表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/18

第十八話 奥に沈んだもの

あの場所をやめてから、季節はいくつも重なった。

最初の一年は、思い出さないようにすることに力を使った。二年目は、思い出しても自分を乱さない練習をした。三年目には、思い出す回数そのものが減った。減ったというより、奥へ沈んだ。沈んだものは、なくならない。ただ、手が届きにくくなる。


日々はそれなりに整っていた。

湯を沸かす。窓を開ける。畳んだものを棚へ戻す。買い物袋を腕に下げる。夕方のニュースを流しっぱなしにして、聞いていないふりをする。そういう小さな順番が、生活を“生活”にしてくれる。私はそれを覚え直した。


体のほうも、歳相応に軋むだけで、壊れているわけではなかった。

階段では一度だけ手すりに指を添える。天気の悪い日は、肩が先に曇る。そういう程度のことだ。

通院は、いつのまにか「特別」ではなくなっていた。病気を治すためというより、古い家屋の点検みたいなものだ。血の薄い数字を測って、鼓動の規則を確かめて、聴く器具で音の揺れを拾う。たまに採って、たまに写して、たまに「変わりない」と言われる。その“変わりない”が、ありがたい日もあれば、ただの挨拶に聞こえる日もある。


それが、ある冬の終わりから、少しだけ変わった。

息が切れるというほどではない。ただ、深く吸い込んだときに胸の奥が遅れてついてくる。乾いた咳が、言い訳みたいに短く出る。夜中に目が覚めて、水を飲んでも喉のざらつきが残る。

「歳のせい」と片づけられる形をしている。だから私は、最初は片づけた。片づけたまま、少しずつ棚がいっぱいになっていく感じだけが残った。


検査が増えた。

いつもより長く写す日があり、別の日には“採る”という言葉が増えた。管の匂い、消毒の冷たさ、紙の上を走るペンの音。病院の廊下はいつも同じ色をしているのに、その頃から、光が少し遠い。


結果を聞く日は、雨だった。

窓の外が白く曇って、車の音が湿っている。待合の椅子の並びに、季節とは関係のない静けさがあった。私は膝の上で手を重ね、指先の乾きをこすり合わせて、時間を細くした。


診察室で言われたことは、まとまった文章ではなく、いくつかの塊として残っている。

胸の奥に、影があること。追加で写したものと、採ったものの結果を合わせると、そこに「良くない性質」が確かにあること。大きさだけではなく、別の場所にも同じ種類のしるしが見えること。

そして、段階としては浅くない、ということ。


病名をきれいな札のように渡されるより、私はその“性質”で理解した。

「ここにある」「他にもある」「急に崩れる話ではないが、放っておく話でもない」――その三つが、いちばん重かった。


言われた内容を自分の中で並べ替えると、こういうことになる。

もう「取って終わり」にはしにくい。けれど「何もできない」でもない。

体の強さや暮らし方に合わせて、いくつかの手立てを組み合わせていく。光を当てるやり方、薬で追い詰めるやり方、体の守りの仕組みを助けるやり方。状況によっては、狭い場所を大きく扱うより、全体を落ち着かせる方を優先する。

入院も視野に入る。まずは計画を立てる。――そういう流れだ。


私は、診察室を出てからも、すぐには何も感じなかった。

感じないというより、感じるための場所が、体のどこにも空いていない。

受付の機械が紙を吐き出し、会計の番号が点滅し、廊下の角で車椅子が静かに曲がる。世界は淡々と動き続けていて、私はその中に“そのまま”立っていた。


帰り道、バスの窓に自分の顔が薄く映った。

顔は老いている。けれど、その老い方に、今日の出来事の影はまだ乗っていない。

影が乗っていないのに、胸の奥だけが妙に冷たい。

――遅れて来る。私はそれを知っている。痛みも、悲しみも、たいてい遅れて来る。


家に着いて、上着を掛け、湯を沸かした。

いつもの順番を守ると、守れた分だけ安心する。

カップに注いだ湯気はまっすぐ立った。私はその湯気を見て、ようやく、少しだけ息を吐いた。吐いた瞬間、胸の奥の冷たさが、形を持った。


ああ、これは怖さだ。

怖さは、声ではなく重さで来る。机の脚にぶつけた足の小指みたいに、しばらくしてから確かな痛みになる。


その夜、私は紙を出した。

メモではない。買い物の一覧でもない。

白い紙を出すと、余白が広すぎて、逆に落ち着かなかった。余白は、頭の中の音を増やす。だから私は、書く前に紙の端を指で押さえた。押さえるだけで、少しだけ現実が手の中に戻る。


書いたのは、短い言葉だ。

「次の検査」「説明」「入院(予定)」「保険」

そして最後に、小さく「連絡」。

連絡先はもう少ない。子どもはいない。親もいない。友人はいるが、同じ熱量の“連絡”を求めるのは違う気がする。

それでも、誰かには言わなければならない。言うことで、計画が現実になる。現実になった計画は、怖さを少し薄くする。


翌日、病院の相談窓口にも足を運んだ。

名前は柔らかいが、やることは現実的だった。治療の費用の見通し、制度のこと、入院のときに必要なもの、困ったときにどこへ電話すればいいか。

年金生活であること、保険に入っていることを伝えると、係の人は“できる範囲”を一つずつ整えてくれた。

私はそれがありがたかった。人は、優しい言葉より、段取りのほうで救われることがある。段取りは、未来に手すりを作ってくれる。


帰りの廊下で、ふと思った。

あの人は、こういうとき、どうしていたんだろう。


――ずっと奥に沈んでいたものが、そこで少し浮いた。


名前を呼ぶほど鮮明ではない。

けれど、窓辺の白い光と、カップの縁に置かれた指の形と、笑顔が“先に来る”感じだけが、ふっと胸を横切った。


私は、思い出したくて思い出したわけではない。

ただ、体が危うくなると、心は“支え”を探す。

支えは必ずしも家族や友人ではない。自分の中に残っている、いちばん確かな午後の形――それが、支えになることがある。


彼女は、体の都合を隠して笑っていた。

隠すというより、笑い方を選んでいた。

重い話を軽くするのではなく、軽い話の中に、重いものを置く。

それはたぶん、誰かの時間を壊さないための技術だった。


私は今、その技術の意味を、少しだけ理解しそうになっている。

理解してしまうと、取り返しがつかないような気もした。

だから私は、その思い出を“奥へ戻す”ことにした。戻すのではなく、そっと位置を直す。棚の奥にしまうのではなく、手の届く場所に置いたまま、埃が積もらないようにする。――そのくらいが、今の私にはちょうどいい。


入院が決まった。

日程は、まだ先のほうのカレンダーに小さく書かれた。

入院という言葉は、荷物の重さを連れてくる。肌着、薬、充電器、眼鏡拭き。暇つぶしの本。

私は、必要なものを“必要なだけ”揃えることにした。多すぎると不安が膨らむ。少なすぎると夜が長くなる。ちょうどいい量を見つけるのは、歳を重ねるほど上手くなる。


夜、保険の書類を広げた。

保障の文字は細かい。だが、読み切れないほどではない。

私は線を引かずに、付箋で目印をつけた。印は増やしすぎない。増やすと、頭の中が騒がしくなる。

“払われる”“申請する”“連絡する”。

言葉は冷たい。けれど、冷たい言葉は役に立つ。役に立つものは、怖さを少しだけ遠ざける。


そのあとで、私はカップを洗った。

洗い物は、今ここにある手の仕事だ。

手の仕事は、未来を考えすぎた頭を、いったん黙らせる。

水の音を聞きながら、私はふいに、あの午後のことを思った。


同じ時間に座るだけで、届いてしまうものがあった。

言葉の代わりに、湯気の高さで合図ができた。

あの形を、私はもう持っていない。持っていないはずだ。

けれど、今夜、胸の奥の冷たさが強くなるたび、私は“形”を思い出してしまう。


忘れていたはずなのに。

忘れたふりをしていただけなのかもしれない。

沈んだものは、なくならない。体のほうが先に、呼び戻してしまうことがある。


私は机に向かい、紙を一枚だけ出した。

長い文章は書かない。書けば不安が増える。

ただ、短く並べる。


「入院」

治療いくつか

「保険」

「相談」

「休む」


最後に、少し迷ってから、こう書いた。


「思い出す」


思い出す、で止めた。

何を、とは書かない。

誰を、とは書かない。

書かないままでも、私はわかっている。

書かないことで、まだ壊れずに置いておける。


灯りを落とす前に、窓を少しだけ開けた。

外の空気は冷たく、胸の奥まで届く前に薄くなる。

私はその薄さを、ありがたいと思った。

今夜は、深く吸い込む必要がない。浅い呼吸でも、生きていける。


布団に入って目を閉じる。

奥に沈んだものが、また少し浮く気配がした。

浮いたものを、私は押し戻さない。

ただ、手を伸ばさない。

手を伸ばさないことで、明日も起きられる。


入院の日まで、まだ時間はある。

時間があるということは、怖さを育てる余地があるということでもある。

けれど同時に、段取りを整え、息の長さを測り直し、静かな場所を作り直す余地でもある。


私は、そういうふうに考えることにした。

そのほうが、今日の冷たさに飲まれずに済む。

そして――奥に沈んだものを、最後まで丁寧に持っていられる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ