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第六話 カウンターの記憶

あの頃、朝の仕込みは音の順番から始まっていた。

水の線を細くしてポットに落とし、ミルの刃を一段だけ締める。豆をひとつかみ指で転がし、脂の出かたを確かめる。布は角を合わせて畳む——角がそろうと、店の呼吸が一拍だけ落ち着く。


鍵を回すとき、金属の重さが日によって違って感じられる朝があった。

ドアベルの高さも、半音だけずれることがある。片方の朝は手のひらが軽く、もう片方の朝は指の節が鳴る。どちらも、私の手だ。私は、どちらの朝も同じ手順で店を開けた。


十一時半を少し回ると、窓から白い角度の光がすべりこみ、いちばん明るいのは窓沿いの三つ目のハイチェアになる。

私はその時間帯のために、カップを二つ、同じ位置に伏せておく。砂糖壺は真ん中より、すこしだけ右へ。そうしておけば、真ん中へ寄せる手つきが“自然”に見える。


ガラスにやわらかな人影が映る。

二人分の足音が同じ拍で入ってきて、それぞれの椅子に、お互いが知っている距離で座った。


「こんにちは」

「こんにちは」


店の中では、声が自然と落ちる。ここは、そういう場所だ。

彼女は紙ナプキンの角を音もなく揃え、折り目を指先で一度なぞり、そっとカップの足元へ差し込む。

彼はカップの取っ手を、必ず四十五度に回す。使いやすさより、方向を定めるための回転——私はそう見ていた。


「今日のは、少しだけ深めです」


それだけ告げて、私はカウンターに戻る。余計な言葉は、薄い膜を破る。破らないほうが、遠くまで届くことがある。

砂糖壺が真ん中に寄り、二人の指がふわりと触れて、すぐ離れる。

一秒より短い温度。温度だけが、そこに残った。

会話は少ない。少ないのに、音がいくつも動く。ナプキン、取っ手、呼吸、湯気。私は耳でそれらの位置を覚えていた。


雨の日は、二人の歩幅が揃いやすかった。

傘の骨に落ちる最初の滴が内側に丸い部屋をつくると、二人はその音を一拍聞いてから同じ速度で立ち上がる。私はドアの重さを半歩早く軽くしておいた。何も言わなかったが、二人は気づいたように目だけで頷いた。


「そろそろ」

「うん、帰らなくちゃ」


いつも、同じ合図で席を立つ。短い合図のあと、どちらかが先に笑う。理由は訊かない。訊かないほうが、明日が来る。私は目だけで「いってらっしゃい」と送り、拭き布で水滴をひとつ拾った。拭き取る順番は、いつも左から右だ。


——あの二人は、よく来ていた。


名前を名乗ったこともあるが、私はたいてい、仕草のほうで識別していた。四角い紙、四十五度、欄干をとん、と二度叩く癖。


そんな客がいたなと、今なら言える。


でも、カウンターの木目は覚えている。二人が肘を置いた位置にだけ、午後の白がよく立った。


ある春の終わり、ふたりはふいに来なくなった。

便りはない。けれど、知らせに似た静けさはあった。

窓からの白は変わらず、砂糖壺の位置も同じなのに、最初の一口の音だけが少し遠くなる——そんな日の静けさだ。私はカップを二つ伏せる癖を、しばらくやめられなかった。



別の午後に、一度だけ、ひとりで来た客がいる。

名は名乗らない。紙袋の角を揃え、砂糖を使わず、コースターの角だけをテーブルの縁と平行にする。

「深さは、どうですか」と私が尋ねると、「静かで助かります」と短く答えた。声は小さいのに、返事の間はどこかで知っている。


会計のあと、レジ横のメモ紙に一行だけ書き、角を指で押してから、丁寧に折る。鍵をポケットで一度握り直し、ドアの向こうの白い帯を確かめてから帰って行った。


私はその人を“角をそろえる人”と心の中で呼んだ。初めての所作なのに、見知っている呼吸だった。


——その日を最後に、その人も来ない。


いつの間にか、私は同じ店を二度開けるみたいに暮らしていた。

ベルの高さが違う朝、鍵の回り方が違う夕方。若い笑いが湯気の上を通り過ぎる日もあれば、釣り銭盆の硬貨が昔のテレビの効果音みたいに丸い音を立てる日もある。


どちらの日でも、私は砂糖壺を真ん中に戻してから、わざと二センチだけ右へ寄せた。明日の“自然”のために。

常連は、どちらの日にもいる。

新聞をゆっくりめくる人、氷水の露を指で拭ってからグラスを持ち上げる人、椅子のきしみを気に入って同じ席に座る人。

二人が来なくなってからも、店は変わらず回っている。私は相変わらず、間合いの管理人だ。豆の秒数、湯の速度、カップを置くときの静けさ、客の会話のすき間——言葉は補助で、うまくいく日は少ない。


「ここ、いつも同じ席に同じ人が座るね」

別の常連がふと口にすることがある。


「光の都合がいいんですよ」と私は答える。


光の都合、と言っておけば、だいたいのことは穏やかに治まる。ほんとうは、音の都合だと思っている。音が合う席に人は座る。人が座るから音が合う。どちらが先でも、結果は同じだ。


——思い出には、年齢がない。


若い笑いの音も、鍵を握る指の節の音も、カウンターの木目の上では同じ速度で乾く。

ただ、取っ手を四十五度に回す手つきと、紙を四角く折る爪の運びは、年齢に関係なく同じ音を持つ。似ているだけだ、と言い聞かせる。けれど、似ているものが同じ音を持つとき、耳は勝手に覚えてしまう。

夕刻、店がいったん薄くなる時刻——氷水のピッチャーの露を拭き、ガラスの指紋を落とす。


窓の白は、季節ごとに厚みを変える。春は薄く、夏は重く、秋は輪郭がやわらかい。冬の白は、天井の高さをよく見せる。

二人が坐った時間の白は、窓の端から真っ直ぐに来て、カウンターの木目で一度だけ折れた。折れた先で、音がまっすぐになる。私はそれを今でも好きだと思う。


パン屋の紙袋を一つ持って戻ってきた日があった。

袋の口はほんの少し開いて、湯気が指先に絡んでいた。「同じの、ふたつ包んでもらいました」と笑って、店の角で別れる二人の背中を、私はガラス越しに見送った。


その日以降、袋の折り目をなでる癖が移った。紙の角は、誰の指でもまっすぐになるものだ。


閉店前に看板を裏返す。CLOSE の文字が、夜気のなかで静かに四角になる。

ガラスに残った自分の指紋を拭き取り、ピッチャーの露を布で吸い、砂糖壺を真ん中に戻して、また二センチだけ右へ寄せる。


ドアの鍵は、今日は少し重い。指の節が鳴る。白い帯は、昼より細く見えた。向こうの角で、誰かが小さく手を上げる。私は会釈を返し、歩幅を半歩だけ狭める。


帰り道があるうちに、帰る。店にも、自分にも、明日にも。

明日の十一時半、窓の白はまた同じ角度で来るだろう。

そのとき私は、カップを二つ、同じ位置に伏せるかもしれない。あるいは一つだけ。

どちらでも、音はきっと整う。


——そして時々、ベルの高さが半音ずれた朝が来る。私はその朝にも、同じ順番で音を並べる。二人の席を用意するでも、用意しないでもなく。

“そんな客がいたな”と思い出すには、十分な静けさだけ、毎日ここにある。

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