第十四話 角をそろえる日
朝、机の端に昨夜の紙袋が残っていた。温度は抜けても、折り目だけはまだ新しい。
薄い紅茶を一杯。湯気が低いところでほどけるのを見届けてから、靴ひもを結ぶ。今日は向こうへは行かない、と決める。結び目は平たく、小さくまとまった。
停留所で時刻表を指先でなぞる。丸で囲まれた数字が二つ続いていて、間は短い。近いほうに乗る。
車内の空気は乾いていて、網棚の金具だけが鋲のように光っている。窓の外で緑の板が頬の横を斜めに滑り、交差点の赤が一瞬だけ額に触れては離れた。
めったに降りない停留所で降りる。庇は浅く、影は細い。
通りをひと筋歩き、角に来たところで理由をつけて右へ逸れる。そこに、小さな喫茶店の札が風に揺れていた。名前は覚えなくていい大きさで、「営業中」とだけ。
取っ手を引くと、紐の先の木の玉が一度だけ鳴った。二音ではない。ここは別の調子で時間が進む。
中は明るすぎず、暗すぎず。四角いテーブルが等間隔で並び、椅子の布が陽を吸っている。壁の額は少ない。
カウンターの内側に年配の店主。布巾の水をよく切ってから台を拭く。その手つきは急がないのに遅れない。
カウンターの端に腰を置く。持ってきた小さな紙袋を横に置き、角をそろえる。
コースターの影にカップの底を合わせそうになって、今日はあえて合わせない。影だけが合っていれば、それでいい気がした。
「軽いほうのコーヒーを。ミルクは少しだけ」
店主は粉を量り、ポットの底で台を一度だけ叩く。低い短音。耳の奥のどこかが、その音の形を知っている。
白い小皿がことりと置かれ、ビスケットが一枚だけ乗った。
「よろしければ」
「ありがとうございます」
抽出のあいだ、店の呼吸を数える。椅子がわずかに軋む音、新聞の紙が一枚めくられる気配、外の風がガラスの縁を短く鳴らす音。
——どこか、知っている間合いに似ている。けれど、ここは初めての店だ。
カップは音を立てずに置かれた。縁は厚すぎず、指にやさしい。
ひと口ふくむ。酸が先に立ち、後ろからやわらかな苦味が支える。舌に残る気配は短いのに、背中がゆっくりほどけていく。
砂糖には触れない。取っ手に指を添えたまま、温度の境目だけ確かめる。
「深さは、どうですか」
店主がたずねる。
「静かで助かります」
自分でも驚くほど短く答える。声は小さいのに、返事の間だけはどこかで練習したみたいに迷わない。
会計のとき、レジ横のメモ紙を一枚もらい、一行だけ書く。角を指で押さえ、丁寧に折る。折り目のまま内ポケットへ滑らせた。
言葉は短い——席の音が整います。
店主は視線でこちらの指先を追い、目尻をわずかにゆるめただけで、何も言わなかった。
扉へ向かう前に、ポケットの鍵をいちど握り直す。金属の角が指に触れて、ここが現実の側だと体に知らせる。
ドアを押す。木の玉は入るときと同じ音で一度だけ鳴った。
外に白い横断の帯。渡る前に、その幅を目で測る。昨日までの幅と、ほとんど同じだ。
帰り道は来た道をなぞらない。陽の帯と庇の影が交互に現れ、信号は長くも短くもない。
通りの園芸店の前で足が止まる。種の棚が店先まで伸びていた。
一袋だけ選ぶ。表に白い花の写真。裏の小さな字に「日当たり」「風通し」の並び。少し笑う。人にも、たぶん同じ条件が要る。
会計を済ませ、袋を手に持って歩く。紙のざらつきが指先の速度を整える。
家に着いたら、種の袋を机の左上に、昨日の封筒を右上に置く。対があると、真ん中が空く。空いた場所は、息のために残す。
薄い皿をひとつ出して、窓辺の鉢の下に敷く。最初に逃げ場を作っておくと、水は落ち着く。
紅茶をもう一度、今度は少し濃く。カップは机の中央に置く。端に合わせない置き方を、ここ数日で覚えた。
引き出しからノートを取り出し、付せんではなく紙そのものに書く。
——今日の店/角をそろえる/深さ=静か。
丸は塗らない。線も引かない。言葉は点で置いて、止める。
窓の外で洗濯物が二度だけ揺れて、止まる。
ポケットから折ったメモを出し、机の端に立てかける。弓なりに少し反って、倒れにくい形になる。
鉢の土に指の腹を当てる。湿りは足りている。水は足さない。忘れない程度に。忘れすぎない程度に。
灯りを落とす前、鍵をもう一度握る。角がはっきりしているものは、向きを作ってくれる。
今日の店の名前は覚えない。偶然の距離で見つけた場所は、偶然のままにしておく。
——たぶん、もう行かない。けれど、木の玉の一音と、深さは静かという返事は、体のどこかに残る。
窓の明るさが低く沈む。呼吸をひとつ長くして、ベッドに腰を落とす。
向こうへは行かない日を、最後まで崩さずに持てた。
明日の朝は、窓の明るさと鉢の位置を一度だけ確かめてから歩き出す。どちらへ向かうかは、そのあとで決めればいい。




