表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

第八話 山をひとつ

最初に地図をひらく前から、行き先はだいたい決まっていた。

ここまでの午後に重なってきた断片――緑の板の色、短い坂の角度、入口で続く二つの短い合図――それらを机の隅で並べ直すと、画面の上に薄い円がひとつ浮かぶ。誰かに道順を教わった覚えはないのに、いくつかの会話が、指先の向きをそっと決めていた。


古いスマホを起こす。操作の仕方はまだ覚えきれないが、地図は出せる。

円の周りを指で少しだけ広げて、すぐ戻す。広げすぎると、現在地が消えやすい。

鍵をポケットに入れ、靴紐の結び目をつまんで確かめる。


玄関を出て、横断の白に爪先をそろえる。朝の空気は乾いていて、金属の角が指に触れる。

最寄りの停留所からバスに乗り、町の駅へ。


窓口でスマホの地図をひらく。


「この印のあたりに行きたいんですが、山をひとつ越えた先で……」


窓口の人は眉を少し寄せ、カウンターの下から紙の路線図を引き出した。


「少々お待ちください」


隣の窓口の人を呼んで、二人で指で線をたどる。壁の運行表と見比べ、しばらく黙る。


「おおまかには——在来線で隣町まで、そこで速い列車に乗り換え。降りた先はバスか徒歩ですね」


「時刻は?」


「ここで全部追うより、向こうの駅の案内所で聞くのが確実です。乗り継ぎの間隔が日によって変わるので」


紙に矢印を描いて渡してくれる。


「この順番なら、迷いにくいはずです」

「助かります、ありがとうございます」


各駅の車内には、朝の湿りがまだ少し残っている。

山際の手前でトンネルに入り、ガラスがこちらをうっすら映す。抜けた先の屋根の色は濃く、黒い瓦が増える。

道路の端の丸い鉄板には等間隔の穴。冬にはそこから水が出る、と以前のやりとりが耳の奥でたわむ。今日は乾いて、黒い点の列だけが揃っている。


スマホを取り出し、その鉄板を一枚撮る。中央に入らない。撮り直す。あとで照らし合わせるために。


乗り換えの駅は、風除けの戸が二重になっている。戸と戸の間の空気が一枚、静かに挟まる。

ホームで白く長い列車を待つ。鼻先の光が近づき、音の襟が翻る。

座席に半分だけ腰を預け、膝の上で地図をひらく。視線は短く上下する。

列車は山の壁に沿って走り、ところどころ雪除けの覆いが続いて視界を短く切る。

降りるとき、階段の踊り場でひと呼吸。手すりの冷たさが皺に沿って入ってくる。深呼吸はしない。ゆっくり数を数える。


改札外の案内所で、もう一度地図。


「この丸印の近くへ行きたいのですが、歩けますか?」

係の人は指で画面をなぞり、「駅前通りをまっすぐ。緑の案内板で左に折れるとセンター、右に行くと病院。先にホール。どれもスロープがあります」と言う。


「ありがとうございます。短いスロープはどちらでしょう」

「おそらくですが、ここは短くて少し急、こちらは緩いと思いますね」


印の上に小さな星を足して礼を言う。

駅前のベンチでひと口だけ水を飲む。日陰は薄く、靴の裏にたまった熱がほどけていく。


角を曲がると、手すりの低いスロープが見えた。入口は二枚の自動ドア。

前を通り過ぎるだけにして、耳に集中する。

低音と高音が、短く続く。

スマホで、看板の緑とスロープの傾きを撮る。傾いて写っても構わない。歪みごと保存しておく。


昼近く、パン屋。ガラスに丸いパン。


「この印のあたりに病院はありますか」


地図を見せると、店員はトングを持つ手を止めて頷く。


「そこと、通り沿いにもう一つ。バスなら二つ目で降りると近いです」

「助かります」


同じのを二つ紙袋へ。外の軒下でひと口だけかじって、また包む。次の次に回せるものは回す。


影で数分休む。足の中の音が静かになるのを待つ。

午後は川沿いへ。欄干に指を置き、とん、と二度叩いて離れる。


観光のバスがゆっくり通る。側面の文字は読まない。読まなくても、ここを通る理由は足音の数でわかる。

対岸の角にも緑の案内板。ズームは苦手だ。うまくいかないので、広いまま写す。端まで入っていれば、あとで拡大できる。


次の角で、バス停の前に立つ人に地図を向ける。


「すみません、この印のほうに病院はありますか?」

「あります。一本手前で降りて坂を上がるのが早いですよ」

「ありがとうございます」

「ところでその印、どれも入口で音が鳴る?」


不意の言葉に、短い沈黙が落ちる。


「短い合図があるところを探しています」

「ん…?ああ、もしかして自動ドアの音のことですか?あっちは鳴るはずです」


指さす先を一枚。礼を言って足を向ける。


三つ目の候補は、緑の板が入口の真横に立っていた。矢印が近い。

前を通り過ぎる。低→高の二つ。

ここも当てはまる。

付せんに、また小さな丸。丸は三つになった。


ベンチで靴紐を結び直し、肩を軽く回す。

スマホの画面には、今日の三か所が並ぶ。写真は傾き、光がときどき白く跳ねる。それでも用は足りる。

さらに通りを抜ける。黒い瓦の並ぶ路地、茅の屋根が遠くにひとつ、ゆっくり通る観光バス。

角の八百屋で、地図を見せて尋ねる。


「この印の市のあたりまで来たかったんです。ここは境目でしょうか」


店の人は空を見て、地図を見て、ゆっくり頷く。


「そうだね、この辺り一帯が、その市のはじっこだよ」

「ありがとうございます」


私はスマホの地図に薄い円を足す。円の中に、市の名前がひとつ残った。

今日は、ここまで。建物の前で立ち止まらないことにする。町並みを見て帰る。

角を三つ曲がり、二重戸の駅へ戻る。ホームの影で二分だけ座る。水をひと口。脈が短く整う。

帰りは、乗ってきた道順をそのまま辿らない。

各駅を一本、速い列車を一本。車窓の山は、さっきより近く、さっきより遠い。


トンネルに入る手前で、外の白が薄くなり、ガラスがこちらを少し近く映す。

乗換の合間、柱の影でもう一度だけ腰を下ろす。座ると、足の中の音が静かになる。


最寄りの駅からバス。

停留所のアナウンスは単音で、二音ではない。

玄関の前で爪先をそろえ、鍵を回す。


テーブルに紙袋を置き、丸いパンを一つ皿に出す。もう一つは冷凍庫へ――次の次のため。


付せんを取り出し、朝の文字の横に印を足す。

「緑の看板●/短いスロープ●/二音●(候補3)/市名(仮)◎」

黒い点はスマホの地図に薄い円を足す。円の中に、市の名前がひとつ残った。点の列は、冬の穴みたいに揃う。そこから水は出ないけれど、輪郭がひとつ濃くなった。

水を一杯。コップの縁は丸い。

スマホの写真を三度めくり、地図の円を三度なぞる。

ラジオはつけない。音が増えると、今日の小さな合図が埋もれる。

椅子に腰を置くと、背中が自分の重さを思い出す。窓の向こうで、雲がほどける。



――




ガラス越しの白は、いつもと同じ角度で落ちていた。

三つ目のハイチェア。砂糖壺は中央より、すこし右。


「こんにちは」

「こんにちは」


葵は座る前に鞄の持ち手を直し、前髪を耳にかける。いつもの笑い方が先にくる。

ナプキンの角を合わせ、折り目を爪で一度なぞって、そっと差し入れる。

湯気が二つ、同じ高さで揺れる。


「今日は、少し長い散歩をした」


律が言うと、葵は目じりに笑いを寄せる。


「山、ひとつ?」

「ううん。歩幅が、いつもよりひとつ長かったくらい」

「空気、変わった?」

「少し。緑の板の色が濃くて、坂の角度の種類が増えた」

「二音は」

「いくつか。順番は同じで、場所はまだ」


葵は小さくうなずく。


「それなら、いい散歩」


写真は見せない。ポケットの中で紙の角を軽く丸める。

葵は窓の外に視線を寄せたまま、指でカップの取っ手を四十五度に回しかけて、やめる。

言葉は増えない。増えないぶんだけ、分かっていることが静かにそろう。


「天気、どうだった?」

「ひと雨来るって言ってた」

「こっちも、同じ」

「天気予報の話、ここでしかしてないね」

「ここだと、つい話しちゃう」


湯気の高さは、ずっとそろったまま。

奥でグラスが布の上を小さく回り、止まる。音が半拍だけ低くなる。


「五分前です」


少し離れたところから、やさしい声。

葵は鞄の持ち手を整え、私はコースターの角を指でなぞって元に戻す。


「そろそろ――」

「うん、帰らなくちゃ」


立ち上がるとき、砂糖壺がわずかに揺れて、すぐ落ち着く。


「また、この時間に」

「また、この時間に」


葵はいつもの笑顔で前髪を耳にかける。

ドアの向こうで、誰かの足音が二歩。低いのち高い。

私は目を閉じずに、耳だけで受け取る。



――



ブランケットの縁が、指の下に戻ってくる。

カーテンの隙間から三浦さんが顔をのぞかせる。


「お帰りなさい」

「ただいま」

「体調、いかがですか」

「大丈夫です」

「よろしければ、次回もいつものお時間でお取りできます」

「お願いします」


紙コップの水をひと口。

受付の横で、鉛筆と紙。紙の角を四角く折って、今日ではない日の記録を少しだけ写す。


――緑の看板●/短いスロープ●/二音●(候補3)/市名◎


黒い点の列は整い、帰り道の線が細く見えてくる。

点と点のあいだに、まだ引かない線が一本ある。

引けば行ける。引かないあいだは、遠くまで届く

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ