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第四話 午後二時の部屋

紙に「午後二時」と書いて、冷蔵庫の付せんの列に足す。


角をそろえる。角がそろうと、頭の中の音が少し静かになる。


コートの袖口に手を通し、鍵をポケットで確かめる。

金属の角が触れれば、大丈夫の合図だ。外は白っぽい。横断歩道の帯が向こうまでまっすぐ伸び、信号はちょうど青に変わる。歩幅を半歩だけ狭めて渡る。帰り道のことは、帰り道に考える。


角を二つ曲がると、ガラスの自動ドア。

〈地域センター ラウンジ〉と銀色の文字。ドアが開くと、消毒液と柔らかい洗剤の匂いが混ざって鼻に届く。受付のカウンターには、白い小さな花が一本、細いガラスに挿してある。花は毎回ちがう。今日は茎がまっすぐで、名前を思い出せない白。


「こんにちは」

「こんにちは。遠野さま、本日はご希望どおりの時間で承っています。終わりの五分前にお声がけします。体調が悪くなったら、右手を三回で合図してくださいね」


名札の三浦さんが、左手首に薄いバンドを巻いてくれる。ベルトの裏がすこしひんやり。皮膚はすぐにその温度を受け入れる。


「きつくないですか」

「大丈夫です」

「お部屋はいつもの場所で」

「お願いします」


廊下は静かで、靴底の下で空調の低い音が転がる。

カーテンで区切られた小さな部屋に入る。椅子と、柔らかい枕、薄いブランケット。窓は磨かれているらしく、光がまっすぐ床に落ちている。


「血圧、失礼しますね」


カフが腕に巻かれ、空気がゆっくり入る。皮膚の下の脈が、指より先に機械に数えられる。


「今日も安定されています」


額に当てる薄いパッドの位置が少し整えられ、視界の端の白が増える。


「お水、置いておきます。——いってらっしゃい」


言い慣れた一言にうなずく。


「いってきます」


ブランケットを膝にかける。指先で布の縁をつまむと、縫い目のリズムが指に残る。


時間はいつも、始まる前にだけ重さをもつ。始まってしまえば、重さは形を変える。

息を長く吐いて、目を閉じる準備をする。準備というのは、たいていそれだけで足りる。


——


最初に来るのは、新しい光だ。

見覚えに似た角度ではなく、今日のために用意された白。ガラスがきれいに磨かれている日のように、粒が大きい。

足もとで小さな影が伸びたり縮んだりする。影を踏むあそびを、二人分の足が交互に続ける。踏まれた影は痛がらない。むしろ少し嬉しそうに伸びる。

横断歩道の白は、今日は厚みがある。

帯の一本一本の境目に、呼吸の置き場が見つかる。並びかたを決めたのは自分たちではないのに、歩幅が自然に合う。

道の端で、赤い郵便受けの口が開いている。投函する紙は持っていない。けれど、差し出し方の姿勢だけを練習する。宛名のない宛名書きを、笑わずに真面目に。

石畳の細い路地。

古い窓ガラスが午後の光をかすかに撓ませる。そこに二人分の顔が重なり、輪郭は定まらないまま寄ったり離れたりする。

手袋の片方だけがベンチの背に忘れられていて、触れないまま色を確かめる。

風の向きが変わるたび、異なる町の匂いがする。洗いたてのシーツ、新しい本の紙、出し立ての出汁。匂いは会話の代わりに並んで流れ、言葉より先に意味になる。


——


次に来るのは、静かな部屋だ。

天井の高い白い空間。たくさんの額が壁にかかっていて、中身は抽象画でも風景でもない——余白だ。額縁だけが規則的に並び、空白がそれぞれ違う大きさで呼吸している。

並んで立って、何も描かれていないものを一枚ずつ見ていく。何も描かれていないのに、説明されている気がする。

額のガラスに自分たちが映る。その映り込みを指でなぞるふりをして、触れないでやめる。触れないことで、逆に輪郭が濃くなる時がある。

細い糸を扱う店に寄る。

同じ白でも温度が違うことを指先で知る。冷たい白、柔らかい白、少し黄みが差す白。

一本だけ購入するふりをして、やはり買わない。買わないことを選ぶ練習。選ばないこともまた、ひとつの選択だと確認する。

店を出ると、空気の層が一段変わっている。さっきより軽い。肩にのっていた見えない重さが、後ろへ移る。

古いエレベーターで屋上へ。

金属の箱の中では音が丸くなる。互いの呼吸が箱の角を丸くして、天井の薄い灯りが額におとなしく降りる。

屋上の手すりは低い。遠くのビルの窓が午後を配っている。

風が、髪の毛の一本ずつを好きな方向へ動かす。風の指がそうしているのだと思えば、乱れは乱れではなくなる。

並んだ影が、手すりの隙間で別々に切れて、床でまた一つになる。切れて、また一つになる。それを数えながら、数えること自体を途中でやめる。


——


最後に来るのは、音だ。

地下道に降りると、靴音が一拍遅れて返ってくる。返ってくる音は誰のものでもあり、誰のものでもない。

壁のポスターの角が少し浮いていて、空気がそこを通るたびに小さな羽音がする。羽のない羽音。

ガラス越しに小さな水槽が並ぶ店をのぞく。水は音を持たないのに、見ていると音が増える。泡が上へ昇る速度で、心の速度も上がったり下がったりする。

地下道を抜けると、外気が少し冷たい。階段の一段目で勢いを測り、二段目で今日は無理をしないと決め直す。決め直すのは臆病ではなく、約束だと理解する。

夕刻には早いけれど、影は朝より長い。

ベンチの背で、二人分の背中が同じ木目を共有する。

何かを言えば、きっと正しい。言わなくても、たぶん正しい。

言わないを選ぶ練習は、今日もうまくいく。言わないことで動き出すものがある。

遠くで拍手のような音がして、空気が一度だけ軽くなる。

そこで、合図が喉の奥に灯る。長くしない、引き延ばさない。続きの場所を守るための、短い灯り。


——


「五分前です」


すこし遠いところから、やさしい声。

ゆっくりと、ここに戻る。光の粒が、部屋の光に重なり、音も連れて帰ってくる。

目を開ける準備をする。短く息を整える。ブランケットの縁が、指の下に戻ってくる。

カーテンの隙間から、三浦さんが顔をのぞかせる。


「お帰りなさい」

「ただいま」

「体調、いかがですか」

「大丈夫です」

「お疲れさまでした。本日は三枠連続のご利用でした。変わりありませんか」

「はい。大丈夫です」


バンドを外してもらう。額のパッドもそっと外れる。

椅子の背に軽く手を置く。背中が自分の重さを思い出す。紙コップの水を半分飲み、残りも飲み干す。唇に触れた紙の温度が、今度ははっきりわかる。


廊下を戻るとき、壁に四枚の紙がまっすぐ貼られているのを確かめる。

角がきちんと合っている。それだけで、少し安心する。紙は言いすぎないが、必要なことは忘れない——付せんと同じだ。


受付で、小さな飴をひとつもらう。


「ありがとうございました、遠野さま。次回も午後二時でお取りしてあります」

「助かります」


口に入れると、柑橘の味が広がる。飴はゆっくり溶ける。時間も、飴みたいに溶けてくれたらいいのに、と一瞬思って、やめる。


自動ドアが開く。外は、来たときより少し白い。

ポケットの中の鍵の角をもう一度確かめる。

横断歩道の白い帯は、向こうまでまっすぐ伸びている。信号が青に変わるのを待つ間、自分の影の長さを一度だけ見る。長くも、短くもない。


帰り道があるうちは、帰ってくる場所のことを考えておく。


ドアを閉めると、部屋の静けさが形を取り戻した。

冷蔵庫の扉の付せんの列に、もう一枚足すかどうか少し迷って、やめる。

紙にしてしまうと、そこにしか行けなくなる。次の角の形だけを、頭のなかに置いておけばいい。


椅子に腰を下ろす。 


窓の向こうで、雲がほどけていく。

今日も、ちゃんと帰ってこられた。

それだけで、すこしだけ安心する。

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