表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12

第七話 事情

ラウンジの受付に、白い紙が一枚、太字で貼り直されていた。

角はまっすぐ、余白は多い。テープの四隅がうっすら影をつくり、紙の端は新しいカッターの匂いがした。小さな文字で——連絡先や住所の交換はご遠慮ください/会う約束はしないでください/対象外の方のご利用はできません——。

壁の時計は秒針の音を立てないタイプで、代わりにどこかの機械が低く一定の呼吸を続けている。


名札の三浦さんが言う。

「前からあった文面なんですが、最近ちょっと行き違いが続いて。はっきり書き直したんです」

「わかります」

私はうなずく。三浦さんは、台の上のクリップボードを私のほうへ回し、ペン先で日付に丸をつけ、私の手首に薄いバンドを巻いた。留め具が小さく鳴る。額のパッドの位置が、指先でそっと整えられる。


「きつくないですか」

「大丈夫です」

「今日は——一時間で。終わりの五分前にお声がけしますね。水分も、無理のない範囲で」

「お願いします」


ブランケットの重さが、紙一枚の重さに近づく。布の繊維が手の甲に沿って並ぶ感触は、日によって少し違う。今日は軽い。

息を長く吐いて、目を閉じる準備をする。準備というのは、たいていそれだけで足りる。目の裏側に、白い帯が一本、静かに現れる。


——


窓辺の白は、いつもの角度で落ちていた。

三つ目のハイチェア。砂糖壺は真ん中より、すこし右。カウンターの木目が、白い光で一度折れて、まっすぐになる。奥ではグラスの縁が布で磨かれ、音はほとんど立たない。


「こんにちは」

「こんにちは」


葵は座る前に鞄の持ち手を指で直し、前髪を耳にかける。笑顔が、いつも先に来る。

ナプキンの角を合わせ、折り目を爪で一度なぞってから、そっとカップの足元へ。仕草は柔らかいのに、折り目はくっきりしている。湯気が二つ、同じ高さで揺れ、カウンターの上で薄い輪郭を描いた。


「今日は、話したいことがあるの」

言い方は静かで、でも、湯気の高さがほんの少しだけ変わる。

律はうなずく。「聞くよ」


「ここは、ゆっくり歩く人が主役のところ。わたしたちは、その影の涼しい席にいるだけ」

「知ってる。だから言葉は短くしてる」


葵はカップの縁を指で軽く押し、笑って続ける。


「普段は、横になって過ごす時間のほうが長い場所にいるの。そこから、この建物の中の静かな部屋まで連れてきてもらって、ここに座る。押してくれる人の角の曲がり方が、やさしい音をしてる」


「……調子は?」

「波がある。深く眠ってる日も多い。でもね、ここに来る日は顔が上を向く。目を閉じてる時間が長いときでも、ここだと目がひらきやすい。不思議」


言い方は冗談の形をしているのに、冗談の重さではない。笑顔は、崩れない。

律は、砂糖壺の位置を一度だけ見てから、視線を戻す。カップの取っ手を四十五度に回しかけて、やめる。


「それでも、来てくれてる」

「来たいから。ここだと、身体の重さを少し置いておけるから」


葵は肩を少しすくめた。耳のところで髪が小さく揺れる。


「毎日ってわけじゃないけど、あなたに会える日があるってだけで、一日の音が整うの」

「うん」

「同じ時間に座る癖がついちゃったね。いない日は、ゆっくりしてる。——また会えるから、その日までの静かな時間も好き」


二人は短く笑う。約束の言い方は、あいまいでいい。

外の通りを人影が横切る。窓の端の光が、歩幅に合わせてわずかに揺れ、すぐ戻る。小さな金属音が一つ、どこかで跳ねて消えた。


少し間を置いて、葵は指先でテーブルをとん、と二度叩いた。


「ここから外のことを言うのには、ルールがあるから、名前は言わないね。……うちのほう、冬は道の真ん中から水が出るの」

「道の真ん中から?」

「うん、小さな穴からぴゅっと——雪を融かす水。駅は風よけの戸が二重で、黒い瓦が多い。たまに大きな茅の屋根を見かける。観光のバスがゆっくり通るの」


律は目を細める。

「こっちから、山をひとつ越えたら、その景色だった気がする」


葵が小さく笑う。


「じゃあ、もしかしてお隣どうしだね。天気予報も、きっと同じ」

「そういえば、天気予報の話って、ここでしかしてない」

「うん。ここだと、つい話しちゃう」

「近いんだ」

「うん、思ってたより近いかも」


湯気はまだ同じ高さを保っている。

葵は視線を窓の外にやって、「入口の紙、太くなってたね」と言った。


「うん。前からあったのに」

「会う約束はしないでくださいって——当たり前の言葉なんだけど、今日はすごく大きい字に見えた」


律はうなずく。喉の奥で言葉が丸くなる。


「会いたいって思うのはね、時々、波みたいに来る」

「僕も、同じだ」

「だから、直接の約束はしない代わりに——同じ時間を続ける」

「それで、十分だ」


奥でグラスがもう一度、布の上でわずかに回った。店内の音が半拍だけ低くなる。

律はもう一度うなずき、これまでの合図を言葉の折り目みたいに静かに並べた。


「……緑の看板、短い坂、二音の合図。外はバスが多い——黒い瓦、雪を融かす水、山をひとつ」


心の中で、三つの合図と外の断片を薄い線でつなぐ。

線は少ないほど、遠くまで届く。

余白は増えるのに、迷いは減る。そういう時が、たしかにある。


「五分前です」


すこし遠いところから、やさしい声。 

湯気の高さが、また同じになる。スプーンの影がカップの縁で少し揺れ、止まる。


「そろそろ——」

「うん、帰らなくちゃ」


立ち上がるとき、砂糖壺の位置がわずかに揺れて、すぐ戻った。カウンターの端で光が細く伸び、椅子の脚が木目の上で息をする。


「また、この時間に」

「また、この時間に」


葵は鞄の持ち手を指で直し、変わらない笑顔で前髪を耳にかける。視線の高さがふっと軽くなる。

湯気はもう見えない。けれど、低い音から高い音への二音だけ、どこかで小さく鳴った気がした。二音のあいだに、ごく短い間——ちょうど、合図に必要な長さだけの。


——


ブランケットの縁が、指の下に戻ってくる。布の毛羽がかすかに逆立ち、指先で撫でるとおとなしくなる。

カーテンの隙間から三浦さんが顔をのぞかせ、「お帰りなさい」と言う。


「ただいま」

「体調、いかがですか」

「大丈夫です」

「よかったら、次回もいつものお時間でお取りできます。お水、どうぞ」

「お願いします」


紙コップの縁が唇に触れる。水の温度は室内の空気と同じくらいで、喉の手前だけが少し広くなる。

受付に戻ると、透明な小箱に小さな飴がいくつか。柑橘と薄荷の包みが、光で色を変える。私は柑橘をひとつ選ぶ。包み紙を開く音が、想像より静かだ。


横のテーブルには短い鉛筆とメモ用紙。紙の角は、四枚まとめてきれいに揃っている。

私は椅子に腰を下ろし、膝の上で紙を支え、今日のことをすこしだけ写す。

——三つの合図と、外の景色の断片。

言葉は少ないほど、遠くへ届く。

文字は少し角ばる。四角く折れば、端まで届く。折り目を指でならし、ポケットにしまう。取り出す必要がないときでも、形があると安心する。


待合の椅子に、同じ時間帯の顔ぶれが点々と座っている。杖の先が床に置かれる音、車輪がゆっくり向きを変える小さな擦過音、ページをめくる紙の呼吸。

壁の掲示板には、季節の写真が一枚。雪解けの水が道の端を走る様子——名前は書かれていない。名前がないと、遠くまで届く。


自動ドアが開く。外の白い帯が、向こうまでまっすぐ伸びている。昼の光は、ここに来る前より一段やわらかい。

ポケットの中で鍵の角を確かめる。金属の冷たさが指先の皺に沿って入り、ここにいることを思い出させる。靴紐を一度結び直す。ゆっくりでいい。ほどけたら、結び直せばいい。


一歩、二歩。廊下の角で、押してくれる人の足音が、遠くで別の足音と重なる。同じ天気を分け合う空が、天井の照明の向こうで確かに続いている。

自動ドアの外は、風が少しだけ回って、袖口を撫でる。遠くでバスのエンジンが低く鳴り、すぐ高くなる——二音だ。


私は足もとを見て、白い帯の端に靴を揃える。


帰り道があるうちに、帰る。

帰り道の途中で、三つの合図と外の景色の断片を、心の中でもう一度、薄い線でつなぐ。

言葉は少ないほど、遠くへ届く。

次の角の先に、次の午後が待っている。

ここでも、向こうでも。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ