第二話 午前の手すり
手すりに触れると、冷たさが皮膚の皺に沿って入ってくる。
朝はたいてい、この感触から始まる。階段の一段目で足首を確かめ、二段目で息の長さを測る。三段目で、今日は無理をしないと決める。四段目で、もう一度だけ無理をしないと決め直す。
台所には昨夜のマグカップがひとつ。
底に残った輪を、キッチンペーパーで四角く折って拭う。四角にすると、端まできれいに拭ける。手は勝手にそう動く。誰に教わったかは思い出せない。こういう手の記憶は長生きだ。
冷蔵庫の扉には小さな付せんが並んでいる。
「ゴミ(木)」「牛乳」「鍵!」——感嘆符は自分に向けてだ。最近は忘れることが多い。忘れてから思い出すより、先に紙にしておくほうが呼吸にやさしい。付せんは角を合わせて貼る。角がそろうと、頭の中の音が少し静かになる。
ラジオをつけて、天気の数字だけ聞いて消す。
テレビ欄に丸はつけない。七十五になってから、夜更かしをやめた。趣味と呼べるものは特にない。郵便受けには年金の振込のお知らせ。封は開けずに、通帳の横に重ねる。必要な紙は目に見えるところに置くといい。見えなくなると、なかったことになる。
居間の棚に、小さな写真立てが二つ。色の退いた家族の写真。
片方は両親、もう片方は若いころの自分がどこかの海で笑っている。結婚はしなかった。家は静かで、静けさにはすぐ慣れる。
「行ってきます」と声に出す習慣は、いつのまにか抜けた。独り身の声は、部屋に軽く跳ね返ってくるだけだからだ。
玄関には靴が一足。踵を合わせて足を入れ、紐を結ぶ。ゆっくりでいい。ほどけたら、結び直せばいい。
ドアの施錠を二度確かめ、ポケットの鍵を指で探る。金属の角が触れれば、大丈夫の合図になる。
外に出ると、空気は思ったより乾いていた。
角をひとつ曲がるごとに、息の上がり方を確かめる。浅い呼吸は嫌いじゃない。深く吸うと背中の蝶番がきしむから、今日は浅く短く。
郵便受けの上に回覧板。地域センターの告知が挟まっている。「見学会」「午後二時」——眺めるだけにして、元に戻す。参加するでも、しないでもない距離感が今はちょうどいい。
いつもの道は、いつもの順番で並んでいる。
パン屋の窓、古本屋の段ボール、信号待ちの列。パン屋の前を通ると、温かい匂いが鼻をくすぐる。買うほどの元気があるかどうか、足が先に判断する。今日はやめておく。窓の中で並ぶ丸いパンの艶だけをひとつ眺めて通り過ぎる。
古本屋では店主が背表紙の埃をはらっている。表紙に手を伸ばして、やめる。いまは持ち物を増やさない日だ。
ベンチに腰を下ろすと、木の固さがそのまま骨に伝わってくる。
膝に手を置き、指の節をさする。皮膚は薄く、血管の走り方が目で見える。手のひらを伏せたり返したりして、温度の違いを確かめる。冷たい面と、少しだけあたたかい面。どちらも自分の手だ。
道の向こうで、誰かが笑った。
笑い声は、近くの音でも遠くの音でもない。輪郭のはっきりしない、昼前の音だ。目を閉じると、明るい窓辺の席を思い出す。グラスの縁に指を置く癖。砂糖壺の小さな音。思い出すつもりがなくても、順番に浮かんでくる。
私は静かに目を開ける。思い出は、心臓に負担をかけない速さで思い出すべきだ。急ぐと、息が跳ねる。
立ち上がる。ベンチのきしむ音を背中に置いて、商店街を抜ける。
角の家の植木鉢に水をやる手が止まった。
「おはようございます」
「おはよう。今日はあったかいですね」
「ええ、助かります」
それ以上は続けない。会話も、荷物と同じで、片手で持てる重さがちょうどいい。
横断歩道の白い帯は、向こうまでまっすぐ伸びている。
信号が青に変わるのを待つ間、ポケットの中で鍵を握り直す。金属の角が指に触れて、ここにいることを思い出させる。
青になった。渡る。足元のタイルの継ぎ目で、靴が少しだけつまずく。何でもないふりで歩幅を整える。何でもないことは、だいたい何でもない。
用事はたいしたことじゃない。
乾いたスポンジ、きれていた封筒、切手を数枚。必要なものは、たいがい小さい。小さいものを集めてかごに入れ、袋に移す。持ち手が指に食い込むほど重くはない。帰り道の両手がふさがらないように、片方だけに重さを寄せる。
レジで「切手、組み合わせますか」と聞かれて、「お願いします」と答える。どこに貼る用かは思い出さないでおく。帰って付せんを見ればわかる。わかるなら、いま思い出さなくていい。
店を出て、少し遠回りをする。
たまに違う角を使うと、同じ景色が少しだけ若く見える。電柱の広告が新しくなっていた。知らない整骨院の名前。書体がやけにまっすぐで、読みやすい。
公園の端をかすめる。滑り台の階段に、小さな靴の列。順番待ちのあいだに子どもが鳩を追って、鳩が低く飛ぶ。羽の音は、紙で風を切るみたいな、しゃっとした音だ。私はその音を知っている気がする。
ベンチは空いているが、座らない。座ると、今日は立ち上がるのが遅くなりそうだ。
家の方角へ戻る。風がひと筋、頬を撫でる。
目を細めると、世界の輪郭がほんの少しやわらかくなる。信号の赤が、思っていたより遠い。立ち止まって、呼吸を数える。四つ吸って、六つ吐く。六つ吐くのが難しい日は、五つでやめる。やめてもいい、と先に決めておくと、体が少し軽くなる。
階段の前で、手すりに触れる。朝と同じ冷たさ。
一段目で足首を確かめ、二段目で息の長さを測る。三段目で、今日は無理をしないとあらためて決める。四段目で、もう一度深呼吸。
鍵を回し、部屋に入る。ドアを閉めてから、ふいに胸が冷えた。——ガス。
台所へ行き、つまみを指で確かめる。閉まっている。そこまでして、やっと呼吸が戻る。水道をひねり、音を一度聞いて、止める。
テーブルの輪はもう消えている。
四角く折った紙を丸めて、ゴミ箱に落とす。静かな音がした。通帳の横に、また一枚付せんを足す。「ガス(夜)」「鍵(外すな)」と書いて貼る。紙は言いすぎないが、必要なことは忘れない。
時計を見て、「午後——」ともう一枚に書き出して、やめる。言葉にしてしまうと、輪郭が固まる。固まるということは、そこにしか行けなくなるということだ。
椅子に腰を下ろすと、背中が自分の重さを思い出す。
窓の向こうで、雲がほどけていく。誰かが遠くで笑う。笑い声は、近くの音でも遠くの音でもない。昼前の音だ。
写真立ての前を通り過ぎる風に、ほんの少しだけ頭を下げる。声にはしない。声にすると、部屋がその形に固まってしまうから。
帰り道があるうちは、帰ってくる場所のことを考えておく。
今日も、ちゃんと帰ってこられた。
それだけで、少しだけ安心する。紙に「明日——」と書こうとして、やめる。明日のことは、明日の角で考える。
私は付せんの角を指でそろえ、机の端に置いた。角がそろうと、頭の中の音がまた少し静かになった。