第七話 事情
ラウンジの受付に、白い紙が一枚、太字で貼り直されていた。
角はまっすぐ、余白は多い。テープの四隅がうっすら影をつくり、紙の端は新しいカッターの匂いがした。小さな文字で——連絡先や住所の交換はご遠慮ください/会う約束はしないでください/対象外の方のご利用はできません——。
壁の時計は秒針の音を立てないタイプで、代わりにどこかの機械が低く一定の呼吸を続けている。
名札の三浦さんが言う。
「前からあった文面なんですが、最近ちょっと行き違いが続いて。はっきり書き直したんです」
「わかります」
私はうなずく。三浦さんは、台の上のクリップボードを私のほうへ回し、ペン先で日付に丸をつけ、私の手首に薄いバンドを巻いた。留め具が小さく鳴る。額のパッドの位置が、指先でそっと整えられる。
「きつくないですか」
「大丈夫です」
「今日は——一時間で。終わりの五分前にお声がけしますね。水分も、無理のない範囲で」
「お願いします」
ブランケットの重さが、紙一枚の重さに近づく。布の繊維が手の甲に沿って並ぶ感触は、日によって少し違う。今日は軽い。
息を長く吐いて、目を閉じる準備をする。準備というのは、たいていそれだけで足りる。目の裏側に、白い帯が一本、静かに現れる。
——
窓辺の白は、いつもの角度で落ちていた。
三つ目のハイチェア。砂糖壺は真ん中より、すこし右。カウンターの木目が、白い光で一度折れて、まっすぐになる。奥ではグラスの縁が布で磨かれ、音はほとんど立たない。
「こんにちは」
「こんにちは」
葵は座る前に鞄の持ち手を指で直し、前髪を耳にかける。笑顔が、いつも先に来る。
ナプキンの角を合わせ、折り目を爪で一度なぞってから、そっとカップの足元へ。仕草は柔らかいのに、折り目はくっきりしている。湯気が二つ、同じ高さで揺れ、カウンターの上で薄い輪郭を描いた。
「今日は、話したいことがあるの」
言い方は静かで、でも、湯気の高さがほんの少しだけ変わる。
律はうなずく。「聞くよ」
「ここは、ゆっくり歩く人が主役のところ。わたしたちは、その影の涼しい席にいるだけ」
「知ってる。だから言葉は短くしてる」
葵はカップの縁を指で軽く押し、笑って続ける。
「普段は、横になって過ごす時間のほうが長い場所にいるの。そこから、この建物の中の静かな部屋まで連れてきてもらって、ここに座る。押してくれる人の角の曲がり方が、やさしい音をしてる」
「……調子は?」
「波がある。深く眠ってる日も多い。でもね、ここに来る日は顔が上を向く。目を閉じてる時間が長いときでも、ここだと目がひらきやすい。不思議」
言い方は冗談の形をしているのに、冗談の重さではない。笑顔は、崩れない。
律は、砂糖壺の位置を一度だけ見てから、視線を戻す。カップの取っ手を四十五度に回しかけて、やめる。
「それでも、来てくれてる」
「来たいから。ここだと、身体の重さを少し置いておけるから」
葵は肩を少しすくめた。耳のところで髪が小さく揺れる。
「毎日ってわけじゃないけど、あなたに会える日があるってだけで、一日の音が整うの」
「うん」
「同じ時間に座る癖がついちゃったね。いない日は、ゆっくりしてる。——また会えるから、その日までの静かな時間も好き」
二人は短く笑う。約束の言い方は、あいまいでいい。
外の通りを人影が横切る。窓の端の光が、歩幅に合わせてわずかに揺れ、すぐ戻る。小さな金属音が一つ、どこかで跳ねて消えた。
少し間を置いて、葵は指先でテーブルをとん、と二度叩いた。
「ここから外のことを言うのには、ルールがあるから、名前は言わないね。……うちのほう、冬は道の真ん中から水が出るの」
「道の真ん中から?」
「うん、小さな穴からぴゅっと——雪を融かす水。駅は風よけの戸が二重で、黒い瓦が多い。たまに大きな茅の屋根を見かける。観光のバスがゆっくり通るの」
律は目を細める。
「こっちから、山をひとつ越えたら、その景色だった気がする」
葵が小さく笑う。
「じゃあ、もしかしてお隣どうしだね。天気予報も、きっと同じ」
「そういえば、天気予報の話って、ここでしかしてない」
「うん。ここだと、つい話しちゃう」
「近いんだ」
「うん、思ってたより近いかも」
湯気はまだ同じ高さを保っている。
葵は視線を窓の外にやって、「入口の紙、太くなってたね」と言った。
「うん。前からあったのに」
「会う約束はしないでくださいって——当たり前の言葉なんだけど、今日はすごく大きい字に見えた」
律はうなずく。喉の奥で言葉が丸くなる。
「会いたいって思うのはね、時々、波みたいに来る」
「僕も、同じだ」
「だから、直接の約束はしない代わりに——同じ時間を続ける」
「それで、十分だ」
奥でグラスがもう一度、布の上でわずかに回った。店内の音が半拍だけ低くなる。
律はもう一度うなずき、これまでの合図を言葉の折り目みたいに静かに並べた。
「……緑の看板、短い坂、二音の合図。外はバスが多い——黒い瓦、雪を融かす水、山をひとつ」
心の中で、三つの合図と外の断片を薄い線でつなぐ。
線は少ないほど、遠くまで届く。
余白は増えるのに、迷いは減る。そういう時が、たしかにある。
「五分前です」
すこし遠いところから、やさしい声。
湯気の高さが、また同じになる。スプーンの影がカップの縁で少し揺れ、止まる。
「そろそろ——」
「うん、帰らなくちゃ」
立ち上がるとき、砂糖壺の位置がわずかに揺れて、すぐ戻った。カウンターの端で光が細く伸び、椅子の脚が木目の上で息をする。
「また、この時間に」
「また、この時間に」
葵は鞄の持ち手を指で直し、変わらない笑顔で前髪を耳にかける。視線の高さがふっと軽くなる。
湯気はもう見えない。けれど、低い音から高い音への二音だけ、どこかで小さく鳴った気がした。二音のあいだに、ごく短い間——ちょうど、合図に必要な長さだけの。
——
ブランケットの縁が、指の下に戻ってくる。布の毛羽がかすかに逆立ち、指先で撫でるとおとなしくなる。
カーテンの隙間から三浦さんが顔をのぞかせ、「お帰りなさい」と言う。
「ただいま」
「体調、いかがですか」
「大丈夫です」
「よかったら、次回もいつものお時間でお取りできます。お水、どうぞ」
「お願いします」
紙コップの縁が唇に触れる。水の温度は室内の空気と同じくらいで、喉の手前だけが少し広くなる。
受付に戻ると、透明な小箱に小さな飴がいくつか。柑橘と薄荷の包みが、光で色を変える。私は柑橘をひとつ選ぶ。包み紙を開く音が、想像より静かだ。
横のテーブルには短い鉛筆とメモ用紙。紙の角は、四枚まとめてきれいに揃っている。
私は椅子に腰を下ろし、膝の上で紙を支え、今日のことをすこしだけ写す。
——三つの合図と、外の景色の断片。
言葉は少ないほど、遠くへ届く。
文字は少し角ばる。四角く折れば、端まで届く。折り目を指でならし、ポケットにしまう。取り出す必要がないときでも、形があると安心する。
待合の椅子に、同じ時間帯の顔ぶれが点々と座っている。杖の先が床に置かれる音、車輪がゆっくり向きを変える小さな擦過音、ページをめくる紙の呼吸。
壁の掲示板には、季節の写真が一枚。雪解けの水が道の端を走る様子——名前は書かれていない。名前がないと、遠くまで届く。
自動ドアが開く。外の白い帯が、向こうまでまっすぐ伸びている。昼の光は、ここに来る前より一段やわらかい。
ポケットの中で鍵の角を確かめる。金属の冷たさが指先の皺に沿って入り、ここにいることを思い出させる。靴紐を一度結び直す。ゆっくりでいい。ほどけたら、結び直せばいい。
一歩、二歩。廊下の角で、押してくれる人の足音が、遠くで別の足音と重なる。同じ天気を分け合う空が、天井の照明の向こうで確かに続いている。
自動ドアの外は、風が少しだけ回って、袖口を撫でる。遠くでバスのエンジンが低く鳴り、すぐ高くなる——二音だ。
私は足もとを見て、白い帯の端に靴を揃える。
帰り道があるうちに、帰る。
帰り道の途中で、三つの合図と外の景色の断片を、心の中でもう一度、薄い線でつなぐ。
言葉は少ないほど、遠くへ届く。
次の角の先に、次の午後が待っている。
ここでも、向こうでも。