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第十七話 揺れの幅

朝、部屋の空気はまだ薄く冷たかった。

起き上がる前に、天井の四隅を順に見て回る。昨日までそこに指でなぞった気配があったような気がしたが、今日はどこにも残っていない。代わりに、胸の真ん中だけがかすかに温かい。理由ははっきりさせなくていい。


台所の棚の扉を開ける。

手を伸ばすつもりだったマグの位置が、少しだけ奥へずれていた。自分で動かしたのかもしれないし、気のせいかもしれない。

どちらでもいい。ずれたものを、もう一度、ゆっくり元に戻す。その動きが、なぜか落ち着きを連れてくる。


湯を沸かし、部屋の隅へ置いた椅子に腰をかける。

机の上に並べた付せんの角が、朝の光を細く跳ね返していた。

そこには用事の名前が並んでいるが、どれも大した内容ではない。ただ、文字の横に空いた余白だけが、妙に広く見えた。


昨日、あの建物で手続きを済ませた。

「またのご利用を」と言われることもなかった。

ここまで来たら、もう戻らないのだろうと理解している。それでも、胸のどこかで波がゆっくり立ち上がっては、また低い場所へ戻る。

決めることと、納得することは、同時にはできない。


湯気の上がり方を眺めていると、戸の向こうで新聞が落ちる柔らかい音がした。

その音が妙に懐かしい。

誰かと同じ時間を分け合った日の温度と似ている——そう体が先に思い出してしまう。


飲み終えたカップを流しに置き、上着のポケットに鍵を入れる。

今日は、いつも通らない道を歩こうと決めた。目的はない。ただ、歩幅の「向き」を確かめたかった。



家を出てすぐ右の角を曲がる。

この先は、普段なら用事がない限り歩かない。道路の白線が少しだけ薄く、電柱の番号も聞き慣れない。


一つ目の信号で立ち止まる。

渡ろうとした瞬間、ふと、あの場所で見た光と似たものが横から差した。

午後の手前のような明るさだった。

心臓がひゅっと締まり、同時にゆるむ。

懐かしさと切なさは、たいてい同時に来る。


道の左側に、細い階段があった。

段差は低いが、数は多い。まるで、どこかの“入口の手前”のように思えた。

登ってみると、踊り場の端にひっそりとベンチが置かれている。

ベンチの木目は古いが、陽に焼けていない部分が、手のひらの幅だけ残っていた。


私はそこに腰を下ろした。

風がゆっくり肩を通り過ぎる。

誰かの足音がどこかで響いて、それが波のように近づいて、また離れていく。

こうして座っていると、なぜか「会話の間」の感覚だけが体に戻ってくる。


——“同じ時間があれば、それで届く”。


誰が言ったのか、どこで聞いたのか。

思い出そうとすると、かえって遠ざかる。

けれど、胸のなかの温度だけは、はっきりそこにあった。


私はベンチの背を指で軽く叩いてみた。

ぽん、と澄んだ音がした。

その音が思いもよらない場所で心に触れた。

手を離すと、風が静かに音を持っていった。


しばらく座ってから、また歩き出す。

階段を降り、川沿いのほうへ足を向ける。

ここも初めて歩く道だ。

欄干の影がゆっくり揺れて、川面の光がまばたきのように反射する。


その瞬間、胸がきゅっと鳴る。


——少し似ている。


あの日、同じような影の揺れを見た気がする。

ただ、そこに誰がいたのか。

それを考えた途端、風景が静かに歪んだ。

記憶は、名を呼ばなくても形だけ残ることがある。

形が残れば、心は勝手に補う。


私は欄干から手を離し、川の流れを目で追った。

水の速度は一定ではない。

速いところもあれば、沈黙みたいに動かない箇所もある。

その揺れの幅が、今日の自分の揺れに似ている気がして、少し笑った。



夕方、家に戻ると、部屋の空気は朝よりすこし柔らかい。

ポケットに入れていた鍵を机の上に置く。

金属の角が光を受けて、短い線を作った。


私は付せんの列を眺める。

どれも、ただの覚え書きだ。

「牛乳」「換気」「電球」

けれど、文字の横にある余白は、朝より広く見えた。


広いのに、寂しくはない。

なにかを置くための余白ではなく、

なにかが「届いたあと」に残る余白のようだった。


椅子に座り、手を組んで天井を見上げる。

胸の奥にあった波は、朝より静かだ。

けれどゼロではない。

小さな揺れがときどき現れて、すぐに収まっていく。


その揺れが、悪くない。


“もし今日だれかが待っていたら”

そんな考えが、一瞬だけよぎる。

でもすぐに消える。

もう行かないと決めたのだ。

その決意は紙より強い。


ただ、

“同じ時間”のことをふと思い出してしまう。


いまの私は、その時間を持っていない。

けれど、持っていないなら、また作ればいい。

自分のための時間を。


机の端に新しい付せんを置き、

一行だけ書く。


——午後は、自分で立てる。


点で止める。

線にはしない。


窓の外で風の影が動き、カーテンが一度だけ揺れた。

その揺れを見ていると、胸のなかの波も、そっと形を変える。


今日は、これでいい。

明日も、きっと大丈夫だ。

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