前に鞄の持ち手を直し、前髪を耳にかける。いつもの笑い方が先にくる。
ナプキンの角を合わせ、折り目を爪で一度なぞって、そっと差し入れる。
湯気が二つ、同じ高さで揺れる。
「今日は、少し長い散歩をした」
律が言うと、葵は目じりに笑いを寄せる。
「山、ひとつ?」
「ううん。歩幅が、いつもよりひとつ長かったくらい」
「空気、変わった?」
「少し。緑の板の色が濃くて、坂の角度の種類が増えた」
「二音は」
「いくつか。順番は同じで、場所はまだ」
葵は小さくうなずく。
「それなら、いい散歩」
写真は見せない。ポケットの中で紙の角を軽く丸める。
葵は窓の外に視線を寄せたまま、指でカップの取っ手を四十五度に回しかけて、やめる。
言葉は増えない。増えないぶんだけ、分かっていることが静かにそろう。
「天気、どうだった?」
「ひと雨来るって言ってた」
「こっちも、同じ」
「天気予報の話、ここでしかしてないね」
「ここだと、つい話しちゃう」
湯気の高さは、ずっとそろったまま。
奥でグラスが布の上を小さく回り、止まる。音が半拍だけ低くなる。
「五分前です」
少し離れたところから、やさしい声。
葵は鞄の持ち手を整え、私はコースターの角を指でなぞって元に戻す。
「そろそろ――」
「うん、帰らなくちゃ」
立ち上がるとき、砂糖壺がわずかに揺れて、すぐ落ち着く。
「また、この時間に」
「また、この時間に」
葵はいつもの笑顔で前髪を耳にかける。
ドアの向こうで、誰かの足音が二歩。低いのち高い。
私は目を閉じずに、耳だけで受け取る。
――
ブランケットの縁が、指の下に戻ってくる。
カーテンの隙間から三浦さんが顔をのぞかせる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「体調、いかがですか」
「大丈夫です」
「よろしければ、次回もいつものお時間でお取りできます」
「お願いします」
紙コップの水をひと口。
受付の横で、鉛筆と紙。紙の角を四角く折って、今日ではない日の記録を少しだけ写す。
――緑の看板●/短いスロープ●/二音●(候補3)/市名◎
黒い点の列は整い、帰り道の線が細く見えてくる。
点と点のあいだに、まだ引かない線が一本ある。
引けば行ける。引かないあいだは、遠くまで届く