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第三話 川べりの午後

昼前の光は、同じ角度で窓に来る。


律は時計を見ない。見る必要がないからだ。氷水のピッチャーが薄く汗をかき、店のベルが高い音を一度だけ置く——そのころ、ガラスにやわらかな人影が映る。


「こんにちは」

「こんにちは」


店の中では、自然と敬語になる。声を落としてやり取りする空間では、そのほうが落ち着く。

葵は三つ目のハイチェアへ。座る前に鞄の持ち手を指で直し、前髪を耳にかける。律はその小さな段取りを知っているのに、見るたび胸の奥が少しだけ新しくなる。

拓海がブレンドを二つ置き、砂糖壺を真ん中に寄せる。


「今日のは、少しだけ深めだよ」

「ありがとうございます」

「いただきます」


湯気の向こうで、葵の瞳の輪郭がやわらいで見える。葵は紙ナプキンを四角に折り、カップの下へ差し込んだ。折り目はくっきりしているのに、仕草は柔らかい。——この人は整えるのがうまい、と律は思う。テーブルの上の小さな乱れも、会話のゆらぎも、指先で形を整えてしまう。

砂糖壺に伸びた二人の指が、ふわりと触れて、すぐ離れる。


「すみません」

「いえ、どうぞ」


一秒より短い温度だけが、指先に残った。


「このあと、外に行きませんか」

「行きましょう。風、強くないですよね」

「今は大丈夫そうです」


二人でドアを押す。外気は軽く、光は足元に転がるみたいだ。信号がちょうど青に変わり、横断歩道の白い帯が向こうまで伸びる。

店を一歩離れると、自然に口調がほどける。


「さっきの一杯、音が丸かった」

「音?」

「うん。舌じゃなくて、耳に落ちてくる感じ」

「わかるような、わからないような」

「わからない、でいいの」


葵は肩をすくめて笑う。その笑い方は、律の緊張をいつも半歩分だけ軽くする。


角を一つ、二つ。

商店街の端で、子どもがシャボン玉を吹いていた。風に乗って、透明な球が列になり、二人の前を横切っていく。ひとつが葵の肩先で弾けて、光の粒だけが残った。


「割れる音って、ないんだね」

「静かな破片、って感じ」

「目だけが音を聞いた気がする」


葵は指先で空を撫で、もう一つの球にそっと触れる。触れた瞬間、それも静かに消えた。


「こういう消え方、好き」

「音がないのに、合図にはなる」

「うん。続きへ、っていう合図」


川が見えてくる。陽は少し高く、水面の粒は細かい。欄干に肘を置くと、影が二つ並んで長くなる。ひとつはまっすぐ、もうひとつは頭を少し傾けている。

葵が欄干をとん、と二度叩いた。音は軽い。

(今日は歩ける)と葵は思う。理由はうまく言えない。ただ、足が前に出る前から、もう前に出ているような日がある。


「ね、今日は、どこまででも行けそう」

「ほんと?」

「うん。気持ちが前に行く」


律は川下を顎で示す。

「じゃあ、あの桜の手前まで遠回りして、ポスターの劇場をのぞこう」

「のぞくだけ——のつもりで」


橋の下から灰色の鳩が低く飛び出し、二人の頭上を斜めに横切る。羽の音は紙で風を切るみたいに、しゃっと薄い。


「この音、好き」

「僕も。聞こえたって言うより、肌に当たったって感じがする」

「そう、それ」


言葉の狭さが、逆に通路になる。たとえば「しゃっ」という擬音が、二人だけの合図みたいに働く。

掲示板には、小さな劇場のポスター。


「これ、観たい」葵が上段の紙を指す。

「今日やってる」

「でも、途中で出るかも」

「大丈夫。ここは怒らないタイプの劇場だよ」

「何それ。でもそういうタイプ、好き」


意味のない確信でも共有できれば、距離は少し縮む。

古い扉を押すと、館内の空気は少し冷たい。椅子は浅く沈み、布の擦れる音が散る。


「どのへんに座る?」

「前から四列目。枠が視界の端に残るくらいがいい」

「わかる。全部入っちゃうと、呼吸の置き場がなくなる」


並んで腰を下ろす。暗くなる前の数分が、律は好きだ。葵は両手を膝の上で重ね、指を少し組み替えて落ち着く位置を探す。誰にも見られていない仕草なのに、その一手で心の中の椅子も座り直す。


ーー上映が始まる。


遠くの雨の音から、室内の生活音へ。登場人物たちはよく走り、よく笑い、よく立ち止まる。

走る場面で、葵の呼吸がわずかに速くなる。律は視界の端でそれを知り、前を向き直る。気づいていることを知らせない距離感が、今はちょうどいい。

終盤、窓から光が差す場面で、葵が小さく囁く。


「この光、好き」

「うん」


それだけで、感想の半分以上が分け合えた気がした。

エンドロール。文字が上へ流れ、館内の空気がゆっくり戻ってくる。

立ち上がる気配を持たない観客が何人か、同じ列にいる。二人も立たない。立たないでいられる時間は、心地いい。

やがて明かりが上がり、布の音が増える。


「椅子、意外ときしんだね」

「いい音だった」

「そこ?」

「そこが好き」

「わかる」


外に出ると、空は白く、街路樹の影は薄い。

劇場の前で葵がひとつ伸びをする。肩の線がほどける。


「帰りにパン屋、のぞく?」

「今日は見るだけにする。次に来る理由、残しとこう」

「賛成」


商店街へ戻る道、話題は小さく揺れる。好きな予告編、子どものころに怖かった音、雨の日の匂い。


「怖かった音?」

「洗面所の換気扇。夜は唸ってる気がして」

「ある。冷蔵庫のやつも。コォォって」

「そうそう」


正確じゃない擬音で通じ合えるのは、同じ場所を通ってきた証拠みたいで、少しうれしい。

パン屋の前。ショーケースの丸いパンが光っている。


「次は買って川まで持っていこう」

「うん。次の“次”くらいに」

「先を長く置いとく言い方、好きだな」

「帰り道がある前提で話すの、好き」


交差点の手前で、葵が腕時計をちらと見た。まぶたがわずかに揺れる。


「……そろそろ、帰らなくちゃ」

「うん」


(帰らなくちゃ)という合図を、二人は何度も練習している。引き延ばさない代わりに、次の角の形を想像して、それを約束に置き換える。


「連絡先、やっぱり交換しないんだよね?」


律が、自分への言い聞かせのように確認する。


「うん。いまは、しない」

「わかった」


言うのは簡単じゃない。でも、いまはそれでいい。


「同じ時間に、またここで会える」

「それ、かなりすごいことだよね」

「うん。すごいこと」


店の角まで戻る。ガラスに午後の光が映り、店内の音が薄く外へ漏れてくる。

拓海がこちらに気づいて、手元のクロスを止めた。


「どうだった?」

「椅子のきしみ、いい音でした」

「そこ?」


三人で短く笑って、すぐ二人に戻る。


「今日はありがとう」

「こちらこそ」


別れる角が近づく。


「また今度、この時間に」

「うん」


それだけで、十分だった。

葵は背を向ける瞬間、もう一度だけ振り返る。律も同じタイミングで笑っている。理由は訊かない。訊かないままで、二人はそれぞれの道へ歩き出す。


(明日も、歩けるといい)


葵は心の中で小さく言う。今日みたいに軽く、どこまでも——までは望まない。川の手前でいい。シャボン玉の子の角まででいい。


(帰り道があるうちに)


律は胸の奥で繰り返す。帰り道が細くならないうちに、またこの角で。


次の角の先に、次の午後が待っている。

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