第五話 雨の遠回り
窓ガラスの内側で、雨粒が音の地図を描いていた。
輪郭のはっきりしない街が、やわらかく近づいては遠のく。ピッチャーの表面に細かな露が並び、氷がひと粒だけ位置を変える。音は小さいのに、空気が半歩だけ整う。
「こんにちは」
「こんにちは」
いつもの三つ目のハイチェア。葵は座る前に鞄の持ち手を指で直し、前髪を耳にかける。ナプキンの角が音もなく揃い、折り目を爪で一度なぞってから、そっとカップの足元へ。
拓海がブレンドを二つ置き、砂糖壺を真ん中にすべらせる。「今日は、少し音が深いよ」とだけ言って、すぐにカウンターへ戻った。
湯気の向こうで、葵の瞳が雨に似た光り方をする。
「濡れそう?」
「うん。でも、歩ける雨だ」
「歩ける雨?」
「傘の内側に、安心の音ができるやつ」
言い方に、律は笑う。たしかに、雨には歩ける日と歩けない日がある。音の厚みで決まる、そんな気がする。
「帰り、寄り道しよう」
「賛成」
ドアの外は、白く静かな雨。傘の骨に最初の滴が落ち、内側に丸い部屋ができる。二人の声は、その天井にそっと吸われる。
並んで歩くと、傘の端から滴が規則正しく落ちていく。片方の肩が少し濡れるたび、もう片方が傘を寄せる。
「どっちかが少し濡れてる方が、ちゃんと並んでる感じがするね」
「わかる。対称すぎると落ち着かない」
横断歩道の白い帯は、雨の日のほうが厚い。
踏むたびに音がひとつ増え、空気が丸くなる。車の音は遠く、足音は近い。
「雨の日って、歩幅が勝手に合う」
「うん。音に合わせると、勝手に」
最初の角で、二人は立ち止まる。
軒先から、細い雨だれが糸みたいに落ちている。
「ここ、好き」
「なんで」
「理由はたぶん、今じゃないと出てこないやつ」
「じゃあ、今は理由なしで好きってことで」
「それでいこう」
商店街の手前で、ビニールの匂いが強くなる。閉じた店の前に、折りたたまれたシートが積んである。雨の日の匂いは層になっていて、深いところで紙と糊が混ざる。
古本屋の軒で、二人はいったん雨宿りをする。ショーウィンドウの中で、表紙の角が湿気を吸って少し丸くなっている。本の背の並びを目で撫でるだけで、静かになる。
「一冊だけ選ぶなら?」
葵の声は、答えを急がせない。
「地図。知らない街の」
「読むの?」
「眺める。線の意味を自分で決められるから」
「いいね。わたしは、白いページの多い詩集」
「言ってないことの方が多いやつ」
「そう。それを一緒に読む。声にはしないで」
傘をたたんで店に入るふりをして、やめる。
触れないことで輪郭が濃くなる時がある。二人はそれをもう知っている。
「次の“次”に買おう」
「うん。次の“次”なら、ずっと近い」
雨脚が少し弱くなる。
ガラスの向こうで、通りの色が一段明るい。二人はまた傘をひらき、路地へ出る。
水たまりがいくつも並んで、空の色を集めている。端を蹴ると、丸い世界が壊れて、すぐまた丸く戻る。
「壊し方が優しいね」
「壊したら、作るまでが一連だと思ってるだけ」
バス停のベンチは濡れていて、座らない。
二人の肩が、傘の下でほんの少し触れそうになって、触れない。
「連絡先、交換しないんだっけ」
「しない」
「うん」
肯定は短い。短いのに、重い。
「でも、いつも同じ時間に会える」
「それが、いちばん長い約束」
川沿いに出る。
雨の日の川は、音が増える。欄干に落ちる滴、橋の裏で跳ねる細かい水、遠くの水面に広がる輪。
「雨の川は、歩ける気がする」
「晴れの日より?」
「うん。見える距離が短いほうが、勇気いらない」
「じゃあ、今日は勇気がいらない日だ」
葵は傘の柄を持つ手を替える。
指の間に水が溜まって、風が拭っていく。
「寒くない?」
「平気」
言葉は短い。短いことで、他のものを守れる瞬間がある。
欄干の上で人差し指を二度、とん、と鳴らす。音は雨にすぐ溶けるけれど、二人には届く。
小さな映画館の前まで、遠回りをする。
ガラスの内側に今日のポスター。角の画鋲の銀色だけが濡れずに光っている。
タイトルは読める。内容は読めない。読めないことを、ふたりは楽しむ。
「この椅子、きしむかな」
「きしむといいね」
「いい音だといい」
答え合わせはしない。しないことは、今日の予定の一部だ。
雨脚が一段強くなって、傘の天井に音が増える。
通りの窪みに水が集まり、足首の少し上を冷たさが撫でる。
「ここで戻ろうか」
「うん。でも、もう一回だけ遠回りしたい」
「どのくらい」
葵は少し考えて、傘の端から落ちる滴を数える。
「十滴ぶん」
「了解。十滴ぶんの遠回り」
十滴は、思っていたより短く、思っていたより長い。
二人の影が舗道の継ぎ目で切れて、またすぐ一つになる。
切れて、戻る——その繰り返しの回数だけ、歩いた気がする。
商店街に戻ると、雨は細くなっていた。
パン屋の前で、ふたりの足が同時に止まる。ショーケースの丸いパンが、湯気の向こうでゆっくり呼吸している。
「今日は?」
葵は短くうなずいた。
「うん、今日は入ろう」
ドアの鈴が一度だけ鳴る。
トングの金属が浅く触れ合って、同じ丸いのを二つ、紙袋へ。会計の小さな音が、雨音にまぎれて消える。
軒の下で袋の口を少し開けると、湯気が指に触れる。
「あったかい」
「名前はよく知らないけど、いい匂い」
ひとつを葵に渡し、もうひとつの端を少しかじる。
外の空気と、バターの匂いが混ざる。
「次の“次”は、別の形にしよう」
「うん。今日は“今日”」
バターの匂いが袖に少し残ったまま、ふたりは歩き出す。
店の角が近づく。
「そろそろ——」
「うん、帰らなくちゃ」
合図はいつも短い。短いまま、同じところに降りる。
「また、この時間に」
「また、この時間に」
傘を閉じる。
骨の音が小さく鳴って、雨の音に混ざる。別れる角で、ふたりは同じタイミングで笑う。理由は訊かない。訊かないことは、今日の約束の最後の一つだ。
——帰り道があるうちは、帰り道の話だけしていればいい。
そんな気がして、律は傘の柄を軽く握り直した。
通りの白い帯は、雨に濡れて厚みを増している。踏むたびに音がひとつ増え、歩幅が自然に合う。
次の角の先に、次の午後が待っている。
雨でも、晴れでも。